第3話 推しに会った日


 何処をどう歩いたのか緊張で覚えていない。私はただエドワードの壮年にしては細身なのにがっしりとした背中を追いかけただけだった。


 推しの前に出ると思うと意味もなく何度も前髪を直した。大丈夫、美少女にデザインした分身だ。自信しか持てない。


「エリオット様、例の娘を連れて参りました」


 気づいたら推しの書斎の前に立っていて息が詰まった。こちらの心の準備なんてお構いなしにエドワードが扉に向かって話しかける。


「……入れ」


「!」


 大好きな女性声優の声で喋った! と私は思わず息を呑み、一瞬固まった。最高だ。推しの声と言えばこの人。間違いない。


 感動で身震いした私を怯えたと取ったのだろうか、エドワードの目がモノクルの奥で少し翳ったように見えた。すっと扉の前から避けるから私が開けないとならないらしい。これまでの採用面接全部リモートだったから面接会場の扉を開けるのは初めてだ。


 失礼します、と震える声を叱咤しながら手を伸ばす。触れる直前、そっと深呼吸をして。緊張のせいで手汗が凄いのか、ドアノブが湿っている気がした。ごめん、推し。


 ぐっと丸いドアノブを押し開いた扉の向こう。厚いカーテンの隙間から漏れ出す細い陽の光が壁を照らす。白いクロスで覆われたテーブルに置かれたランプには火が灯っており、部屋全体に少し熱を感じた。暖かい。


 推しは本棚の前に立っていた。貴族にしては簡素な黒い服で細い体躯を包んでいる。白皙の肌がその黒に映え、本のページを捲る指先が浮かび上がってより白く見えた。黒髪は僅かな光でさえその艶やかさを強調し、目元が隠れそうなほど前下がりに伸ばされた前髪の間から視線を向けられる。宝石にも引けを取らない紫の瞳。私はその目に吸い込まれるような錯覚を覚え、釘付けになった。鋭く、冷たく、私に興味がないのだろう目はそれでも、今だけは私を驚いたように見る。


 あぁ、生きてる。私はうっかり泣きそうになった。


「――きみ、名は」


 それ、初登場時のセリフ! と内心で悶えていたら微かに首を傾げられ、慌てて口を開いた。


「名前……え、恵麻、です」


「エマ。へぇ、手は何ともない?」


 今この瞬間、私の名前は世界で一番素敵な響きとなった。


 思わず本名を答えていたけれど意外と馴染む名前で良かった。お父さんお母さん、ありがとう。推しに名前を呼んでもらえた。より一層大事にします、この名前。


「ドアノブにクレマチスから抽出した成分を更に強めたものを塗っておいたんだけど」


「は?」


 推しはふむと考え込む素振りを見せた。私は呆気に取られて自分の掌に視線を落とす。何ともない。ドアノブが湿ってたのって手汗じゃなくて、もしかしてあれ、毒成分に触れてたってこと?


 いや、なんか、そういうの書いたけど。具体的な品種は出してない。常人なら即かぶれるとか、そんな感じだった気がする。それがクレマチス?


「ふぅん。毒に耐性があるって話は――」


 本を閉じてテーブルに。反対の手でランプの陰から取り出した小瓶を私にも見えるように置いた。その中身が、毒?


 私の様子を観察しながら彼は楽しそうに目を細めた。いや、楽しい場面か? 改めて考えると初対面の相手に毒を試すとかどうなってるんだこの人。相手が誰であろうと容赦なくやるだろうとは思って書いた。でも体験すると何だこいつとも思う。


「――嘘ではなかったというわけだ」


「エリオット様」


 エドワードがたしなめるような声を扉の向こうで出したけれど、試されたことを私は気にしていなかった。


 耐性の有無、其処に関心があったなら。これはチャンスだ。だから、本当です、と答える。さっきとは違う緊張で、せっかくの可愛い笑顔を披露することもできないけれど。


 推しは冷たい目で私を見る。体の内側まで見通そうとするかのように。どんな思惑で近づいて来たのかと見定めるように。途端にぐっと周囲の温度が冷えた気がした。でも好かれに来たわけじゃないから怖くはない。ただ、本気であるのが伝わるようにと願った。


 顔の良い推しを前にして平気なわけはないのだけど、まぁ私も中身は二十五歳なわけだし、多少は平静を装えていたら良いと思う。


「私を雇ってもらえませんか」


 精一杯、熱意をこめて言う。彼を見つめるための分身の綺麗な赤い目が、同じ色の熱を伝えてくれれば良い。


 私を向く推しの綺麗な紫が、すぅ、と真意を確かめるように細められた。黒伯爵と呼ばれ、初対面の相手を毒で試し、それでも雇ってほしいと訴える娘は彼にはどう見えるだろう。


「毒を受け付けないなら精々が手袋代わりにしかならないだろ。雇う意味がない」


 意味ならありますと急いで口を開いた。私から興味を失ってその紫が離れる前に。


 推しは外しかけた冷たい目をまた私へ向ける。


「私、毒を摂っても半日あれば解毒してしまうんです。だから毒では死なない。それがどれだけ有用か、解って頂けますよね?」


 私は必死に自分を売り込む。採用面接でこんなに必死になったことはない。でもこれは私がうんうん唸って考えた贈り物のひとつだ。彼の傍にいるために不自然ではない理由。彼が歩む未来の行き先を少しでも逸らすための、別れ道を塞ぐための人柱。


「ふぅん。つまり私専用の、被検体になってくれる、ということ?」


「エリオット様」


 再度エドワードが扉の向こうで窘めるどころか咎めるような声を出したけれど、私は構わなかった。そのつもりで望んだ贈り物だ。


「はい。どんな毒でも試し放題です。例え仮死状態にする毒を呷っても、私は自力で目を覚まします」


「凄い自信だ。解毒するまで症状は出るの? 

 ――きっと凄く苦しいよ」


 表面上は優しげに。文字だけなら案じているようにさえ聞こえる言葉も、私には違って聞こえた。声にも、綺麗な紫の瞳にも温度を感じられない。彼は知っているからそう言う。


 拒絶だ、と思う。前職で沢山見てきた拒絶の色。けれど彼をひとりにしてはいけない。私は推しを、彼を、救いたいのだから。


 烏滸がましい願いだと承知している。救いたいなんて、それこそ神様みたいに大それていることも。救われたいのは私で、そのために推しの命を救おうとしていることも。それを履き違えないように戒めながら、それでも、と私は声に出さず確かめる。息ができなくなりそうだった。


 あなたのいない世界では、生きられないから。


「私、お役に立てると思います」


 言い返すのは生意気だったろうか。でも推しを死なせたくない。そのためなら私は、普段しないことだってできる。


「だからエリオット様、私を雇ってください」


 誰かが傍にいることを、当たり前のこととして受け入れられるようになってほしい。そのための一歩は嫌悪でも良い、拒絶でも良い。まず他者へ向ける感情を沢山、この人から引き出したい。


「きみを雇って私に何か利点がある?」


 推しの声も表情も冷たかった。は、と息が無意識に自分の口の端から零れる音がした。背筋がぞっと凍りそうになるほどの威圧感だ。こんなに小柄で守ってあげたくなる二十歳の分身を前に、よくそうできるものだと思う。でもこれが、彼の最初の感情なら。


 私はあえてにっこりと笑って両掌が彼に見えるように肩の位置まで上げる。指先が震えていることに気づかないでと祈って。


「少なくとも手袋の消費は抑えられますよ」


 無理矢理に頬を上げて、強気に笑ってみせた。このお屋敷の人は皆、手袋を身につける。彼と毒とが切っても切れない関係だから仕方ないけれど、私だけは素手でいられる。生き物は毒を恐れるものだ。だけど私は示してみせる。この威圧感の中でも臆さず、あなたの傍にいる決意があるのだと。


 一瞬、きょとんとした顔が見えた気がして私は目を瞬いた。つと、推しが私から顔ごと視線を逸らした。長い睫毛の奥に綺麗な紫が完全に隠される。


「……部屋を用意しろ、エドワード」


 小さな溜息の後、次いだ言葉はエドワードに向けられていた。


「よろしいので?」


「手袋になると言っているんだ。倉庫でも文句は言わないだろ。

 働いてもらうよ、エマ」


 紫の視線が不意に向けられて心臓が止まった気がした。いきなり良い声で名前を呼んだり綺麗な顔をこちらに向けたりしないでほしい。ただ画面の向こうにあったものが、紙一枚隔てないと見ることさえできなかったものが手を伸ばせば触れられそうな距離にある。生きてる。私にはそれだけで充分なのに、不用意にそんなことされたら。


「ん゛んっ」


「何だその返事は」


 眉根を寄せて怪訝そうな表情を浮かべた推しに私は胸の内で、待って、と静止をかけた。あんまり供給過多で実は止まってるかと思った。よし、心臓、動いてる。


「ごめんなさい。働きます。大丈夫です。何からしますか」


 胸の動悸を抑えるように手を当てながら尋ねたら、別に何も、と返ってきた。


 推しは手元の本に視線を戻す。早く出て行け、と言わんばかりだ。


 それを見て、どうせできるはずがないと思われているのだと腑に落ちた。最初の拒絶が続いているなら私はただ、食らいつくだけだ。絶対に離さないと彼が理解するまで。


「分かりました。試したい毒が出てきたらいつでも仰ってくださいね」


 にっこり笑うと私は扉を向く。エドワードは驚いたように少し瞠目したけれど、主人であるエリオットをちらりと見て何も言わないのを確認すると頷いた。


「エリオット様、扉は閉めても?」


「ああ、構わない。ひとりにしてくれ」


「かしこまりました。では、失礼致します」


「失礼します!」


 私はぺこりと頭を下げた。微かな音をさせて扉は閉まる。勝手に開いてくる気配もない。完全な無音。推しと会っていたことさえ幻覚だったかもしれないと急速に思い始めた。気持ちが昂りすぎて何かもう記憶が曖昧なんですけど。


 エドワードに知られないよう、ふぅ、と細く小さく息を吐いてから、はたと気が付いた。


 此処から先を何も書いていない、と。


 シナリオ通りは此処までで、この先は私自身が何とかする必要がある。空白へ足を踏み出すわくわくも、辿る足跡がない不安も、両方を抱えて。推しが生きる未来を私が、掴み取る。


 ごくりと生唾を飲み込んだ私はエドワードが何も言わず、足音もほとんどさせずにもう歩き始めているのを知って慌てて追いかけた。

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