第2話「一年後の世界」

一年が経った。


あの日から、一年。魔物が現れて、世界が終わって、家族が死んで、一年が経った。


俺は、生きている。


朝、目が覚めると、天井が見える。ひび割れた天井で、雨が降れば水が染み込んでくる。ここは、半壊したマンションの一室で、俺が一年間暮らしている場所だ。窓にはバリケードを作っていて、外から見えないようにしている。魔物に見つからないように、人に見つからないように。


起き上がって、窓際に行く。バリケードの隙間から外を覗くと、廃墟となった東京の街が広がっている。


崩壊したビル。錆びた車。草が生えた道路。まるで人類が滅亡してから何十年も経ったかのような光景だが、実際にはまだ一年しか経っていない。それだけ、魔物の破壊力は凄まじかったということだ。


人の気配はない。この辺りには、もう誰もいない。生存者がいたとしても、もっと安全な場所に移動しているはずだ。俺がここに残っているのは、ここが俺の家の近くだからで、いや、家があった場所の近くだからだ。


家は、もうない。魔物に破壊されて、瓦礫の山になっている。母と妹の遺体は、あの日、俺が埋めた。庭の木の下に。墓標代わりに、木の幹に母と妹の名前を刻んだ。それだけだ。


静寂。この世界は、恐ろしいほど静かだ。車の音も、人の声も、何も聞こえない。聞こえるのは、風の音と、遠くで鳴く鳥の声と、時々聞こえる魔物の咆哮だけだ。


俺は窓から離れて、部屋の隅に積んである食料を確認する。缶詰が数個。水のペットボトルが数本。残りは少ない。また、外に出なければならない。


外に出るのは危険だ。魔物がそこらじゅうにいる。だが、食料がなければ死ぬ。だから、外に出る。それだけだ。


俺は缶詰を一つ開けて、スプーンで中身を食べる。ツナ缶だ。味がしない。いや、味はするのだろうが、俺には分からない。食べることは、ただ生きるための作業で、楽しみでも何でもない。


水を飲む。ぬるい。だが、文句を言う資格はない。水があるだけマシだ。


食事を終えて、俺は武器の手入れをする。拾った金属棒と、ナイフ。金属棒は元々何だったのか分からないが、頑丈で、魔物を殴るのに使える。ナイフは錆びないように、時々油を塗っている。


魔法があるから武器は不要かもしれないが、魔法は魔力を消費する。魔力が切れたら終わりだ。だから、武器は必要だ。


手入れを終えて、俺は立ち上がる。外に出る準備をする。


リュックを背負って、金属棒を持って、ナイフをベルトに差す。窓から外を確認する。魔物の姿は見えない。だが、油断はできない。魔物はどこにでもいる。


部屋を出て、廊下を歩く。廊下は暗くて、ガラスが割れていて、歩くたびに足元でガラスが音を立てる。階段を降りて、一階に出る。


マンションの入口から外に出ると、日差しが眩しかった。空は青い。雲ひとつない。まるで平和な日のようだが、この世界に平和など存在しない。


街を歩く。崩壊したビルの間を、錆びた車を避けながら歩く。道路には草が生えていて、まるで自然が人類の遺産を取り戻しているかのようだ。


遠くで、魔物の咆哮が聞こえる。俺は足を止めて、耳を澄ます。方向を確認する。北の方だ。俺が向かうのは南だ。大丈夫だ。


歩き続ける。


目的地は、近くのコンビニだ。廃墟になっているが、まだ食料が残っている可能性がある。何度か来ているが、まだ完全には漁り尽くしていない。


コンビニに着くと、ガラスが割れた入口から中に入る。棚は荒らされていて、商品は散らばっている。床には、割れたガラスと、カビの生えた食料と、ゴミが散乱している。


俺は棚を漁る。缶詰を探す。賞味期限は切れているが、缶詰なら大丈夫だ。


缶詰を数個見つけて、リュックに詰める。水も探す。ペットボトルを数本見つけた。これで、数日は持つだろう。


そのとき、外で音がした。


足音だ。


俺は動きを止めて、耳を澄ます。足音は近づいてくる。複数だ。


魔物か。


俺は金属棒を握って、入口の方を見る。


影が見える。四本足の影。犬型の魔物だ。C級魔物で、単体なら大したことはない。だが、群れで来ると厄介だ。


影が入口に現れる。犬型の魔物が、俺を見た。赤い目。まるで血のような色だ。


魔物が唸る。低い、威嚇するような声だ。


俺は金属棒を構えた。


魔物が飛びかかってくる。速い。だが、予測できる動きだ。


俺は横に避けて、魔物の側面に金属棒を叩き込む。魔物が鳴いて、床に倒れる。だが、すぐに立ち上がる。


魔物がまた飛びかかってくる。今度は避けずに、正面から迎え撃つ。


俺は左手を魔物に向けて、魔法を発動する。


「燃えろ」


火が生まれる。俺の手から、炎が放たれて、魔物を包む。魔物が鳴き声を上げて、炎に包まれながら暴れる。やがて、動かなくなる。死んだ。


俺は火を消す。魔物の死体が床に転がっている。焦げた肉の匂いがする。


外を確認する。他に魔物はいない。だが、油断はできない。この匂いに釣られて、他の魔物が来るかもしれない。


俺は急いでコンビニを出た。


街を歩いて、マンションに戻る。途中、魔物には遭わなかった。運が良かった。


マンションに戻って、部屋に入る。リュックから食料を取り出して、隅に積む。これで、また数日は持つ。


窓から外を見る。日が傾いている。もうすぐ夜だ。


夜は危険だ。魔物の活動が活発になる。だから、夜は外に出ない。部屋に篭って、朝を待つ。


俺は簡易ベッド(床にマットレスを敷いただけのもの)に座って、缶詰を開ける。夕食だ。


缶詰を食べながら、俺は考える。


一年、生き延びた。何のために。


家族は、もういない。友人も、もういない。この世界に、俺が守るべきものは何もない。


それでも、俺は生き延びている。


なぜか。


分からない。


ただ、死にたくない。そう思うから、生き延びている。それだけだ。


あの日、俺は誓った。この世界を、終わらせると。魔物を、全て殺すと。


だが、一年経って、何も変わっていない。魔物は相変わらず溢れていて、世界は相変わらず崩壊している。俺一人では、何も変えられない。


それでも、俺は戦う。生き延びるために。それだけだ。


缶詰を食べ終えて、俺は横になる。武器を手の届く場所に置く。いつでも戦えるように。


窓の外を見る。月が出ている。満月だ。月の光が、廃墟となった街を照らしている。まるで、この世界を弔っているかのようだ。


そのとき、遠くで何かが光った。


俺は起き上がって、窓に近づく。


光は、街の向こう、ビルの向こうで光っている。何だ、あれ。


魔物の魔法か。だが、魔物がこんな光を放つのは見たことがない。


不気味だ。


俺は窓から離れて、ベッドに戻った。


明日、確認しに行くか。いや、関わらない方がいいかもしれない。


だが、何かが引っかかる。あの光は、何か違う。魔物とは違う、何か。


俺は目を閉じた。


浅い眠りだ。いつでも目を覚ませるように。




朝、目が覚めると、外が騒がしかった。


いつもは静かな廃墟の街が、今朝は違う。何かの音がする。咆哮と、足音と、何かが壊れる音。


俺は飛び起きて、窓に駆け寄った。バリケードの隙間から外を覗くと、街中に魔物がいた。


魔物の大群だ。


犬型、猫型、鳥型、様々な種類の魔物が、街中を走り回っている。いつもなら、こんなに大量の魔物が一箇所に集まることはない。魔物は縄張り意識が強くて、同じ種類の魔物同士でも争う。それなのに、今は違う。まるで何かに追われているかのように、一斉に同じ方向へ走っている。


北の方へ。


昨晩、光が見えた方向だ。


俺は武器を手に取って、部屋を出た。何が起きているのか、確認しなければならない。このまま部屋に篭っていても、魔物の大群がこっちに来たら終わりだ。


マンションを出て、街に出る。


魔物の群れが、俺の横を駆け抜けていく。俺に気づいているはずだが、襲ってこない。まるで俺など眼中にないかのように、ただひたすら走っている。


何かがおかしい。


俺は魔物の群れとは逆方向、北の方へ向かって走った。


街を抜けて、崩壊したビルの間を走る。魔物の咆哮が遠ざかっていく。静かになる。


そして、俺は「それ」を見た。


ビルの向こう、広場のような場所に、「それ」がいた。


黒い霧のような何か。


人型に近い。だが、輪郭が曖昧で、まるで煙のように揺らいでいる。高さは3メートルほどあって、地面に足はついていない。浮いている。


そして、目がある。


赤い目。


二つの目が、俺を見ていた。


他の魔物とは明らかに違う。これは、何だ。


俺は金属棒を構えて、警戒した。


「それ」が動いた。ゆっくりと、俺の方へ近づいてくる。まるで重力を無視しているかのように、地面を滑るように移動してくる。


俺は後ずさった。だが、逃げるべきか、戦うべきか、判断がつかない。


「それ」が、口を開いた。いや、口があるわけではない。だが、声が聞こえた。


『人間か』


俺は驚愕した。喋った。魔物が、言葉を喋った。


「お前、喋るのか」


俺は思わず声を出していた。


『我は、魔王の欠片』


魔王の欠片。何だ、それは。


『貴様、魔法使いだな』


「それ」は俺を見て、そう言った。どうして分かる。


『魔力を感じる。貴様、なかなか強い』


俺は金属棒を構えたまま、警戒を解かない。


「お前は何だ」


『既に言った。我は、魔王の欠片。魔王が砕け散った破片の一つ』


魔王。魔物を生み出した存在か。だが、砕け散った、とはどういうことだ。


「魔王は死んだのか」


『死んだ。だが、完全には消えていない。欠片が、世界中に散らばっている』


「それ」は淡々と答える。まるで、俺と会話することに何の興味もないかのように。


『貴様に、提案がある』


「提案?」


『契約しないか』


契約。


『我を宿せ。そうすれば、力を与えよう』


力。


『貴様の望みは何だ』


俺の望み。


魔物を倒すこと。この世界を、終わらせること。


「力をくれるのか」


『そうだ』


「条件は」


『貴様の体を宿とする。それだけだ』


『代わりに、我は貴様の力となる』


俺を支配するのか、と聞こうとしたが、「それ」が先に言った。


『支配はしない。我は貴様に従う。貴様の意志が、我の意志だ』


本当か。


『信じるかどうかは、貴様次第だ』


俺は考えた。


この「魔王の欠片」が何者なのか、分からない。信用できるのか、分からない。だが、力が欲しい。この世界で生き延びるため、魔物を倒すため、力が欲しい。


「…分かった」


俺は答えた。


『では、左腕を差し出せ』


左腕。


俺は金属棒を置いて、左腕を「それ」に向かって差し出した。


「それ」が近づいてくる。黒い霧が、俺の左腕に触れる。


次の瞬間、激痛が走った。


まるで左腕を内側から焼かれているかのような、いや、内側から引き裂かれているかのような痛みだ。


俺は叫んだ。


黒い霧が、左腕に入り込んでくる。皮膚を突き破って、筋肉を突き破って、骨に達する。痛い。痛い。痛い。


俺は膝をついた。左腕を押さえる。だが、痛みは止まらない。


左腕が黒く染まっていく。まるで炭のように、いや、まるで夜そのもののように、黒く染まっていく。


やがて、痛みが収まった。


俺は荒い息をつきながら、左腕を見た。


左腕が、黒い。


肩から指先まで、完全に黒い。まるで左腕だけが別の生き物になったかのようだ。


そして、声が聞こえた。


『契約成立だ』


声は、頭の中で響いている。


「お前、左腕にいるのか」


『そうだ』


黒い霧は消えていて、もう目の前にはいない。左腕に、入り込んだのだ。


『試してみろ』


「何を」


『貴様の魔法を』


俺は立ち上がって、右手を前に向けた。火炎魔法を使う。


「燃えろ」


火が生まれる。


だが、いつもと違う。


炎が、巨大だ。


いつもなら、手のひらサイズの炎が放たれるだけだが、今は違う。炎が竜巻のように渦を巻いて、前方に放たれて、崩壊したビルの壁を焼き尽くした。壁が溶けて、崩れる。


俺は呆然とした。


「これは…」


『これが我の力だ』


左腕が、勝手に動いた。いや、動いたというより、左腕が意志を持っているかのように、俺の意志とは関係なく動いた。


「おい」


『安心しろ。貴様の体を勝手に動かすつもりはない。ただ、力を示しただけだ』


左腕が元の位置に戻る。


『我は貴様の力となる。貴様の意志が、我の意志だ』


俺は左腕を見た。黒い左腕。この腕が、魔王の欠片。


「お前の名前は」


『名前など無い。好きに呼べ』


「…左腕でいい」


『好きにしろ』


左腕。俺は、魔王の欠片を左腕と呼ぶことにした。


『貴様の望みは何だ』


「魔物を倒すこと。この世界を、何とかすること」


『面白い』


左腕が笑った。いや、笑ったというより、声に笑いの響きがあった。


『面白い人間だ。付き合ってやろう』


俺は左腕を握った。黒い左腕。この力で、魔物を倒す。


だが、不安もある。この左腕は、本当に俺に従うのか。いつか、俺を支配しようとするのではないか。


『心配するな』


左腕が言う。


『我は貴様を支配しない。貴様が死ねば、我も消える。我は貴様と運命を共にする』


本当か。


『信じるかどうかは、貴様次第だ』


俺は左腕を見た。


信じよう。今は、それしかない。


俺は金属棒を拾って、街に戻った。


マンションに戻って、部屋に入る。窓から外を見ると、魔物の大群は去っていて、街は静かになっている。


俺は左腕を見た。黒い左腕。


この力で、何ができる。


試してみたい。


だが、今は疲れた。


俺はベッドに座って、缶詰を開ける。


左腕が、勝手に動いて、缶詰を掴んだ。


「おい」


『すまん。少し動かしてみたかった』


左腕が元に戻る。


「勝手に動かすな」


『了解した』


妙な感覚だ。左腕が、別の生き物になったようだ。


俺は缶詰を食べた。


左腕が、また声をかけてくる。


『貴様、一人で生きているのか』


「そうだ」


『家族は』


「いない。死んだ」


『そうか』


左腕は、それ以上何も言わなかった。


俺は缶詰を食べ終えて、横になった。


左腕を見る。黒い左腕。


これから、どうなる。


分からない。


だが、少なくとも、俺は一人ではなくなった。


左腕がいる。


妙な仲間だが、仲間だ。


俺は目を閉じた。


眠る。


左腕が、小さく呟いた。


『おやすみ』


俺は返事をしなかった。


夜が更けていく。

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