シーン2:異物の清掃


滝沢 蓮(たきざわ れん)

指令: 通勤電車で3両目の隅の椅子に座る

因果律信頼区間: 0.8



俺は目を覚ます。いつも通りの、柔らかい日差しが差す穏やかな朝。


いつも通りに、端末に指令書が届いている。


「3両目の隅の椅子か」


指令の意味は理解できるが、意図はさっぱり理解できない。


俺はいつも通りにトーストを焼き、スクランブルエッグとベーコンを皿に乗せる。


指令に従って過ごすことで、思いがけない幸運に遭遇できたり、不運を回避できたりするらしい。しかし、その仕組みは『ワールドシミュレータ』のみぞ知るところだ。


人間には理解できない、高度すぎる理屈で人々の幸福な未来を保証しているという。


実際、「不慮の事故」と言われる出来事――交通事故、医療事故、突然の死などは、ワールドシミュレータが運用される前よりも激減した。


俺が物心つかないころにワールドシミュレータの運用が始まったから、そんな不運な世界とやらをほぼ知らない。そもそも、運という概念がよく分からない。ワールドシミュレータがすべての未来を演算し、世界の動きを最適に管理しているからだ。


そんなことを考えていると、いつの間にか朝食を終えていた。


「そろそろ行くか」


社会人の戦闘服、スーツに身を包んだ。




駅についた俺は、人ごみに揉まれながら3両目の乗車位置を探す。


「ここだな」


なんとか乗車位置に並んだと同時に、通勤電車がやってきた。


今の俺はホームで身じろぎするのさえ一苦労なほどに混雑しているのに、本当に隅の席なんて取れるのだろうか。


電車のドアが開き、人が流れ出してくる。


俺はいつも通り、半信半疑で指令の遂行を試みる。


人の流れは、まるで聖者が海を切り分けたように、俺と隅の席との間に空白地帯を作り出した。


その導線に沿って、隅の席を確保する。


都市部の電車は非常に混雑する。いつもは座ることすらできず、立ったまますし詰めになることの方が多い。


しかし、ワールドシミュレータが指令を出したら話は別だ。今まで20年はワールドシミュレータの指令に従ってきたが、従おうとして従えなかった試しがない。どんなに不可能に思えることでも、指令書ひとつで可能になる。


例えば、今日は仕事を休め、という指令書をもらって、仕事を休んだこともある。ワールドシミュレータの指令に従う権利は人権の一種として、社会的に認められているのだ。


席に座れて心に余裕のできた俺は、振り向いて窓をぼんやりと眺める。どこまでも無機質なビル群が続く。極端に合理的で効率主義で、景観というものをまるで知らない景色に少々呆れる。俺がこの気持ちを抱くことすらも――全知全能の悪魔、ワールドシミュレータはお見通しなのだろうか。


目的の駅で降り、少し歩くと職場のビルに着いた。


カードキーを当てるとゲートが開き、空調のきいた心地よい空気が俺を包む。


俺は、ワールドシミュレータに給仕する仕事をしている。世界演算管理局なんて仰々しい名前をしてはいるが、そこで働く職員はワールドシミュレータの奴隷というのが実際のところだ。


時間通りに出勤し、かばんを自分のロッカーに放り込んだ。


自分の席に着き、さっそく仕事をするか、と思ったところで上司に呼ばれる。


「滝沢!来たところで悪いんだが、緊急で現場に急行してほしい」


どことなく焦った口調だ。上司の額から汗が滴っている。


「現場?」


「また芸術テロリストが現れたんだよ。本当に人の仕事を増やしやがって……」


「芸術テロですか」


「ああ。場所は3-57ブロック付近だ。俺は別の仕事で外せないから、赤城と杉山の3人で向かってくれ」


「承知いたしました」


俺は、その直後に仕事場に来た赤城と杉山に声をかける。


「現場に急行するぞ」




現地に着くと、既に零化局の清掃部隊が作品を洗い流している最中だった。


それを見た赤城が、何気なくつぶやく。


「しっかし、絵を消すだけなのに白い防護服着て消毒剤みたいなのを散布するなんて、ウイルスの駆除でもしてるみたいだよな」


杉山が鼻で笑う。


「芸術とやらは人の心をかき乱して、『指数』を上げる危険因子だからな。演算社会の病原体だ。指数が高いほど、ワールドシミュレータが読みづらい行動をする人間なんだろう?そんな奴、近くにいたらたまったもんじゃない」


俺たちはワールドシミュレータに給仕する立場だから、シミュレータに従順でなくてはならない。管理局の採用資格のひとつは、指数が1を切っていること。管理局に就職後も、指数は1.5を超えていないか定期的にモニタリングされる。


雑談に花が咲き始めたのを見て、俺は割り込む。


「今はお喋りタイムじゃないからな。外部の人間もいる。清掃部隊の補助でもしよう」


赤城が最後に粘って言い残した。


「でもなんで、絵を描こうとするんだろうな。どんなに描いても、どうせこうやって消されるのに」


「おい」


「分かった分かった、ちゃんと作業するって」


俺の動いた口は赤城の疑問を抑え込んだが、頭にこびりついてしまった。なぜ消されるのに、零化局に捕まる危険を冒してまで芸術家は絵を描きに来るのだろうか。


社会への反感を表しているのだろうか。あるいは、もっと原始的なもののためなのだろうか。


演算社会にすっかり順応していた俺には、見当もつかなかった。分からなくて、気持ち悪い。胃の中に異物があるような感覚を抱いた。

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