花、散りて。
目を開けてまず視界に映ったのは、肌触りの良い私専用のベッドの布地と、その下にある古い畳。慣れ親しんだいぐさの匂いが、鈍った鼻をくすぐる。
嗚呼。帰ってきたのだな、と思った。
眠ってばかりですっかり痩せこけてしまった脚を奮い立たせ、脱力して動く気のない体を無理矢理持ち上げる。幸い、歩くための体力はまだ残っていたようだ。おかげでまた、あの人の元へ向かうことができる。
ふらふら、よろよろと転びかけながらも、着実に進んでいく。
「あら、起きたのね。お水飲む?」
どこかから聴こえてくる声は、多分あの人のお母さんのもの。遠いところは見えないので、はっきりとはわからないけれど、多分そう。
皺の増えた彼女の手が、私の口元に水の入ったスプーンを差し出してくる。そういえば、ここしばらくは朝が来ても夜が来てもずっと寝たきりで、ほとんど飲み食いはしていない気がする。しかしながら、この喉は既に、乾きというものを感じないらしい。
申し訳ないとは感じつつも、私はそれに気付かないふりをして、再びゆっくりと足を動かす。もう、あまり時間は残されていないのだ。
以前と比べて、随分と衰えてしまった僅かな視覚と嗅覚でも、ほとんどの時間を共にした大切な人の気配だけは、少しも迷わずに辿ることができる。
あの人の香りが最も濃いであろう場所で座り込めば、何も言わずともお母さんは私を抱き上げて、マットの上に降ろしてくれる。
いくつかの透明な管。硬く冷たいベッドの柵。病人特有の不思議な匂い。異質で慣れないものに囲まれて、桜はただ静かに、瞼を閉ざしていた。
倒れないよう注意を払って、枝によく似た細い腕の中に寝そべる。そしてぺろりと、彼女の頬を小さく一舐めする。
桜。桜。私が来たよ。貴方との約束を、守りに来たんだよ。
「くぅーん」
最後の力で上げた声は少し掠れてしまったけれど、彼女の愛おしい手は、しっかりと私の頭を撫でてくれて、
「春」
微笑んでくれたような、そんな気がした。
私たちは互いに目を細めて、今度は一緒に、深い深い眠りにつく。
意識の外で、いつの間に近くに来ていたのだろうお母さんが、こちらに向かって言葉を紡ぐ。
今年も、春が来たのだと。庭の桜が、綺麗に咲いているのだと。
花を紡ぎて 和猫三毛 @waneko_mike
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