終わらせるための魔法使い――魔物パンデミックと、壊れた世界の正しさ――

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第1話「日常の終わり」

朝、目が覚めると、母が朝食を作る音が聞こえた。味噌汁の匂いが階段を登り、俺は誘われるように布団から出て階段を降りた。


リビングに入ると、母がキッチンに立っていて、焼き魚と卵焼きを準備している。エプロン姿の母は、いつも朝早くから家族のために動いている。妹はもう席についていて、スマホを見ながら朝食を待っていた。制服姿の妹は高校2年生で、最近は俺とあまり話さなくなった。思春期というやつだろう。


「おはよう」


母が振り返って笑顔を見せる。俺は頷いて席に座った。


テーブルに並ぶのは、ご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、それに小鉢の煮物。母は毎朝これだけのものを用意してくれる。父はもう出勤していて、俺たちが起きる前に家を出ている。会社員の父は毎朝6時には家を出て、満員電車という名の缶詰に詰め込まれて都心の会社へ向かう。家族のために、毎日あの地獄のような通勤に耐えているのだ。


「今日も暑くなるって言ってたわよ。水分補給忘れないでね」


母が言う。俺は頷いた。妹はスマホから目を離さずに返事をする。


朝食を食べながら、母が話しかけてくる。


「今日帰り遅くなる?」


「いや、夕方には帰ると思う」


「そう。じゃあ夕飯何がいい?」


「何でもいいよ」


母は少し困ったような顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。


「じゃあ、カレーにしようかしら。あなたカレー好きだものね」


「ありがとう」


母は嬉しそうに頷いた。妹はまだスマホを見ている。俺は妹に声をかけようかと思ったが、やめた。最近の妹は俺と話すのを避けているように見える。無理に話しかけて嫌がられるのも気まずい。


朝食を食べ終えて、歯を磨いて、着替えた。鏡を見ると、少し寝癖がついている。直すのも面倒だが、一応手で撫でつけた。大学生にもなって身だしなみを気にしないのもどうかと思うが、かといって完璧にする気力もない。


「行ってきます」


玄関で靴を履くと、母が出てきた。


「いってらっしゃい。気をつけてね」


「うん」


母の笑顔を見て、俺も少し笑った。妹も一緒に家を出る。


玄関を出ると、初夏の日差しが眩しかった。まるで世界が光に包まれているようで、一瞬目を細める。駅までは徒歩15分ほどの道のりだ。


妹と並んで歩くが、会話はない。妹はイヤホンをして音楽を聴いていて、俺もイヤホンをつけてスマホから曲を流した。静かな住宅街に、車の音と鳥の鳴き声が聞こえるはずだが、イヤホンをつければそれも消える。静かな住宅街もイヤホンをつければライブ会場に一変する。


空は青い。雲ひとつない。まるで絵に描いたような晴天で、今日一日が平和に過ぎていくことを予感させる。


住宅街を抜けて、商店街に入る。開店準備をしている店もあれば、まだシャッターが閉まっている店もある。朝の商店街は静かで、人通りも少ない。


妹と俺は無言で歩く。兄妹なのに、まるで他人のようだ。いつからこうなったんだろう。小さい頃は、妹はよく俺の後をついてきた。一緒にゲームをしたり、公園で遊んだりした。でも、妹が中学生になってから、徐々に距離ができた。そして今では、こうして無言で歩くのが当たり前になっている。


それでも、俺は妹のことを心配している。学校で何か嫌なことがあったら、ちゃんと話してほしい。でも、妹は俺には話さないだろう。俺は妹にとって、もう頼れる兄ではないのかもしれない。


駅に着くと、既に何人か人がいた。通勤通学の時間帯で、ホームには人が増えていく。


妹と別れる。


「じゃあね」


妹が言う。俺は頷いた。


妹は高校の方へ向かうホームへ向かって、俺は大学の方へ向かうホームへ向かった。


ホームには既に何人か人がいて、みんなスマホを見ている。まるで現代人の儀式のようだ。俺もスマホを開いてSNSを眺める。友人の投稿が流れてくる。昨日の飲み会の写真。誰かの愚痴。バイト先での出来事。


有名人のスキャンダルのニュースが流れてくる。政治家の失言。どこかで起きた事故。芸能人の結婚報告。10秒後には忘れていそうなバズ投稿に時間を溶かすだけだ。まだ、景色を眺めてた方が有意義なはずなのに、俺含め多くの人がSNSに食いついている。


電車が来る。乗り込むと、座席は半分ほど埋まっていた。窓際の席に座って、再びスマホを見る。


車窓を流れる景色。住宅街から、ビル街へと変わっていく。いつもと同じ景色。いつもと同じ日常。


電車は揺れながら進む。隣に座っている人は寝ている。向かいに座っている人もスマホを見ている。みんな同じだ。みんな同じことをして、同じ場所へ向かっている。


俺もその一人だ。


電車が少し揺れた。いつもより激しい。


地震か?


だが、すぐに止まった。周りの乗客も気にしていない。俺も気にしないことにした。


窓の外を見る。空が少し暗くなっている気がする。雲が出てきたらしい。さっきまであんなに晴れていたのに、天気は変わりやすい。


電車が駅に停まる。何人か降りて、何人か乗ってくる。


電車が再び動き出す。


窓の外を見る。


空が暗い。いや、暗すぎる。


まだ午前中なのに、まるで夕方のような暗さだ。これはおかしい。雲が出てきたとしても、こんなに暗くなるものだろうか。


周りの乗客も気づいたようで、窓の外を見ている。ざわついている。


「なんだ、あれ」


誰かが言った。


俺も窓の外を見た。


空が裂けていた。


空間そのものが歪んでいる。まるでガラスにヒビが入ったように、巨大な亀裂が走っている。黒い。不気味だ。まるで世界が壊れていくのを見ているようだ。


車内がざわつく。みんな窓の外を見ている。スマホで撮影する人もいる。


「何だ、あれ」


「地震か?」


「いや、空が裂けてる」


俺は動けなかった。足が地面に縫い付けられたように動かない。


何が起きている?


静寂。一瞬、世界が静まり返った。音が消えた。呼吸さえ聞こえない。まるで時間が止まったようだ。


そして、咆哮が響いた。


空から。いや、亀裂から。


獣の声。いや、違う。これは何だ。耳を劈く轟音に、車内の人々が耳を塞ぐ。俺も耳を塞いだ。痛い。頭が割れそうだ。まるで頭の中で雷が鳴っているようだ。


亀裂から、何かが出てきた。


黒い塊。大きい。ビルと同じくらいある。いや、違う。複数だ。小さいのも、大きいのも。次々と出てくる。まるで蜂の巣を突いたように、次から次へと湧き出てくる。


車内がパニックになる。


「何だ、あれ!」


「怪獣か!?」


「逃げろ!」


これは魔物だ。なぜかそう確信した。理由は分からない。だが、あれは魔物だ。映画やアニメで見たような、そんな非現実的な存在。でも、今、目の前にいる。


魔物が地面に落ちる。


衝撃。


電車が揺れた。いや、揺れたというより、吹き飛ばされた。電車が脱線して、横転する。


車内が悲鳴に包まれる。


俺は座席から投げ出されて、床に叩きつけられた。痛い。体が動かない。まるで全身を殴られたようだ。


周りを見る。乗客が倒れている。怪我をしている人もいる。血を流している人もいる。


外を見る。


ビルが崩れている。車が吹き飛んでいる。道路が割れている。


魔物が人を襲っている。爪で引き裂いて、牙で噛み砕く。


血。悲鳴。混乱。


まるで地獄絵図だ。


俺は立ち上がった。体が痛いが、動かなければ。


電車のドアを開ける。いや、ドアは既に壊れていて、開いていた。


外に出る。


街が崩壊していく。ビルが倒れて、車が燃えて、道路が割れる。至るところに魔物がいて、人が死んでいる。死体が転がっている。まるで戦場だ。いや、戦場以上だ。これは虐殺だ。


俺は走った。


どこへ?


家だ。


家族が心配だ。


母は?妹は?父は?


無事か?


走る。ひたすら走る。息が切れる。足が痛い。でも、止まれない。


魔物が目の前に現れる。避ける。横道に逃げる。


走る。走る。


転んだ子供がいた。小さい子だ。泣いている。魔物が近づいてくる。


咄嗟に、俺は走った。子供を抱き上げる。


魔物が俺を見た。目が合う。赤い目。まるで炎のような、いや、まるで地獄の業火のような目だ。


ヤバい。そう感じた瞬間、銃声が響いた。


魔物が怯む。


自衛隊だ。トラックが到着して、隊員が銃を撃つ。魔物に向かって。


だが、効かない。弾が弾かれている。魔物は傷つかない。まるで鉄の壁に弾を撃っているようだ。いや、鉄よりも硬い何かだ。


隊員が吹き飛ばされる。魔物の一撃で。自衛隊も、無力だ。


子供の母親が駆けてきた。泣きながら、俺に駆けてきた。


俺は子供を渡した。母親は子供を抱いて逃げる。


俺も逃げた。


家に帰らなければ。家族が心配だ。


街が崩壊していく。ビルが倒れて、車が燃えて、道路が割れる。至るところに魔物がいて、人が死んでいる。死体が転がっている。まるで世界が終わっていくのを見ているようだ。


目を背けたが、逃げるしかない。走る。ひたすら走る。息が切れて、足が痛いが、止まれない。


家族。無事か。母。妹。父。頼む、無事でいてくれ。


自宅までの道のりは、いつもなら電車で30分ほどだ。だが、電車は動いていない。魔物に破壊されたのか、線路が歪んでいる。走るしかない。


街を抜けて、住宅街に入る。魔物がまだそこらじゅうにいる。避けながら走る。


家が近い。あと少し。


魔物が目の前に現れた。避ける。横道に逃げる。回り道だ。でも、仕方ない。


走る。走る。


家族。無事か。頼む。


自宅が見えた。


だが。


家が半壊している。壁が崩れていて、屋根に穴が開いている。まるで爆撃を受けたようだ。いや、魔物に襲われたのだ。


嫌な予感がした。いや、嫌な予感なんてものじゃない。恐怖だ。家族が、どうなっているのか。


走る。玄関のドアを開ける。


声を出そうとしたが、出ない。喉が詰まっている。


家の中に入った。廊下は荒れていて、家具が倒れている。


リビングに向かう。


そして、見た。




リビングに魔物がいた。


母が倒れている。血が流れていて、テーブルは倒れていて、食器が割れて散らばっている。朝、母が作ってくれると言っていたカレーの匂いが、血の匂いと混ざって、吐き気を催す。


声が震える。足が動かない。まるで悪夢だ。いや、悪夢であってくれと願うが、これは現実で、目の前に広がる光景は紛れもない現実だった。


魔物が俺を見た。


妹は隅で震えている。制服が破れていて、腕に傷があって、泣いている。声を出さずに、ただ震えている。まるで声を出せば魔物に気づかれると思っているかのように、必死に声を殺している。


俺は魔物に向かった。素手だ。武器はない。でも、戦うしかない。母を、妹を、守らなければならない。そう思って走ったが、魔物が爪を振った瞬間、俺は吹き飛ばされて壁に激突した。


痛い。体が動かない。まるで全身の骨が砕けたようで、息ができない。肺が潰れたのかもしれないと思うほど、呼吸が苦しい。


視界が霞む。魔物が母に近づいていくのが見える。


「やめろ…」


声が出ない。喉が詰まっていて、言葉が出てこない。


「やめろ!」


叫んだが、間に合わなかった。魔物が母を襲って、母が悲鳴を上げた。短い悲鳴。そして、静かになった。母が動かなくなった。


嘘だろ。嘘だ。これは夢だ。悪夢だ。


俺の頭は現実を受け入れることを拒否している。母が死んだ。そんなことがあるはずがない。だって、今朝、母は笑っていた。「カレーにしようかしら」と言っていて、「いってらっしゃい」と言っていて、いつもと同じ笑顔を見せていた。それなのに、今、母が倒れていて、動かなくなっている。


魔物が妹を見た。妹が悲鳴を上げる。


俺は立ち上がった。体が痛いが、動かなければならない。妹を、守らなければならない。


魔物の前に立つ。魔物が爪を振り上げた。


死ぬ。そう思った。でも、いい。俺が死んでも、妹が助かるなら、それでいい。


目を閉じた。




だが、衝撃は来なかった。


熱い。いや、熱くない。不思議な感覚だ。


目を開けると、俺の体が光っている。何だ、これ。体の中から何かが溢れてくる。まるで体の中に太陽があるようで、いや、太陽よりも熱い何かがあって、でも、熱くない。痛くもない。ただ、力が溢れてくる。


火だ。俺の手から火が出ている。いや、出ているというより、生まれている。まるで俺の手そのものが炎になったようで、でも手は燃えていない。


魔法。そうだ、これは魔法だ。なぜか分かる。理由は分からないが、これは魔法だと確信できる。


火が魔物を包んだ。魔物が咆哮する。まるで地獄から響くような、恐ろしい声だ。炎が強まって、魔物が燃えて、黒い体が赤く染まっていく。やがて、魔物が倒れた。動かなくなった。死んだ。俺が、殺した。


手を見る。まだ熱があるが、火傷はしていない。不思議だ。魔法。俺は魔法が使えるようになった。


でも、なぜ。なぜ今なのか。もっと早く、もっと早くこの力があれば、母を守れたのに。


妹を見た。妹が倒れている。


駆け寄って、妹の体を抱き起こす。妹が目を開けて、俺を見て、弱く笑った。


「大丈夫だ」


俺は言ったが、大丈夫じゃない。妹の体から血が流れていて、腹に傷がある。深い。まるで刃物で切られたようで、いや、魔物の爪で切られたのだ。


「助けるから」


どうやって。救急車は来るわけがない。病院には行けない。街は崩壊していて、魔物がそこらじゅうにいる。どうすれば、妹を助けられるのか。


妹が俺の手を握った。冷たい。まるで氷のようだ。妹は何か言おうとしているが、声が出ない。


俺は妹の手を握り返した。


「喋るな。体力を使うな」


妹は弱く笑って、そして、目を閉じた。


「おい」


返事はない。


「おい!」


妹の手が力を失った。


俺は叫んだ。なぜだ。なぜ、こんなことに。魔法が使えるなら、もっと早く、もっと早く目覚めていれば、母も、妹も、救えたのに。


俺は妹の遺体を抱いたまま、座り込んだ。涙が出た。止まらない。


母の遺体が見える。倒れたまま、動かない。朝、笑っていた母。カレーを作ると言っていた母。いってらっしゃいと言っていた母。もう、いない。


妹の遺体を抱いている。冷たい。朝、一緒に家を出た妹。無言で歩いた妹。イヤホンをして音楽を聴いていた妹。もう、いない。


家族が、いなくなった。母。妹。


父は、どうなっているのか。会社にいるはずだ。都心だ。魔物が、あんなにいた。父も、たぶん、もう。


家族が、全員、いなくなった。俺だけが残った。なぜ。なぜ、俺だけ。


力が抜ける。座り込んだまま、動けない。妹の遺体を抱いたまま。冷たい。もう温かくない。


窓の外を見ると、空はまだ裂けている。魔物がまだ出てきている。遠くで爆発音がして、ビルが崩れる音がして、悲鳴が聞こえる。世界が、終わっていく。まるで世界が壊れていくのを見ているようで、いや、実際に壊れているのだ。


これは夢か。でも、夢じゃない。現実だ。家族が死んだ。世界が崩壊している。これが、現実。


この力。魔法。何の意味がある。もっと早く、そうすれば、救えた。でも、遅かった。遅すぎた。


俺は妹を、そっと横たえた。母の傍に。二人、並べた。


母と妹。朝、笑っていた母。朝、一緒に歩いた妹。もう、いない。


俺は立ち上がった。


これから、どうする。生きるのか。死ぬのか。分からない。でも、今は、生きよう。生きて、この世界を、何とかしよう。終わらせよう。


理由は分からない。でも、それしかない。俺が生きる理由。


母の遺体を見る。妹の遺体を見る。


ごめん。守れなかった。ごめん。俺は、弱かった。


でも、これから。これからは、もう誰も死なせない。この魔法を使って、魔物を倒して、この狂った世界を、元に戻す。いや、元には戻らない。母も妹も、もう戻ってこない。でも、せめて、これ以上、誰も死なないように。


俺は、リビングを出た。家の外に出る。


空を見上げる。空の亀裂から、まだ魔物が出てくる。


俺の名前は、柊慎吾。大学生だった。だが、もう違う。家族を失った。日常を失った。全てを失った。


俺に残ったのは、この魔法だけ。そして、この喪失だけ。

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