第3話

 大学を出た後。律佳はリュックを膝に抱え、バスの席に揺られていた。

 熊谷からもらったコーヒーの味が、まだ体に染み渡っている。

 流れる景色を眺めていれば、車内アナウンスが流れ、降車ボタンを押した。

 

 市内の老人ホーム。律佳は受付を済ますと、目的の部屋へ急いだ。

 ドアを開ければ、一人の老人がベッドの上に寝ている。


「じいちゃん、来たよ」


 すると老人は律佳の顔を見て、笑顔を見せた。


「おう、克也。よく来たなぁ」

「うん……」


 律佳はベッドの傍へ丸椅子を置き、そこへ腰掛けた。


「元気?」

「ずーっとベッドで、退屈だ」


 律佳は笑う。


「そりゃ、そうだよ。でも無理しちゃ駄目だからね」

「この老いぼれは、どこにも行けんよ。もう、あの世に行くしか場所はないからな」


 祖父はけらけらと笑った。律佳も吊られて笑いながらも、自分の手を重ねる。

 大きくて温かいが、骨ばっている。皮膚はざらつきがあり、皺くちゃだ。


「まだまだ元気だよ、じいちゃんは。あと二十年は生きてるって」

「馬鹿言うなよ。長生きしたくもないなぁ。死ぬときゃ、ぽっくり行きたいもんだ」

「……なに言ってんの」


 律佳は半笑いながらも、その手を強く握った。

 本当に何処かへ行ってしまいそうな気がしたからだ。


「そうだ。俺さ、ギリシャ行くんだよ」


 すると祖父は眉に皺を寄せ、口を開けて怪訝な顔をする。


「ぎりしゃ?どこだ、そこ」


 律佳はリュックから一枚の紙を手に取れば、祖父の膝の上に広げた。

 ──世界地図だ。


「ここが日本で……」


 と言いながら日本を指差す。その指を真っ直ぐ西へ滑らせた。


「これがギリシャ」


 祖父は地図を凝視し、ますます眉に皺を寄せる。


「はぁ〜、こんな遠いところまで行くのか?克也、お前、大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ。もう大人だし」

「なーにが、大人だ。俺にしたらな、まだ子どもなんだよ」

「はいはい。帰ってきたら、じいちゃんにもギリシャの写真見せてあげるよ」


 律佳は地図を畳むとリュックへ戻す。


「じいちゃん覚えてる?俺に妖精の話をしたこと」


 すると祖父は少し考えるような顔をする。

 数秒後、目を開いて頷いた。


「あー、あったな。お前が妖精を見に行くって、黙って山へ行ったこと」


 律佳は首を傾げる。自分にはそんな記憶がない。


「お前、一人で山に入って。馬鹿息子め、夕方になっても帰ってきやしねぇ。街中大騒ぎで探したぞ」


 それは律佳ではない、別の人物の話だ。

 それが誰のことを言っているのか、律佳にはわかる。

 自分は一人で山に入るなど、そんな度胸もない子どもだった。ましてや祖父の言いつけを破ったりもしない。


「……覚えてないよ」

「そうなのか。俺は怒鳴りつけたんだがな。まったく……やんちゃ坊主だったからよ」


 律佳の笑顔が引きつる。

 幼い頃の律佳は、やんちゃとは遠い少年だったからだ。

 胸の奥が締め付けられる。

 いつもなら穏やかな時間だったはずが、苦痛に感じていた。

 腕時計を確認すれば、面会時間にまだ余裕がある。

 しかし律佳は立ち上がり、椅子を片付け始めた。


「もう行くね。また来るから」


 祖父は「おう」と言って、律佳を見送る。

 律佳が部屋のドアに手をかけた。その瞬間。


「克也」


 律佳は振り返る。祖父はこちらに顔を向けていた。


「母さんは、いつ来るんだ?」


 一瞬、時が止まる。心臓が跳ね上がり、視線を逸らした。


「まだ来れないって。ばあちゃ──母さんも忙しみたいだよ。父さんが家にいなくて一人暮らしだからさ」


 どうして軽々しく嘘をつけてしまうのか。とても気が重い。


「そうか。母さんによろしくな」

「……うん」


 律佳は逃げるように部屋を立ち去った。

 


 人が敷き詰められた電車の中。

 手すりに捕まりながら、ワイヤレスイヤホンを耳に嵌めていた。スマホ片手に適当な音楽を流している。

 それはまるで、様々な記憶を誤魔化そうとするかのように。雑音で頭の中を満たしたのだ。

 祖母は六年前に亡くなった。祖父は暫くは一人で暮らしていたが、やがて認知症の症状が現れたため、今は老人ホームにいる。

 律佳も祖父の様子を見に行っているのだが、祖父は律佳を『克也』と呼ぶのだ。それは律佳の父親の名前である。

 両親も祖父と面会に来ているはずだが、どうしてか父親の名前で呼ばれていた。

 もう一年は名前で呼ばれていない。悲しいが、律佳には受け入れるほかになかった。

 というより、『自分は律佳だよ。あなたの孫だよ』と伝える方が苦しいからである。

 それは「祖父が孫を忘れている」という事実を律佳は認めなければならないからだ。

 

 小学生の六年間、夏休みは必ず祖父母の家で過ごしていた。

 田んぼと畑と山しかない田舎で、都会に比べるとなにもない町だったが、子どもにとっては全てが遊び場だ。

 律佳は祖父が大好きだった。『おじいちゃん子だ』と母親から言われるくらいに。

 ただ優しいだけではない。釣りを教わり、駒遊びや凧揚げを教わり、虫取りも畑仕事も教わった。

 それらより、最も律佳の心が惹かれたものがある。

 それが『妖精』だ。

 「この町には妖精がいる」と、何度も妖精にまつわる話を聞いた。妖精の伝説、妖精の生態、妖精を見たという話まで。

 どこからどこまでが本当なのか作り話なのかは、わからないが。少年の律佳にとっては、わくわくする冒険譚を聞かされているようだった。

 あるとき。田んぼの奥の林に、律佳は秘密基地を作った。誰にも言わずにひっそりと。

 その秘密基地は大層なものではない。廃品置き場から勝手に持ち出したガラクタで作ったもので、子ども一人がやっと入れる大きさだ。

 地面に大きな木の板を置き、その上にレジャーシートを敷き、木の棒で骨組みを作り、ブルーシートをかけた。

 毎年。午前中から出掛けては、夕方になる前までその場所へ行って過ごしていた。

 いま思えば。雨風の日だって、積雪だってあるだろうに。夏には綺麗に秘密基地が整えらえていたのは、祖父が管理していたからだろう。

 そんなことも知らずに、自分は毎年その秘密基地を使っていたのだ。

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