第3話「秘密」
雨は夜になっても止まなかった。
工房の窓を叩く水音が、規則正しく響いている。ナギはそれをぼんやりと聞いていた。空では聞いたことのない音。ずっと聞いていたかった音。
「ナギ、こっち見て」
ツムギの声に振り向くと、彼女は何やら大きな容器を持っていた。
「雨水を濾過するの。見せてあげる」
工房の片隅に、複雑な装置が組み上げられていた。パイプと布と炭と砂。雨樋から流れ込んだ水が、いくつもの層を通って下の容器に落ちていく。
「屋根で集めた雨水をここに通すの。ゴミとか泥とかを取り除いて、飲める水にする」
「全部自分で作ったの?」
「うん。親に教わったやつを改良した。地上じゃ当たり前のことだよ」
ツムギは慣れた手つきで装置を調整していた。詰まりかけていたパイプを直し、布を取り替え、炭を足す。その動きに無駄がなかった。
「空では、水はどうしてるの?」
「循環システムがあって……自動で浄化されて蛇口から出てくる」
「へえ。便利だね」
ツムギは少し羨ましそうだった。でも、すぐに笑った。
「でも私、こっちのやり方しか知らないから。これが普通」
ナギはツムギの手元を見つめていた。水滴で濡れた指。作業で荒れた手のひら。でもその動きは確かで、迷いがなかった。
「すごい」
思わず声が出た。
「え?」
「すごいなって。全部自分でやるの、かっこいい」
ツムギは少し驚いた顔をした。そして、照れくさそうに笑った。
「そんなこと言われたの、初めて」
「本当に思ってるよ。私、何もできないから」
「何もできないことないでしょ」
「空じゃ、何でも機械がやってくれる。自分でやろうとすると『余計なことするな』って言われる」
ナギは自分の手を見た。本物そっくりの、でも中身は機械の手。
「自分の手で何かするの、ずっと憧れてた。だから地上に来たかったのかも」
雨音が強くなった。風も出てきたようで、窓がガタガタと鳴っている。
「今日はもう遅いから、寝よう」
ツムギが奥の部屋に向かって歩き出した。
「え? あ、うん……」
ナギは慌ててついていこうとして、ふと気づいた。
「私、眠らないよ」
「え?」
「アバターだから。眠る必要がない」
ツムギは振り返った。
「じゃあ、一晩中起きてるの?」
「うん」
「……寂しくない?」
その問いに、ナギは答えられなかった。考えたこともなかったから。
「まあいいや。とりあえずこっち来て」
ツムギはナギの手を取って、奥の部屋に連れていった。寝室らしい場所。古いベッドと、積み上げられた布。壁には雨漏りの跡があった。
「ここで寝るから。ナギはそこに座ってて」
「いいの?」
「一人で起きてるより、誰かの傍にいたほうがマシでしょ」
ツムギはベッドに潜り込んだ。布団を首まで被って、こちらを見ている。
「ねえ、ナギ」
「何?」
「空って、どんなところ?」
ナギは少し考えた。
「青い。ずっと青い。雲の上だから、雨も降らないし、曇ることもない。毎日晴れてる」
「毎日?」
「うん。朝起きたら青空。夕方になったら夕焼け。夜になったら星が見える。それが当たり前」
「……いいな」
ツムギの声は、少し寂しそうだった。
「私、青空って数えるほどしか見たことないの。雲の切れ間から、ほんの少しだけ。すぐ雲が戻っちゃうから、長くは見られない」
「そうなんだ」
「だから、空に憧れてた。いつか雲の上に行ってみたいって、ずっと思ってた」
雨音が続いている。ツムギの声は、その中に溶けていくようだった。
「ナギは雨に憧れてて、私は青空に憧れてる。逆だね」
「うん」
「面白い」
ツムギはふっと笑った。
「ナギがここにいる間、いろいろ教えてよ。空のこと」
「うん。私もいろいろ知りたい。地上のこと」
「約束」
ツムギが小指を立てた。ナギは一瞬戸惑ったけど、同じように小指を出して絡めた。
冷たい指と、温かい指。
「秘密だよ」
「うん」
「誰にも言わない」
「うん」
雨音だけが響いている。二人だけの部屋。二人だけの秘密。
「おやすみ、ナギ」
「……おやすみ」
ツムギはすぐに眠ってしまった。規則正しい寝息が聞こえてくる。
ナギは窓の外を見た。雨。止まない雨。空では絶対に見られない景色。
ずっと見たかったものが、今、目の前にある。
いつまでここにいられるかわからない。明日終わるかもしれない。でも、今この瞬間は——悪くなかった。
雨音を聞きながら、ナギは静かに夜を過ごした。
ツムギの寝息を聞いていると、不思議と寂しくなかった。一人じゃない。誰かがそばにいる。それだけで、夜はずっと短く感じられた。
空では味わったことのない感覚だった。
家族はいる。両親も妹もいる。でも、こんなふうに誰かの傍で夜を過ごしたことはなかった。自分の部屋で一人で眠り、一人で起きる。それが当たり前だった。
ツムギは違う。一人で暮らしているのに、誰かを傍に置くことを自然に受け入れている。
——寂しかったのかもしれない。ずっと一人で。
ナギはそう思った。
だから、ここにいよう。いられる間は。
秘密の時間が、静かに始まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます