雨音のむこうに ― 空の少女と地上の少女
三五六九十
第1話「落ちる」
空には雨が降らない。
ナギは十六年間、ずっとそれが当たり前だと思っていた。浮遊大陸で生まれ、浮遊大陸で育った。見上げれば青空、見下ろせば白い雲海。それがナギの知っている世界の全部だった。
でも、雲の下には別の世界がある。
テレイグジスタンス——意識をアバターに転送して、地上を「体験」する技術。空の若者の間で人気の趣味だった。廃墟を探索したり、珍しい景色を見たり。ナギもずっと憧れていた。
「ナギって変わってるよね」
同級生にはよくそう言われた。別に悪気があるわけじゃない。ただ事実として、ナギは周りと少し違っていた。
空の生活は効率と安全が第一。何でも遠隔操作、何でも自動化。わざわざ自分の手でやる必要なんてない。でもナギは違った。自分で触りたい、自分で確かめたい。その衝動がいつも先に立つ。
「機械に任せればいいのに」「なんでわざわざ」「鈍臭いなあ」
何度言われたかわからない。だから友達もできなかった。別に虐められているわけじゃない。ただ、なんとなく周りと合わない。それだけのこと。
だからこそ、地上に憧れた。
雲の下の世界。止まない雨。廃墟の街。全部自分の手で触れなきゃいけない場所。そこでなら、自分は「普通」でいられるんじゃないか。そんな期待があった。
「行ってきます」
ダイブ用の椅子に座り、ナギは目を閉じた。意識が薄れていく。本当の身体が眠りに落ちる感覚。そして——
視界が開けた。
小型飛空艇の操縦席。窓の外には、見たこともない灰色の世界が広がっていた。雲の下。地上。
「すごい……」
思わず声が漏れた。アバターの声は自分の声とそっくりだった。当然だ。深くダイブするために、アバターは本人に似せて作られている。見た目も、声も、ほとんど同じ。
飛空艇はセミオートで安定飛行している。普通はこのまま目的地まで任せればいい。でも——
「やっぱり、自分で飛びたい」
ナギは操縦モードを手動に切り替えた。操縦桿を握る。機体が微かに揺れる。自分の手で動かしている。それだけで胸が高鳴った。
灰色の空。どこまでも続く廃墟の街並み。そして——
水滴が窓を叩いた。
「これが……雨?」
ナギは夢中で窓に顔を近づけた。透明な粒が、次から次へと流れ落ちていく。空では絶対に見られない光景。ずっと見たかったもの。
操縦桿から手を離していることに気づかなかった。
警告音が鳴り響く。機体が傾く。慌てて操縦桿を握り直したけど、もう遅かった。
「うそ、ちょっと、待っ——」
視界がぐるぐる回る。灰色の空と廃墟の街が交互に見える。落ちていく。本当に落ちていく。
衝撃。轟音。
視界が真っ暗になった——と思ったら、すぐに戻った。アバターは頑丈にできている。本当の身体なら即死だっただろう。
「いた……くない」
痛覚はある。でも、本当の身体ほど鋭くはない。安全設計。
煙が立ち上っている。飛空艇は完全に大破していた。翼は折れ、機体は半分潰れている。これはもう飛べない。
「嘘でしょ……」
初めてのダイブで墜落。最悪だ。帰れない。いや、安全機構があるから空の身体の方から強制切断すれば——
その時、誰かの足音が聞こえた。
水たまりを蹴散らしながら、誰かが走ってくる。
「大丈夫!?」
少女の声。ナギと同じくらいの年頃に見えた。濡れた黒髪、泥だらけの服。必死な表情で駆け寄ってくる。
「飛空艇が落ちるの見えて……誰か乗ってるかもって……」
少女はナギの傍らに膝をついた。そして、ナギの手を取った。
「——冷たい」
少女の動きが止まった。
しばらく、二人とも動けなかった。雨音だけが響いている。
「……空の人?」
少女がゆっくりと言った。
「なんで……こんなに冷たいの?」
ナギは少し迷って、答えた。
「これ……アバターなの。私の本当の身体は空にあって、これは遠隔操作の身体」
「アバター?」
「うん……ごめんなさい。驚かせて」
「驚いた」少女は苦笑した。「人間かと思った。見た目、全然わかんないね」
「似せて作るから。深くダイブするために」
「へえ」
少女はナギの手を離さなかった。冷たいのに。
「私はツムギ。あんたは?」
「……ナギ」
「ナギ。空の人なんだ。初めて会った」
「私も。地上の人に会うの、初めて」
雨が降り続いている。ナギの視界に、水滴がいくつも流れ落ちていく。これが雨。ずっと見たかったもの。こんな形で触れることになるとは思わなかった。
「飛空艇、壊れちゃったね」ツムギが残骸を見た。「直せる?」
「……わからない。たぶん、無理」
「じゃあ、帰れないの?」
「空の身体の方から切断すれば帰れるはず。でも——」
ナギは自分の状態を確認しようとした。そして、気づいた。
安全機構が反応しない。
本当の身体との通信が不安定になっている。強制切断のコマンドを送っても、応答がない。
「……壊れてる」
「何が?」
「安全機構。空の身体の方から切断できない。通信も……いつ途切れるかわからない」
ツムギはしばらく黙っていた。雨音だけが二人の間に落ちている。
「つまり、いつまでここにいるかわからないってこと?」
「……うん」
明日終わるかもしれない。一週間続くかもしれない。通信が途切れれば、本当の身体は自動的に目覚める。そういう設計になっている。でも、いつ途切れるかは誰にもわからない。
「帰れなくなっちゃった」
ナギは自分の手を見た。雨に濡れている。センサーが冷たさを伝えてくる。でも、本物の冷たさじゃない。
ツムギが立ち上がった。
「とりあえず、雨宿りしよう」
「え?」
「このままじゃ風邪ひく——って、アバターは風邪ひかないか」
ツムギは少し笑った。
「でも、私がひくから。ついてきて」
差し出された手を、ナギは取った。
温かかった。初めて触れる、人間の温度。
雨の中、二人は歩き出した。
これが、ナギとツムギの出会いだった。
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