第2話
大学を出る前に寄らなければならない場所がある。
他の生徒たちとすれ違いながら、律佳は足早に向かうのだった。
正直、大学の雰囲気はあまり好きではない。勉強をすることに苦手意識はないのだが、どうにも同年代の学生との付き合いが難しかった。
そんな律佳にも優しく接してくれる友人も少なからずいる。しかし、広いキャンパスと学生の人数を考えると、律佳は交友が狭い。
サークルの所属もなく、趣味もなく。かといって遊ぶわけでもない。
青年が唯一、興味を惹かれていたのは『民俗学』だった。
人々の営み、それに基づく伝承や文化。妖怪や都市伝説といった未知の領域。それらは彼の心に“好奇心”の種を落としてくれるのだ。
階段を降りて、目的の場所へ辿り着いた。
教授室──
律佳はそのドアを叩く。部屋の奥から『どうぞ』と声がし、そっとドアを開けた。
「失礼します」
椅子に座る中年男性の背中が部屋の奥に見える。
ゆっくりと椅子ごと、こちらに振り返った。
「ああ、君か」
教授は律佳の顔を見るなり椅子から立ち上がる。
民俗学教授──
その容姿は名前から受け取れる印象とは真逆に、華奢で柔らかな雰囲気をまとった中年男性だ。
講義中にも朗らかに微笑むような人だった。物腰柔らかで、声色も落ち着いている。
中学校の国語教師のような語り口で、講義を受けた生徒は「熊谷教授の講義は眠くなる」と言われるほど。
律佳はそんな熊谷を教授として好いていた。
「速水です。卒論の件でご相談がありまして」
熊谷は眼鏡を押し上げた。
「なにかな?」
「卒論のフィールドワークのために、ギリシャへ行こうと思っています」
律佳が言うと、熊谷は眉をひそめて首を傾げる。
「なぜ、ギリシャに?」
「それは……」
律佳は手を揉み、熊谷から視線を外して両目を泳がせた。
「まぁ、座って。コーヒーでも飲むかい?」
熊谷は瓶入りのインスタントコーヒーを手にし、律佳の返事を聞く前に作り始めた。
律佳は肩からリュックを下ろすと、パイプ椅子に座る。
「ギリシャには妖精信仰がありますよね。“ケット・シー”も多いと聞いたので」
熊谷の背中越しに声をかけた。彼は電気ケトルのお湯をマグカップに注ぎ、こちらへ振り返る。
「ミルクと砂糖は?」
「あー……砂糖でお願いします」
「角砂糖いくつ?」
「えっと……二つで」
陶器の容器から角砂糖が取り出され、ひとつ、ふたつと入れられる。
くるくると木のスプーンでかき混ぜられたコーヒーが、律佳の前に置かれた。
白い湯気が立ち上り、深いコーヒーの香りがする。
「君は、“妖精は信じてない”と言っていたのに、妖精探しのためにギリシャまで行くのかい?」
「それは──」
「君を責めるつもりはないんだ。ただ、どうしてなのかと思ってね」
律佳の言葉を遮るように熊谷が言った。それから彼は続ける。
「“ケット・シー”が何か知ってる?猫の妖精だよ。そして、ケット・シーはケルトやアイルランドの妖精のはずだけど」
律佳は頷く。
「そうです。確かにケット・シーはケルト神話やアイルランドの妖精として知られてます」
そう前置きをして律佳は語る。
「でも疑問なんです。ギリシャは猫の国と言われるくらい猫が多い。それなのに“猫の妖精”って聞きませんよね」
こちらの話に耳を傾ける教授は、律佳の話を真剣に聞いているようにみえた。
「だから、そこには理由があるんじゃないかって。それと──」
律佳は言葉を濁した。
熊谷は椅子に座り、律佳が言葉を紡ぐのを静かに待っている。
少し間を置いて、しっかりと熊谷の目を見て言った。
「ギリシャにもケット・シーがいるかも。日本だって、猫又や化け猫がいますから」
すると熊谷はテーブルに腕をつき、前のめりになる。
「それで、ギリシャに猫を見に行って、どんな卒論を書くつもりなんだい?」
聞かれた律佳は、床に置いていたリュックを膝の上へ持ち上げた。それからチャックを開き、中を漁る。
そこから一冊のリングノートを取り出すと、熊谷へ手渡した。
『卒論』と書かれたノートの表紙を教授は捲り、そこに書かれたタイトルを読み上げる。
「……人と妖精の共存のあり方について」
熊谷は無言でノートのページを捲る。その音だけが部屋に響く。
律佳は緊張しながら沈黙の時間を耐えた。
暫くすると、熊谷がノートから視線を外し、こちらに視線を合わせてくる。
「これを君が?」
「あの……さっきの授業ではすみません。本当は妖精を信じてます。でも、どうしても言えなくて」
「みんなに馬鹿にされると思ったから?」
律佳は俯き、そのまま沈黙した。膝の上で拳を握りしめる。
熊谷の問いには返事をせず、その沈黙が律佳の答えだった。
「僕は良いテーマだと思うけどね」
恐る恐る顔を上げれば、熊谷は目尻に皺をつけて笑っていた。
「行っておいで、ギリシャ。写真の提出も忘れずに」
熊谷からノートを手に取り、律佳はその場で会釈する。
つきものが落ちたような、心の軽さを感じたのだ。
「ほら、コーヒーが冷めてしまうよ。このインスタントが一番美味いんだ」
律佳はぎこちなくマグカップを手にし、コーヒーを口へ運んだ。柔らかな苦味と、濃い香りがする。
それは間違いなく、他のインスタントコーヒーより何倍も美味しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます