第二章
第5話
九月上旬。律佳はギリシャへ降り立った。
──ギリシャ・アテネ
日本から十七時間のフライトを経てたどり着いた地。
気候は二十五度を越える気温で、カラッと乾燥している。空は綺麗な青空が広がり、眩しい日差しが街並みを照らしていた。
観光地ということもあり、人が多い。石畳の路地、おしゃれなカフェや土産屋が軒を連ねていた。
律佳はベンチに腰を下ろすと、祖父の手帳を開く。
『一九七六年 九月十二日 ギリシャ アテネ
一時三十分、空港に到着。暑い。
市バスでホテルへ向かう 七百六十ドラクマ
猫が多い。右を向いても、左を向いても猫がいる。
夕飯は屋台。袋のようなパンの中に、野菜や肉が入ったものを食べた。 十七ドラクマ
なんという料理かわからないが、それがオススメだと店員に言われたので食べた。
美味い。
九月十三日
神殿を見に行った。
石で作った建物のようだ。ただ石の柱が立っているだけだった。
何がいいのだろうか。
昨日食べたパンを食べた。 十二ドラクマ
その先にある街へ行く。
石畳の道が多く、足場が悪い。
ここも猫が多し。少年が餌を与えていた。
小さな店も集まっていた。おそらく商店街か。店の中にも猫がいる。
この国の人は、猫がどこにいても気にしないらしい。
自由気ままな国だ。』
祖父は最初にアテネを周っている。
そして食べたのは『ピタパン』だと思う。
小麦、水、オリーブオイルを使って作った生地を焼き、空洞になった中へ食材を入れたパンだ。
祖父は名前も知らずに食べていたようだが、日記の中で何度も出てきていた。よほど気に入ったらしい。
「食べに行くか」
律佳の隣では、猫が眠っている。その様子を写真に納めると、ベンチを離れた。
ギリシャでは外食が多いようだ。レストランやカフェでは、店内に客はほとんど居らず、テラスに人が集まっている。
律佳も日陰の下で、カフェテラス席に座った。頭上にはピンクのブーゲンビリアが咲き誇っている。
ピタパンを食べていると、視線の先に歩く猫が見えた。
これが日常だといわんばかりに、空いた椅子に座るのだ。なんて呑気な生き物だろう。
その様子が祖父母の田舎の景色を彷彿とさせた。
野良猫が町を闊歩し、待ちの人たちからおこぼれの食事をもらっていたのだ。律佳も近所の飼い猫と遊んでいたのを思い出す。
律佳は猫が居座るテーブル席へ移動すれば、椅子に座る猫へ、小声で話しかけた。
「もしもーし。ヤーサス、ヤーサス」
覚えたてのギリシャ語で声を掛けてみる。
猫はピクピクを耳を動かし、「にゃー」とだけ鳴く。
「……まぁ、喋るわけないか」
すると、人の気配がしたので立ち上がった。
満面の笑みの男性店員がデザート皿を手にして立っていたのだ。彼の視線はこちらに向いている。
(見られてたな)
途端に顔が熱くなった。苦笑いしながら席に着くと、テーブルにデザートが置かれる。
しかし店員はその場から離れようとしない。気配が気になっていると、店員は英語で聞いてきた。
「君は猫と話せるのかい?」
慌てて口元を手で押さえる。飲んでいたアイスコーヒーを口から吐き出すかと思った。
「まさか!」
必死に顔を横へ振る。
日陰で涼しいはずなのに、全身が暑い。
「お兄さん、猫が好きなんだね。彼女はうちの常連客だよ。レディを口説いて食事かい?」
律佳が話しかけた猫は雌猫だったようだ。茶化されたのが余計に恥ずかしい。
しかし、本来の目的も忘れてはいなかった。店員が立ち去る前に律佳は聞く。
「この辺りに“ケット・シー”はいますか?」
律佳の問いかけに、店員はにこにこと優しい笑みを返してくる。
「うちの猫はケット・シーだよ」
それを聞いて、目を見開き、店員に体を向けた。
「本当に?!」
律佳は興奮気味に、身振り手振りを交えながら話しかける。
「人の言葉を喋ったり、二本足で歩くんですか?!」
すると店員は大口を開けて笑った。
「僕の猫はとても可愛いからね。きっとケット・シーさ。僕の知らないところで歩いているのかも」
そう言い残して店員は立ち去り、店の奥へと消えていくのだ。
ひとり残された律佳は、どこでもいいから隠れてしまいたかった。両手で顔を覆い、心の中で叫ぶ。
腹ごしらえを終えれば、律佳は『ゼウス神殿』へ向かった。
『神殿を見に行った。石で作った建物のようだ。ただ石の柱が立っているだけだった。』
日記のこの一文から察するに、ゼウス神殿ではないと思ったのだ。
──ゼウス神殿。
辺りは広い芝生で、そこに異様な出立ちで柱が建っている。その存在感に圧倒された。大きな柱が長い歴史を物語っているようだ。
しかも、ここでも猫を見かける。他の観光客たちが猫を撮ったり、触れ合っていた。
「本当に自由だな……」
律佳は遠目からその様子を眺めていた。
当時。祖父はゼウス神殿に関心はなかったようだが、律佳は嫌いではない。
この異質さが、なんとも言えない居心地になるのだ。
神殿のついでに、こっそりと猫の写真もカメラに収めた。
次に訪れたのは『プラカ地区』
ゼウス神殿から徒歩で約十分。お土産屋やレストランが立ち並ぶ通りだ。
祖父が来た時代では、これほど観光地化されていなかっただろう。
建物は二階建ての家々が並ぶ。日本ではビルに囲まれていたので、こじんまりと感じる。
しかしブーゲンビリアが咲き乱れ、石畳の階段も多い。この風情が絵本の中へ訪れたかのようだ。
レストランやカフェも多いからか、テラス席が目立つ。
テーブルと椅子が並べられ、大きなパラソルで日陰を作っていた。
ここでも猫を頻繁に見かけた。
人懐っこく、律佳が構えるカメラにも怯えない。興味津々に近付いて来ては、くんくんと匂いを嗅いでくる。
撫でても逃げず、それどころか転がって腹を見せてくるほど警戒心がない。
猫が温和なら、ギリシャ人も同様だ。
猫の写真を撮っていると、声をかけてきて「あっちにもいるわよ」と教えてくれる。
そして英語と身振り手振りで「この子は、いつもここに居るのよ」とフレンドリーに話しかけてくるのだ。
律佳はギリシャ語はわからないが、相手はなるべく英語で伝えようとしてくれる。
ギリシャの温暖な気候に、猫と人の温かさ。それらが律佳の心に染みた。
猫を撫でながら、そばに居た住民に話しかけてみる。
「この猫、ケット・シーだったりしない?」
すると女性は声を出して笑う。
「そうかもしれないわね。話したことはないけれど、夜には二本足で歩いているのかも」
と言って笑うのだ。
「妖精だったら面白いでしょうね。だけど、どっちでもいわ。そんなこと気にしたことないわよ」
女性の言葉を聞いて律佳は思う。
この国の人たちにとって、猫も同じ住民なのだ。だから、普通の猫か妖精なのかは重要ではないのだろう。
ともに生きている友人なのかもしれない。
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