シーン3:指数ゼロ
河合 澪(かわい みお)
指令: 清掃作業の際、滝沢蓮と会話する
因果律信頼区間: 0
芸術テロの清掃活動は、防護服に身を包み有機溶剤で汚れを落とす清掃部隊に加えて、ペンキと有機溶剤の混ざった液の後処理や、有機溶剤の補填を行う支援部隊に分かれる。
芸術家を捕まえるための制圧部隊の余剰人員もまた、この支援部隊に割り振られる。それだけでなく、管理局の人員も割かれることが多い。
零化局の職員は、管理局とは毛色が異なる。管理局の人間は、たいていは赤城や杉山のように人間味がある程度あるものだが、零化局の人間の場合は極度に人間性が抑えられている。
零化局の職員は例外なく、無表情、無言、必要最低限の行動で、淡々と自身の責務を果たすのだ。マインドコントロールや洗脳のような、特殊な心理的調整がされているんじゃないか、なんて出どころ不明の噂も出回るほどだ。
そんな零化局の職員が、作業中の俺に話しかけてきた。二人で一緒に、有機溶剤とペンキの混ざった液体をかき集める。
「あの、貴方が滝沢蓮さんですか?」
女性だ。髪を後ろで結っており、化粧も薄く、目立つアクセサリーなどは見当たらない。俺が驚いたのは、ネームカードに「制圧部隊所属」と書かれていたことだ。こんな色白の華奢な体で、どうやって過激で野蛮な芸術テロリストたちを捕まえるのだろうか。
「はい、私が滝沢です」
「あの、私……河合澪っていいます。指令書にあなたと話せって書いてあって」
河合は無表情で、抑揚のないトーンで理由を説明した。俺は少々戸惑ったが、とりあえず会話を続ける。
「私とですか、相変わらず指令書は不思議なことをさせますね」
河合の表情が少し緩んだ気がした。
「ですよね、私たち初対面なのに」
もう二度と会うこともないだろうと思い、前から気になっていたが――少し失礼にも映る質問をした。
「ちょっと踏み込んだことをお聞きしますが、河合さんの指数っていくつぐらいでしょうか?」
指数。演算社会への従順さの証。零化局の職員ともなれば、相当に低い数値だろう。俺は一番低かった時でも0.4くらいだったので、失礼ながら――人間性を捨て去ったような職員の回答に期待した。
河合は、俺の予想に反して、あっさりと、そして予想外の回答を返した。
「私の『因果律信頼区間』すなわち『指数』は、ゼロです」
「ゼロ……?」
ゼロなんてあるのか。俺は指数の計算式を何となく知っているから、理論上はゼロとなる場合があることもわかってはいる。でもそれは、今まですべての指令を一度たりとも破ることなく、完璧に厳密に従ってこないと出てこない数値だ。うっかりしていてやり忘れた、がない世界の話だ。
「ゼロです」
河合は、念を押すように繰り返し、現実に引き戻される。会話を続けなくてはと思いなおし、何とか質問をひねり出す。
「指数ゼロって、どうなんですか?」
「どう、というのは……」
「えっと……毎日過ごしていて、どんな……気分でいることが多いですか?」
俺はしどろもどろになりながら――演算社会に最も従順になった人間は何を思っているのか、という疑問の答えを聞かずにはいられなかった。
「そうですね……」
顎に手を当てて斜め上を見て考え込む彼女の、表情の薄い顔を見つめる。感情が薄いのに芝居がかった所作が、人間のふりをしているロボットのようにすら見える。
逡巡の後、彼女は淡々と語った。
「毎日が平穏で、幸福です」
その声のどこにも嘘はなかった。それでもなぜか、少しだけ嘘臭く感じられた。どうしてあんなに無表情に、平穏だとか幸福だとか言えるのだろう。
芸術家に植え付けられた胃の中の異物が、俺の中で蠢いた気がした。
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