第2話「壊れた」

ツムギの工房は、廃墟の中にあった。


崩れかけたビルの一階。かつては何かの店だったらしい。今は壁に棚が並び、よくわからない部品や工具が所狭しと置かれている。雨漏りを防ぐために天井に布が張られていて、水滴がぽたぽたとバケツに落ちる音がしていた。


「ここ、私の家」


ツムギはそう言って、濡れた髪をタオルで拭いた。


「工房兼住居。親の遺産。一人暮らしには広すぎるんだけどね」


「一人で住んでるの?」


「うん。両親は小さい頃に死んじゃった。それからずっと一人」


さらりと言う。悲しそうな顔はしていなかった。きっと、もう慣れてしまったのだろう。


ナギは工房の中を見回した。古い機械、錆びた部品、用途のわからない道具たち。空では見たことのないものばかりだった。空の技術は洗練されていて、無駄がない。でもここにあるものは、どれも使い込まれて、直されて、また使われて——そんな跡が見て取れた。


「座って。濡れてるけど、まあアバターなら平気でしょ」


ツムギが古い椅子を引っ張ってきた。ナギはおとなしく座った。


「ちょっと見せて」


ツムギはナギの腕を取り、じっと観察し始めた。人工皮膚の継ぎ目を探しているようだった。


「すごいね、本当に人間みたい。どこにスイッチとかあるの?」


「スイッチはない。意識で動かしてるから」


「へえ……」


ツムギの指がナギの首筋に触れた。脈を探しているのかもしれない。当然、何もない。


「体温ないんだ」


「うん。それだけが人間と違うところ」


「冷たいのに、動いてて、喋ってる。不思議」


ツムギは興味深そうにナギの顔を覗き込んだ。目が合う。茶色い瞳。雨に濡れた睫毛。こんなに近くで人の顔を見たのは初めてだった。空では誰もこんなに近づいてこない。


「エネルギーはどうやって動いてるの?」


「太陽光」


「太陽光?」


「背中にパネルがあって、光を吸収して変換する。空なら問題ないんだけど……」


ツムギの表情が曇った。


「……地上じゃ厳しいかも」


「え?」


「ここ、あんまり晴れないから」


雨音が強くなった気がした。窓の外は灰色の世界。雲が低く垂れ込めている。


「地上はずっとこう?」


「ほとんどね。曇りか雨。たまーに雲が薄くなることはあるけど、青空なんて滅多に見ない。私、生まれてから数えるほどしか見たことない」


ナギは自分のエネルギー残量を確認した。まだ余裕はある。でも、雨が続けば——


「減っていくんだね」


ツムギが言った。ナギの表情を読んだのだろう。


「曇りならギリギリ維持できる。雨だと少しずつ減る。嵐が来たら……急速に消耗する」


「嵐、よく来るよ」


ツムギは窓の外を見た。


「この季節は特に。何日も続くこともある」


「……」


「でもね」ツムギは少しだけ笑った。「大きい嵐の後は、たまに晴れるの。雲が全部吹き飛ばされて、青空が見えることがある。私、それが好き」


「青空……」


「うん。嵐は嫌いだけど、その後の青空は好き。滅多にないから、余計に」


沈黙が落ちた。雨音だけが響いている。


ナギは再び、本当の身体との接続を試みた。安全機構を起動するコマンドを送る。応答なし。強制切断のリクエストを送る。応答なし。通信状態を確認する。不安定。いつ途切れてもおかしくない。


「やっぱり、駄目?」


ツムギが聞いた。


「……うん。壊れてる。空の身体の方から切断できない」


「家族とかは? 空から何かできないの?」


ナギは首を振った。


「ダイブシステムは全部自動なの。手動で介入する仕組みがない。安全だから必要ないって……そういう設計」


「機械任せってこと?」


「うん。空じゃ何でもそう。人がやるより機械のほうが確実だから。でも——」


想定外のことが起きたら、誰も何もできない。家族も、技術者も、ただ見守ることしかできない。本当の身体は眠り続けている。起こす方法がない。


「通信が途切れれば、自動的に本当の身体が目覚める。そういう設計になってる」


「いつ途切れるの?」


「わからない」


ナギは自分の手を見た。雨に濡れた人工皮膚。本物そっくりの指。でも中身は機械で、動かしているのは遠く空にいる自分自身で——


「明日かもしれない。一週間後かもしれない。一ヶ月後かもしれない」


「それまで、ここにいるってこと?」


「……うん」


ツムギは少し考え込むような顔をした。そして、何かを思い出したように言った。


「ねえ、一つ聞いていい?」


「何?」


「空の人が地上に来るの、別に珍しくないんでしょ? たまに変なロボット——アバターか。たまに見かけるし」


「うん。テレイグジスタンスは人気だから。地上探索する人、多いよ」


「でも、こうやって話しかけてくる人、いないんだよね。みんな遠くから見てるだけで、近づくとすぐ逃げちゃう。なんで?」


ナギは息を呑んだ。


そこに触れられると思わなかった。でも——隠し続けるわけにもいかない。


「……空の法律で、地上の人との交流は禁止されてるの」


「禁止?」


「テレイグジスタンスは『探索』のための技術。地上の人と話したり、接触したりすることは許されてない」


ツムギの表情が変わった。驚きと、少しの困惑。


「じゃあ、今私たちがこうして話してるの——」


「本来、あっちゃいけないこと」


雨音が強まった。まるで何かを隠すように。


「バレたら、どうなるの?」


「わからない。でも、たぶん……罰則がある」


ナギは俯いた。


初めてのダイブで墜落して、帰れなくなって、おまけに禁止されている接触までしてしまった。最悪だ。何もかも最悪だ。


「ごめん」


小さな声で言った。


「巻き込んで、ごめん。私、本当に鈍臭くて……空でもずっとそう言われてて……」


「ナギ」


ツムギの声に、ナギは顔を上げた。


ツムギは笑っていた。困ったような、でも優しい笑顔。


「私、空の法律なんて知らないし」


「え?」


「地上には地上のルールがあるけど、空のルールは関係ない。私が話しかけたんだから、私の勝手でしょ」


「でも……」


「それに」


ツムギは窓の外を見た。


「空の人と話すの、初めてだから。ちょっと楽しい」


雨音が、少しだけ優しく聞こえた。


「いつまでここにいるかわからないんでしょ? 明日終わるかもしれないし、一ヶ月続くかもしれない」


「……うん」


「だったら、その間くらい、一緒にいてもいいんじゃない?」


ツムギが手を差し出した。


「秘密にしておくから。誰にも言わない。ナギも、誰かに見られないようにすればいい」


ナギはその手を見つめた。温かい手。さっき触れた時の感触を覚えている。


「……いいの?」


「いいよ」


ツムギは笑った。


「一人暮らし、ちょっと飽きてたところだし」


ナギは、ゆっくりとその手を取った。


雨は止まない。でも、この場所は——悪くないと思った。

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