シーン8:笑顔


今日は休日。珍しく沙耶に届いた指令が「俺とデートをしないこと」というものだった。俺に届いた指令は、またも「沙耶の指示に従うこと」だった。当然、俺たちは別々に休日を過ごすことになった。


出かける気分が置いてけぼりをくらった俺は、外に出ることにした。 相変わらず無機質で、どこか息苦しい灰色の檻の中を俺は進む。


「ん……?」


俺の瞳に映る灰色の世界の遠くから極彩色の塊が一点、ゆらゆらと揺れながら向かってくる。


――ジョナサンだ。


向こうも気づいたようで、口でメガホンを作って大声を出してきた。


「おーい!お前この前の……滝沢か!」


ジョナサンは、だぼっとした派手な色の服を揺らしながら駆け寄ってきた。街行く人々の視線が集まり、少し居心地が悪い。


「ジョナサンさん」


「ジョナサンでいい。お前にちょっと見てほしいものがある」


ジョナサンが取り出したのは、鈍色の缶。まさか。俺は小声で、しかし強く警告した。


「それはまずいですって!」


「まあ見てなって」


缶を開ける。パカッというポップな音が響き、ひたひたに満たされた赤いペンキがてらてらと光り、こちらを覗き込む。見てろと言われても、見てるだけで済む気がしない。


「そらっ!」


ジョナサンはペンキ缶をひっくり返す。缶から飛び出す液体が円弧を描き、ぴしゃっという音とともに灰色の世界に赤い亀裂を入れた。


「なあ滝沢、これ見てどう思う?」


「どうも何も……芸術テロじゃないですか!何やってるんですか!」


「まあそうカッカすんなって」


ヘラヘラしているジョナサンとは対照的に、だんだん笑えない事態になってきた。周囲がざわつき始め、端末を使ってどこかに連絡している者もいる。俺の頭の中のシミュレータは、ひとつの未来を予知していた。


「……零化局が、来る!逃げましょう、ジョナサン!」


「おい!まだ感想聞いてねえぞ!」


渋るジョナサンの腕を引っ張り、走り出した。彼の持っていたペンキ缶が放り捨てられ、金属音が響いた後に転がり、残っていた液体が漏れ出す様子が遠くなっていく。


案の定、白い制服連中が来るまで時間はかからなかった。俺たちは必死で走り、ビル群を抜けて郊外まで逃げていった。


山道まで入った頃、追っ手はもう来ていないようだった。俺は肩で息をして、ジョナサンを問い詰める。


「はあ、はあ……なんてことするんだ、こっちまで、悪者みたいじゃないか」


ジョナサンはあまり息が上がっていないようだった。芸術テロで、走るのが日常なのだろう。


「……でもお前、あのとき一瞬だけ笑ってたぞ。嬉しいことがあった子供みたいに」


「笑ってた……?」


予想外の返答に、言葉が詰まった。あの時は焦っていただけだったはずなのに。


「はは、まあ街でペンキぶちまけたのは悪かったな。俺なりのコミュニケーションなんだ。芸術を使えば人の心の奥が見えるからな」


ジョナサンは、またもニヤリと笑う。


「芸術に目覚めたら連絡してくれ。地下の俺たちはいつでも歓迎するぜ」


俺の中に、芸術という概念が芽生えた。いや、元からあったのを発見したのかもしれない。

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