白煙
ましまろう。
白煙
真夏の8月の出来事だった。直属の上司である鈴木部長が包丁で刺された。目の前で。刺したのは見知らぬ女性だった。隣にいた後輩の佐藤さんが悲鳴を上げた。呆然としていた私はお手本のような耳をつんざく後輩の高い悲鳴で我に返って、倒れた鈴木部長の前で座り込む女性を見つめ続けていた――
「おはようございます」
「おはよう」
鈴木部長が刺された現場を目撃してから一週間。鈴木部長の代理で私のいる総務部を兼任することになった経理部長の高橋さんは、たった一週間でも以前よりも老けたように見えた。
「まだ外は騒がしいかい?」
上司の鈴木部長は刺された後、結局助かることはなかった。刺したのは鈴木部長の不倫相手の女性だった。鈴木部長は10年も既婚者であることを隠して付き合っていたらしい。加害者の女性は37歳で、そんな年齢の女を裏切ったら刺されても文句は言えないだろうとネットには書かれていた。これらの情報は全て連日報道されていたネットニュースで得たものだった。
「そうですね」
弊社がそれなりに名の知れた企業だったためにマスコミが押しかけていた。私を含めリモートワークができない従業員は普段運搬用にしていた裏口を使いこっそりとマスコミの目を抜けるようにして出社をしているのであった。何か悪いことをしたわけではないというのに。
「すまないねぇ。本当に出社してくれるだけありがたいよ」
「いえ。高橋部長も大変でしょうから」
私と業務を分担していた後輩の佐藤さんは事件を目撃したショックで仕事を休んでいた。そうなると私が休むわけにもいかなくて、こうして私は上司が殺された後も健気に出社をしているのだった。別に上司が殺されたことや刺された現場を見たことが平気なわけでない。衝撃を受けてはいた。それでも私は出社を続けることを選んだ。
――「え、休職?」
鈴木部長が殺されて数週間が経った。マスコミも弊社には食いつくこともなくなって少しずつではあるけれど日常が戻りつつあったのに。どうやら後輩の佐藤さんは精神的に病んでしまい休職するらしいと噂が流れていた。
「まぁ仕方がないだろう。殺人現場を目撃してしまったのだから……田中さんも無理はしないようにね」
高橋部長の言葉は優しいようで「休職は勘弁してくれよ」という念が籠っていた。それはそうだ。私と佐藤さんは同じ仕事を分担しているのだから。私まで休職してしまったら、次こそ高橋部長に限界が訪れるかもしれない。
「休職……かぁ」
私の中にモヤモヤがあるのは、佐藤さんのキラキラとしたSNSのアカウントの存在を知っているからだった。
〈平日だから結構空いてた!〉
佐藤さんのSNSには流行りのスイーツの写真が載っていた。休職中に何かしらの手当を受け取っているのだろうか。新卒三年目だった佐藤さんは大学生活に戻ったかのような自由な生活を謳歌しているように、少なくとも私の目にはそう映っていた。
「これ、どう思います?」
「あら、何これ⁉人事に言ったらどう?」
噂好きのお局の伊藤さんに相談してみたら案の定食いつきが良かった。人事に告げ口するよう勧められたけど、一応佐藤さんも診断書を貰って休職しているわけで……SNSをやってはいけないこともなければ、流行りのスイーツを食べに行ってはいけないわけでもない。その現状がより一層、私の心をモヤモヤとさせていた。
「大人しく家にいろって訳じゃないけどねぇ。モラルというか何というか、今時の子ってこういう感じなのかしら」
伊藤さんが私の代わりに佐藤さんの悪口を勝手にたくさん言ってくれるから、私はそれを聞いてこのモヤモヤが自分のものだけではないと思って安心していた。
*
鈴木部長が殺されて半年が経った。相変わらず佐藤さんは休職したままで、現場もその状況に慣れてしまっていた。あと数カ月もすれば新しい社員も増えるかもしれないし、私の佐藤さんに対するモヤモヤはほとんどなくなっていた。
「田中さん、ちょっといいかな」
突然高橋部長に呼び出され会議室に行くと、人事の上長たちが面接をするかのように長い会議室のテーブルに並んで座っていた。訳も分からず促されるまま椅子に座ると、信じられないことを告げられた。
「佐藤さんがね、田中さんからハラスメントを受けたって相談があって」
「……はい?」
思い当たる節がなかった。たしか一週間くらい前に、デスクに忘れ物があったとか言って、少しだけ顔を出した佐藤さんと話をしたけれど、本当にほんの少しだけしか会話をしていない。
「佐藤さんがいなくても大丈夫だと言ったとか」
「え?」
それは誤解でしかなかった。佐藤さんが休職をしている手前、申し訳なさそうにしていたから「全然大丈夫だよ」と答えた。それは覚えている。しかし「いなくても大丈夫」なんてニュアンスでは言っていない。私は丁寧に人事の上長たちへ説明をした。
「しかし本人が辛くて復職できないと言っててねぇ」
「そんな……」
「田中さん頼むよ。彼女さぁ、取引先の役員の娘なんだよね。一言謝罪してあげてもらえる?それでいいって言ってるから」
「はい?」
何だそれ。怒りで私の頭に血が上る。人事部は「じゃあそういうことだから、よろしく」と言うと帰るよう促してきた。私は納得がいかなかったけれど、この後の仕事も立て込んでいるし……仕方がなく退席することにした。自分のデスクに戻っても、私の手は怒りで震えたままだった。
*
「お久しぶりです……」
「お久しぶりです田中先輩」
一週間後。平静を装いながら、私は人事部がセッティングした会議室で鈴木部長と人事部の上長を挟む形で佐藤さんと向き合って面談をしていた。眉毛をこれでもかと下げて怯えた様子を演出している佐藤さんが気味が悪くて仕方がなかった。
『来週推しのライブがあるので休みますねぇ』
『……わかりました』
ライブならもっと前から予定分かってただろうが。出会った頃から佐藤さんとはウマが合わないと思っていた。それでも一応仕事は最低限こなしてくれていたし、内心悪態をつきながらも適度に距離を取って一緒に仕事を続けてきた。それももう今日で終わりを迎える気がしていた。
「佐藤さん。誤解を与えたことは謝ります。すみませんでした」
「誤解って何ですかぁ?」
感情を殺して謝って、さっさとこの不毛な時間を終わらせたかった。それなのに、佐藤さんは私の言葉に噛みついてきた。
「言葉通りですが」
「誤解じゃないですよねぇ?本当はそう思ってたんですよねぇ?」
何だこの女。さっきまで被害者面をしていたと思えば上から言ってきて……きっと私との相性が悪いことがずっとストレスだったのだろう。この面談で今まで私に対して溜まっていた鬱憤を発散したがっているとしか思えなかった。
「私のこと嫌いなんですよね?私のSNSも監視して。悪口言ってたんですよね?それも謝ってください」
「はい?悪口なんて言っていませんが」
私たちの口調はただの女の口喧嘩になっていた。高橋部長と人事部の上長は想定していなかった展開だったのか戸惑っていた。それに構わず言い合いを続ける私たち。
「伊藤さんと悪口で盛り上がってたって同期の子が言ってました。最低ですね」
「悪口を言っていたのは伊藤さんです。私は言っていません」
「上司が殺されたのに平気な田中さんの言うことなんて嘘くさいですけどね」
「むしろ嘘くさいのは上司が殺されたのにSNSに遊んだ写真を上げ続けている佐藤さんの方ではないでしょうか」
私たちの口論はヒートアップしていく。私は佐藤さんが休職中で人手が減っても文句も言わず、会社に従順なまま働き続けた。だからこそ高橋部長たちは佐藤さんが取引先の役員の娘だと事情を話せば私が言うことを聞いて謝ってくれると思ったのだろう。それが気に食わなかった。私が反抗しないと高をくくっていることが、心底不快だった。
高橋部長が私たちの口論を止めようと何か言っていたけれど、私たちは無視をして口論を続けた。
「気分転換したらダメなんですか?ずっと傷付いてかわいそうなままでいろってことですか?」
「そんなことは言ってません。あなたが関係ないことを根拠に非難してきたので反論しただけです」
「田中さんは鈴木部長が亡くなって何ともないんですか?何も思わないからそんなひどいことが言えるんですか?」
「鈴木部長が亡くなって半年も経ちましたから」
「まだ半年じゃないですか……この人でなし」
「区切りの付け方は人それぞれだと思いますが。もう終わりでいいですか?」
「謝罪がまだですけど」
「あなたがどこぞのお偉いさんの娘だから謝れと言われました。これは会社からのパワハラです。私は抗議します。これ以上は謝りません。では」
私は席を立ち、会議室を去った。部屋に残った三人がどんな顔をしていたのかは分からないけれど、どうでもよかった。
*
その後何事もなかったかのように仕事を続け、退勤した。高橋部長は困ったように「また話し合いの機会を作るから……」と控えめに私に伝えた。どうやら佐藤さんは怒って帰ったらしい。どうでもいいけれど。
〈告発します。37歳女性を狂気に走らせた不倫殺人事件で有名になったA社の社員です。大手B社役員の娘である後輩社員Sが事件をきっかけに休職をしましたが遊び放題。あげくその後輩に私はいわれのないパワハラ疑惑をかけられました。事の始まりは上司であるS部長が不倫相手に殺害されて半年後のこと〉
〈でした。突然人事部に呼び出され、私は後輩Sへのハラスメント疑惑を追及されました。誤解があると説明しても「お偉いさんの娘だから謝っておいて」と耳を傾けてくれることはありませんでした。私はこの出来事に不信感を抱きました。後日再び人事部に呼び出されたので会議室に向かうと、中には後輩Sが〉
〈いました。私は後輩Sから謝るよう言われ、周囲に自身の上長、人事部の上長がいて――〉
私は家に帰るとSNSを更新した。文字制限があるから長文だと何度も投稿を分けないといけないのが煩わしかった。休職中に遊びまくっていた佐藤さんのSNSのアカウントのリンクと、はしゃいでいる写真も添付した。後はもう、世間が勝手に燃やしてくれることを願うしかない。一方の意見じゃ分からないと、都合が良いように切り抜かれていると私が炎上するかもしれないけれど、どうでもいい。何でもいいからあのバカな会社や、顔出しをしているSNSから様々な個人情報が特定されるであろう佐藤さんに深刻な影響があればなんだってよかった。伊藤さんに聞いた情報では佐藤さんの父親が役員を務める会社は誰もが知っている有名企業だった。弊社最大の取引先。きっと良い燃料になるだろう。
私の体はSNSでの怒涛の連投を終え、何だか火照っているようだった。2月の澄んだ冷たい空気にさらされたくて、ベランダの窓ガラスを開けた。
「はぁ……」
吐いた息は白く、空へと昇り、溶けていく――
『お子さんもう高校生だった?早いわねぇ』
噂好きのお局の伊藤さんのおかげだった。他人にほとんど私的な話をしない秘密主義の鈴木部長が既婚者だと知ったのは。結婚指輪をしていないだけで未婚者だと信じ、新卒二年目だった私は頼りがいのある仕事への姿勢を尊敬し、そして甘い言葉に簡単に惑わされてしまった。恋愛経験のないまま社会人になってしまった自分を恥じた。
『別れましょう』
既婚者だと分かってすぐに別れを告げた。スマホに残る連絡先と今までのメッセージのやり取りはお互い目の前で削除した。あのクズ男は他にも女がいたからこそ、簡単に身を引いたのだと今になって思う。
『お疲れ様です』
私は不倫関係を解消しても仕事を辞めることはしなかった。平気な顔をして部下として在り続けた。騙されていたのは私なのだから。どうして私が辞めないといけないのか。私は意地でも仕事を続けた。そうして数年の年月が流れ、クズ男は報いを受けた。
『きゃーーっ!!』
会社の前で後輩の佐藤さんに挨拶をされてしまい、流れで一緒にロビーへと向かうと、クズ男が目の前で包丁で刺された。佐藤さんの悲鳴がロビーに響く中で、クズ男を刺した女性は興奮しているようだった。次第に全身が脱力したようにその場にペタリと座り込んだ。
私はその時に彼女が一瞬だけ見せた顔を忘れることはないと思う。あの顔は、確かに救われた顔をしていた。憑き物が取れた後の清々しい顔をしていたのだった。私もきっと同じ顔をしていたことだろう。
「ふふ」
私は上がる口角と笑い声を抑えることができなかった。ベランダに一人でいて、誰も見ていないのだから抑える必要もないのだけれど。
「んーっ!」
筋肉をほぐし、リラックスをするように腕を上へと伸ばした。ようやく仕事を辞めることができそうだ。鈴木部長が亡くなったらもう、私が意地を張ってあの会社で働く理由はなくなっていた。ただどのタイミングで辞めようか決めあぐねていたのだった。だから佐藤さんには感謝しなければならない。役員の娘である後輩社員Sからのいわれのないパワハラ疑惑という嫌がらせによって、私は退職する真っ当なきっかけをもらえたのだから。
あぁしまった。佐藤さんに面談で最後に感謝でも伝えてやればよかった。意味も分からず不気味に思わせることができたのに。
「……コウジさん」
同じ苗字の部長が他にもいたから名前で呼ばれることが多い人だった。関係を隠しながら職場で名前で呼ぶのは悪いことをしてないのに何とも言えない背徳感があって楽しかった。結局それは本当に悪いことだったけれど。寿退社をしたら周囲は驚くかな、なんて思って浮かれた頃の自分を殺してしまいたい。
結局コウジさんの葬式がいつ行われたのか、はっきりとは知らなかった。殺人事件だから普通の葬式とは段取りが違っていたらしいと伊藤さんから聞いた。遺族も事件の内容が内容だけに恐らく親族のみで執り行われたのだと思うけれど……。
葬式がなければどうやって故人とお別れをすればいいのだろうか。小学生の頃、自身の祖母を亡くした時は火葬場の煙突から空へと上る白い煙を見た時に、本当のお別れを感じたことを思い出していた。
「はぁー……」
長くゆっくりと息を吐く。白い息が空へと上がっていく。私のSNSの投稿がどうなったかは、明日の朝の楽しみにしておこう。深夜に暇な人たちが悪意を持って拡散してくれるかもしれないし、正義感の強すぎる人たちが議論を繰り返すことで拡散されるかもしれない。どっちだっていいけれど。どっちだっていいから、コウジさんを思い出してしまう会社なんて、炎上してなくなってしまえばいい。
「さようなら」
火照った体もすっかり冷えてきた。ベランダの窓ガラスを閉める前に不意に言いたくなった、お別れの言葉は白い息とともに空へと消えていった。私の声色は自分でも驚くほど軽やかだった。
白煙 ましまろう。 @SetunaNoKokiri
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