第一章

第1話 

 律佳りつかがギリシャへ降り立つ三ヶ月前。

 ──大学の講義室。

 大きなスクリーンを前に、中年男性が教壇に立って話している。

 広々とした階段教室では、後列の生徒は机に突っ伏して寝ていたり、スマホの画面に夢中になっていた。前列では真面目に講義を受けている生徒たちで固まっている。

 律佳もまた、真面目な生徒たちに混ざり、前列で板書をしていた。スクリーンに映し出されたスライド資料と、それに合わせた教授の解説を聞いている。

 民俗学──今日の議題は『人と妖精信仰について』だ。

 マイクを通して教授の声が講義室に響く。


「──このように、妖精信仰というものが根付いている国もあるんだ」


 教授の話を聞いていると、不意に視線があった。


「そこの青いTシャツの君。そうそう、君だよ」


 まさか声をかけられるとは思わず、律佳は困惑げに頷く。


「君は、妖精を信じてる?」


 その一言で、律佳の頭の中は真っ白になった。

 周囲の視線が刺さる。心拍数が跳ね上がり、手の平には汗がにじむ。ペンを強く握りしめ、瞬きをした。やっとの思いで喉から声を出す。


「……信じて、ないです」

「もう少し、大きな声で言ってもらえる?」


 少し間をおいて、声を張る。


「信じてないです」


 すると教授は、うんうんと首を縦に振る。マイクを握り直し、話し始めた。


「そうだね。今は“妖精を見た”と言う人は滅多にいないからね。それには理由があって、産業の発展や土地開発によって自然が少なくなったからだ。妖精っていうのは自然を好み、自然を愛す。だから街中では見かけない──」


 教授の声は遠ざかっていく。

 律佳の頭の中では、あの頃の言葉たちが蘇っていた。

『妖精なんて、いるわけねーだろ』

『こいつ、嘘つきだよ』

 小学生のクラスメイトから投げかけられた、純粋な悪意の言葉たち。それは今でも心の奥深くに刺さっている。

 それと同時に、大好きだった祖父との思い出も、静かに息づいていたのだ。

 祖父母の家は自然豊かな田舎にある。小学生の夏休みは毎年、祖父母の家で過ごしていた。

 その夏の日々も、胸の中で生きている。


「大丈夫か?顔色悪いぞ」


 隣に座る友人が、小声で聞いてきた。


「うん、平気」


 そう返事をすれば、友人は『そうか』と講義に向き合う。

 律佳も気を取り直して教授の解説に集中する。

 いつもと変わらない時間が過ぎ去っていった。

 


──講義終了のチャイムが鳴り響く。

 生徒たちは一斉に席を立ち上がった。律佳もノートを閉じ、リュックに詰めていく。

 すると、隣から声をかけられる。


「律。この後、女子も呼んでカラオケ行くんだけどさ、お前も来る?」


 友人の誘いに、律佳は首を横へ振った。


「悪い、今日は用事があってさ。また今度な」


 そう言ってリュックを背負う。

 友人は諦めた顔をしつつ、こちらを気遣うように聞いてくる。


「……いつもの老人ホーム?」

「今日、面会日なんだよ」

「そっか……また今度な」


 友人は律佳の肩を叩くと、その場を離れていく。

 その背中を見送ると、律佳は振り返ることなく講義室を出て行った。

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