SCENE#183 谷川岳の守護者 〜 なぜ、上越新幹線は、雪の中でも遅れないのか
魚住 陸
谷川岳の守護者 〜 なぜ、上越新幹線は、雪の中でも遅れないのか
第一章:絶対定時の怪 ―― 氷点下の異変
20XX年12月27日。新潟県から群馬県にまたがる三国山脈は、観測史上最大級とされる猛烈な寒波の直撃を受けていた。地上では関越自動車道が数キロにわたって立ち往生し、並行する在来線は始発から全ての運行を見合わせている。車窓の外は、視界を完全に遮るホワイトアウト。一寸先も見えない白銀の闇の中で、時折、電柱が猛風に耐えかねて悲鳴のような音を立てていた。
しかし、この極限状態にあっても、ただ一つだけ、精緻な時計の針を刻むかのように正確に走り続ける「鉄の龍」があった。それが、上越新幹線である。
新米車掌の藤井は、東京発新潟行きの「とき321号」の乗務に就いていた。彼はまだ二十代半ば、新幹線の運行管理という完璧なシステムに絶対的な信頼を置く現代的な青年だった。
「こちら運転室。まもなく大清水トンネルに入る。外はマイナス15度、積雪4メートル。スプリンクラーはフル稼働中。定刻通りの通過を確認!」
運転士からの無線は、機械のように淡々としていた。藤井は12号車の最後尾に立ち、手元の端末を見つめた。そこには「遅延:0」という数字が冷徹に、そして誇らしげに表示されている。しかし、藤井の背筋には拭いきれない奇妙な違和感が走っていた。これほどの豪雪だ。どれほど完璧な消雪設備があっても、雪を溶かす水の熱量すら奪い去るような極寒の中では、1分や2分の遅延は物理的に免れないはずだった。藤井は、研修時代に古い先輩から聞いた「上越新幹線の七不思議」を思い出していた。
『大清水トンネルの中で、一度だけ車内検札の手が止まる場所がある』
『12両編成のはずの車両に、13両目の気配を感じることがある』
ただの都市伝説だと思っていた。しかし、パトロールのために1号車から12号車へと向かう途中、連結器があるはずの壁の奥に、本来存在しないはずの「重厚な引き戸」が浮かび上がっているのを、藤井は目撃したのである。それは最新鋭のE7系車両のどこにも見当たらない、古風な杉材で作られた扉だった。
第二章:零号車の境界 ―― 消えた13番目の扉
藤井は自分の目を疑い、何度も瞬きを繰り返した。最新のアルミニウム合金と強化プラスチックで固められた車内に、和紙が貼られた杉の引き戸など存在するはずがない。しかし、そこには確かに戸があり、隙間からは微かな「白檀(びゃくだん)」の香りと、妙に温かく、湿り気を帯びた蒸気が漏れ出していた。
「……そんな馬鹿な。図面にはない。先週の定期検査でも、こんなものはなかった…」
職務上の義務感と、それを遥かに凌駕する抗いがたい好奇心に突き動かされ、藤井は震える手でその戸を引いた。扉の向こう側は、新幹線の内部とは思えない異空間が広がっていた。冷たいLEDの照明も、清潔だが無機質な座席も消え、そこには青々とした畳が敷き詰められた、十畳ほどの和室があった。部屋の四隅には古い行灯(あんどん)が灯り、窓の外は高速で流れる景色の代わりに、乳白色の光が渦を巻く不思議な空間が広がっていた。そこは「12両編成のさらに先」、時刻表にも図面にも載っていない、幻の零(ぜろ)号車だった。
「……ようやく来たね。もうすぐ谷川岳の『心臓』を通過するところだよ…」
部屋の奥、小さな囲炉裏(いろり)の前に座っていたのは、純白の着物を纏った小柄な老婦人だった。彼女は藤井の激しい動揺を気にする風もなく、鉄瓶でお湯を沸かし、ゆっくりと茶を淹れていた。
「あ、あなたは……誰ですか? ここは関係者以外立ち入り禁止です! いや、この車両は何なんだ! 車両連結の記録はどうなっているんだ!」
藤井の叫びに、老婦人は静かに微笑み、茶碗を一つ差し出した。
「私はユキ。この鉄路の『結び目』を守る者だよ。あなたたちが言うところの『なぜ遅れないのか』の、本当の理由……その裏側を知りたくなったんだろう?」
第三章:鉄と霊の契約 ―― 大清水トンネルの深淵
ユキと名乗った老婆は、藤井を囲炉裏の傍らに招いた。新幹線が時速240キロで激しく疾走しているはずなのに、この零号車の中には振動ひとつなく、まるで深い森の奥の静止した空間にいるようだった。聞こえるのは、コトコトと鳴る鉄瓶の音と、ユキの穏やかな声だけ。
「あなたたちは、スプリンクラーの水が雪を溶かしているから、この列車が止まらないと思っているね。だが、考えてごらん。あんなちっぽけな水が、大自然の猛威に勝てると思うのかい?」
ユキの問いに、藤井は研修で叩き込まれた数値を口にした。
「ええ、そうです。1キロあたり何百リットルという温水を散布し、雪をシャーベット状にして流し去る。そのために巨大な貯水池とボイラーが稼働している。それが我々の誇る世界最強の消雪システムです…」
ユキは慈しむように笑った。
「それは人間が自分たちの知恵を納得させるための、表向きの理屈だよ。谷川岳は、古来より荒ぶる山の神が住まう場所。そこを全長22キロもの巨大な錐(きり)で貫いたんだ。山の神が、自分の体の中を鉄の塊が走り抜けるのを、黙って許すはずがないだろう?」
彼女の話によれば、1982年の開業以来、上越新幹線は山の神との「血と鉄の契約」を結んでいるのだという。新幹線が絶え間なく走り続け、車輪が鉄路を叩く「リズム」を心臓の鼓動として奉納し続けること。その代わりに、山は新幹線の進む道を氷から守る。もし新幹線が1分でも止まれば、鼓動は停止し、山の神は目覚め、越後全土を永遠の冬に閉ざしてしまう。
「スプリンクラーから噴き出しているのは、ただの温水じゃない。谷川岳の地下深く、神が眠る場所から汲み上げた湧水に、代々の守護者が捧げてきた祈りを混ぜた『聖水』だよ。雪を溶かしているんじゃない。山の怒りを、なだめ透かしているんだ。だが……今年は少し、様子が違うようだね…」
その時、不意に激しい振動が車両を襲った。零号車の畳が大きく波打ち、囲炉裏の火が不吉な青紫色に燃え上がった。
第四章:一分の均衡 ―― 目覚める山の怒り
「……来たか。百年ぶりの『大荒神(おおこうじん)』だ!」
ユキの表情が、一瞬にして老練な戦士のような厳しさへと変わった。外は今、大清水トンネルの最深部、海抜マイナス数百メートルの地点だ。新幹線が最も深い地中を、山の核に最も近い場所を通過している。不意に、藤井の腰のインカムから、ノイズ混じりの絶叫に近い無線が届いた。
『……緊急……事態。前方に……異常な氷塊を確認。自動スプリンクラーの圧力が急激に低下! このままだと……脱線、あるいは完全停止だ! 全員、衝撃に備え……!』
新幹線が止まってしまう…それは、ただの列車の遅延を意味しない。ユキが予言した「神との契約」の破棄、そして越後全体の壊滅、そして雪の密室に閉じ込められた数百人の乗客たちの死を意味していた。
「あなたも手伝うんだ。この鉄の龍の鼓動を、ここで止めてはならない!」
ユキは立ち上がり、零号車の奥にある、古びた真鍮製のレバーを指差した。それは現代の新幹線のコックピットには存在しない、車両の床下にある「熱交換器」と、人々の「意志」を直接繋ぐ未知の機構だった。
「今の新幹線は、効率と自動化を求めすぎて、血の通った『熱』が足りない。あなたたちの、どうしても、乗客たちを目的地に届けたいという情熱、走りたいという意志、それらをすべてこの鉄路に流し込みなさい!」
藤井は、理性をかなぐり捨て、その黄金色に輝くレバーを握りしめた。
「あつい……!」
レバーは、まるで生き物の内臓のように脈動し、触れた瞬間に手が焼けるような熱さを感じた。しかし、その熱は苦痛ではなく、不思議と力強く、藤井の心臓から新幹線の車体全体に広がっていく感覚があった。
「走れ……! 止まるな! 誰も傷つけさせない、俺たちが運んでるんだ!」
藤井は喉が裂けるほど叫んだ。現代の技術者が忘れてしまった、あるいは非合理的として捨て去った機械への「純粋な祈り」が、冷え切った車両の隅々にまで伝播していった。
第五章:共鳴の周波数 ―― 祈りのスプリンクラー
藤井が全力でレバーを押し込むと、新幹線の床下から地鳴りのような重低音が響き渡った。それはVVVFインバーターの電子音ではない。千人の人間が一度に地を踏みしめるような、原始的で力強い拍動。
零号車の窓の外、乳白色の霧が晴れ、そこには真っ赤に熱せられた線路が、闇を切り裂く導火線のように伸びていた。スプリンクラーから噴き出す水は、空気と触れた瞬間に爆発的な蒸気となり、雪を溶かすどころか、周囲の冷気そのものを一瞬で蒸発させ、真空に近い空間を作り出していく。
「見なさい。これが鉄と、人間の祈りの共鳴だよ。山が、あなたの声を聞いているんだ…」
ユキは両手を広げ、古の呪文のような言葉を低く唱えた。トンネルの壁面から染み出す冷たい湧水が、車両の発する熱を吸い取り、再び線路へと還元される。完全な循環。新幹線そのものが、谷川岳という巨大な生命体の一部、いわば「走る熱源」となり、血液のようにトンネル内を駆け抜けていく。藤井は、自分の意識が新幹線の車体と同期していく、奇妙で壮大な感覚に包まれた。数キロ先の架線の揺れ、数百メートル先の線路の亀裂、そして後ろの車両に座る乗客たちの、平和な寝息や談笑。そのすべてが、自分の指先の感覚のようにリアルに伝わってくる。
行く手を阻もうとしていた巨大な氷塊は、新幹線が発する熱の波動に触れた瞬間、跡形もなく霧散した。新幹線は白銀の世界を切り裂く「光の矢」となり、大清水トンネルの出口を目指して、さらにその速度を増していった。
第六章:光の脱出 ―― 越後湯沢の奇跡
猛烈な光が視界を白く染め、次の瞬間、鼓膜を突き抜けるような爆音が響いた。大清水トンネルを抜けた先、そこは豪雪の越後湯沢駅だった。プラットホームは屋根を超えんばかりの雪に埋もれかけていたが、新幹線が入線する線路の上だけは、まるで真夏の陽炎が立っているかのように、一点の雪も残っていなかった。
「とき321号、定刻通り越後湯沢駅に到着。ドアを開けます。足元に、少し熱気を感じるかもしれませんが、ご注意ください!」
藤井の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。放送を終えた後、彼は崩れ落ちるように座り込んだ。
ホームに降り立った乗客たちは、外の猛烈な吹雪に驚きながらも、「さすが新幹線ね、雪でも全然遅れないわ。魔法みたい!」と、どこか他人事のように笑いながら改札へと向かっていく。
乗客たちは一生知ることはないだろう。自分たちが、神の怒りの真っ只中を、一人の老婆と一人の若者の祈りに守られて通り抜けてきたことを。藤井が慌てて12号車の最後尾を確認すると、そこにはもう、あの重厚な杉の引き戸はなかった。12号車の先には、いつもの黄色い連結器カバーが、凍てつく雪を被って静かに佇んでいるだけだった。
「ユ、ユキさん……?」
藤井は呟いたが、答えるのは、山から吹き下ろす凍てついた突風の音だけだった。彼の制服の袖口からは、確かにあの零号車で嗅いだ、聖なる「白檀」の香りが、雪の匂いに混じって微かに漂っていた。
第七章:鉄路なき守護者 ―― 未来への継承
翌朝。終点の新潟駅に到着し、乗務を終えた藤井は、ホームで昇る朝日を眺めていた。昨夜の大寒波が嘘のように、空は抜けるような青さに包まれている。
「藤井、昨日の大清水トンネルの通過中、何か異常はなかったか?」
先輩のベテラン車掌が、不思議そうな顔で、メンテナンス用のデータシートを持って近づいてきた。
「いや、何も。システムは正常でしたが……何かありましたか?」
「いや……ある時間だけ、消費電力がマイナス値を叩き出してるんだ。まるで、列車そのものが山からエネルギーを吸い上げて、発電してたみたいにな。おまけにスプリンクラーの貯水タンクも、走る前より増えてる。……あり得ないだろ? 計器の故障かな…」
藤井は、ポケットの中で、ユキから密かに手渡された(いつの間にか入っていた)小さな銀色の古いメダルを握りしめた。そこには、新幹線の車輪と、それを包み込むように描かれた谷川岳の守護神の姿が刻まれていた。
「……さあ。雪の日の新幹線には、時々、魔法がかかるんですよ…」
藤井は、初めて自分だけの「秘密」を持った大人の顔で微笑んで答えた。
なぜ、上越新幹線は雪の中でも遅れないのか…
それは世界最高峰の消雪設備があるからでも、優れた運行管理システムがあるからでもない。暗いトンネルの奥底で、今もなお山の神と語り合い、鉄の塊に人間の祈りと熱を吹き込み続ける「守護者」たちがいるからだ。藤井は、次にやってくる「とき」を待つ、溢れんばかりの乗客たちの列に並んだ。
彼の心には、あの零号車の畳のぬくもりと、ユキの穏やかな笑顔が、消えない火となって残っていた。
定時運行。その1分の狂いもない正確さは、今日もまた、目に見えない無数の手と、一筋の祈りによって、白銀の世界を守り続けている。藤井は深く帽子を被り直し、今日もまた、鉄の龍とともに新しい目的地へと漕ぎ出した…
◆この物語は、フィクションです。
SCENE#183 谷川岳の守護者 〜 なぜ、上越新幹線は、雪の中でも遅れないのか 魚住 陸 @mako1122
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