15分間のクロノス ―光の降る街のささやかな祝祭―

音無 雪

巨大な時計と、未完成な二人

冬の横浜みなとみらい地区は、海からの風が鋭く肌を刺し、訪れる人々の吐息を白く染め上げます。しかし、その冷気こそがこの街の夜景を完成させる最後の一片であるかのように、光は一際澄み渡り、宝石のような輝きを放っております。


私の目の前には、この街の象徴である大観覧車「コスモクロック21」が鎮座しております。その中心に据えられた巨大なデジタル時計が示す通り、これは単なる遊具ではなく、世界一大きな時計として認定されているとお聞きしました。一秒ごとに刻まれる数字が、無数のLEDによる光の波となって円周を駆け巡り、夜の闇を万華鏡のように塗り替えていく様子は、どれほど長く眺めていても見飽きることがございません。


私は観覧車を見上げるベンチに腰を下ろし、光の芸術を眺めております。周囲には、この冬の特別演出を待つ人々が見受けられます。そんなロマンティックな夜の喧騒の中、ふと、一組の男女が目に留まったのでございます。


観覧車の搭乗口へと続く長い列。底に並ぶ一組の若い男女でございます。二十歳を少し過ぎたばかりでしょうか。周りのカップルたちが寒さを言い訳に肩を寄せ合い、密やかな囁きを交わしている中で、その二人だけは少し異質な空気を醸し出しております。二人の間には、触れそうで触れない、絶妙な「微妙な距離」が保たれていました 。男の子が冗談を言って、女の子がそれを笑いながら軽く肩を叩く。お互いに友達感覚でふざけ合っているようですが、その笑い声の裏側には、相手の反応を伺うような、壊れ物を取り扱うような繊細な緊張感が漂っています 。


「まだ、恋人になり切れていない二人でございましょう」

私はベンチから彼らを眺めながら、そんな確信に近い直感を抱いておりました。傍から見れば、彼らはすでに十分に絵になる立派なカップルでございます。しかし当人たちは、自分たちの関係に名前を付けることを、あるいはその一歩を踏み出すことを、どこかで畏れているようにも見えます。その「お可愛い」もどかしさが、冬の夜風の中で一際瑞々しく感じられました 。


やがて彼らの順番が来ます。 「いよいよだな」と、少し緊張した面持ちの男の子が先導し、女の子がどこか照れくさそうに、けれど楽しそうに後に続きます。二人が透明なゴンドラへと吸い込まれていくのを、私は静かに見送りました。彼らにとって、地上を離れるこれからの時間は、日常から切り離された特別な聖域となるはずでございます。


――――


彼らが地上を離れて数分が経過した頃、街の空気が一変致しました。 現在、みなとみらい地区全体では、冬の特別企画として大規模な光のショーが催されております。


「ヨルノヨ」と呼ばれるその演出は、圧巻でございます。ただ観覧車が光るのではなく、周囲のオフィスビル、海沿いの遊歩道、歴史的な建造物――そのすべてが連動し、街全体が一つの楽器になったかのように鼓動する壮大な試みでございます。


青から紫へ、そして燃えるような黄金色へ。目の前のコスモクロック21もまた、巨大な光の輪となって夜空に文様を刻みつけております。


この圧巻の光景を、あの二人は今、漆黒の空の中にあるゴンドラから見つめているはずです 。地上で見上げる私でさえこれほどの高揚感に包まれるのですから、視界を遮る物のない100メートルを超える高みで、この圧倒的な美しさを共有しているとしたら、一体どんな会話が交わされるのでございましょうか。


コスモクロック21が一周するのに要する時間は、ちょうど15分でございます。 それはちょっと考え事をする程度、あるいは少し長めの信号待ちを何度か繰り返すだけの、ありふれた物理的な時間。しかし、この劇的なショーの余韻に包まれ、夜空の静寂の中で向かい合う15分は、二人にとって全く異なる意味を持つはずでございます。


誰にも邪魔されない密室の中で、地上でのふざけ合いは自然と影を潜め、言葉にならない想いが溢れ出す。世界一大きな時計が刻む一分一秒が、彼らの関係を静かに、けれど確実に変質させていく。この光のショーは、あたかも二人のこれまでの歩みを称え、これから訪れる変化を優しく包み込む、街全体からの無言の祝福のようにも感じられました。


――――


音楽が止み、街の灯りが通常の穏やかな瞬きが戻って参りました。ショーを見終わった人々が、それぞれに感動を語り合いながら移動を始める中、私は先ほどのゴンドラがゆっくりと地上へ降りてくるのを待っております。


扉が開いた瞬間、そこから現れた二人の姿を見て、私は思わず頬が緩むのを抑えられませんでした。乗り込む時のあの賑やかで落ち着かない雰囲気は、跡形もなく消え去っております。二人はどこか大人しく、けれど周囲の喧騒を一切必要としていないような、濃密で穏やかな空気感を纏っていたのでございます。


そして、二人の手は、自然な動作で、けれどしっかりと指を絡め合っておりました。少し俯き加減で、恥ずかしそうな素振りを見せながら歩く女の子と、その手を離さないように力強く導く男の子。そこにはもう微妙な距離を測るような迷いはございません。ちょっと照れくさそうな雰囲気を醸し出しながらも、彼らの関係が新しい段階へと足を踏み入れたことは、誰の目にも明らかでございました。


世界一大きな時計の上で過ごした15分間。それは、長年寄り添った「友達」が「恋人」へと生まれ変わるには、必要にして十分すぎるほどの時間だったようでございます。


彼らはそのまま、冬の夜風の中を歩き出しました。繋いだ手の温もりを確かめ合うように、時折お互いの顔を覗き込みながら、街の明かりの中へと溶け込んでいきます。その背中に向かって、私は心の中で、できるだけ控えめに、けれど深い真心を込めて言の葉を贈ります。


「勇気を持って踏み出したふたりに祝福を……」


私だけではございません。今夜のこの街の光すべてが、彼らの門出を祝うささやかな祝祭であったのだと存じます。コスモクロック21。その巨大な時計は、今も頭上で静かに時を刻み続けております。次にあのゴンドラの扉が開くとき、また新しい誰かの物語が、この街に温かな光を灯すことを願いながら、私もまた、心地よい冬の夜の余韻とともに歩みを進めました。

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