あの人の花

 何もない空間で目覚めてからこの場所に来るまで、私は私の人生そのものとも言える記憶を、幾つも取り戻してきた。そのどれもが唯一無二の思い出で、今の私を形作るかけがえのない一欠片である。

 そしてそれらの傍らには必ず、花が咲いていた。

 瓶に生けられ、部屋の片隅を彩るもの。鉢植えの上を、優雅に飾りつけるもの。街に溶け込む花壇の上から、通り過ぎていく人々の日常を見守るもの。光の届かない茂みの影で、誰にも気付かれずにひっそりと芽吹くもの。

 今周りにある花々もまた、私自身の記憶に添えられた大切な道標であり、足跡が消えてしまわぬように、ずっと守り続けてくれていたのだろう。

 だからこそ、私の中に一つだけ、どうしても拭えない疑問が残る。

 ――何故、あの人の名前が思い出せないのだろう。

 あの人の存在はほぼ全ての記憶に映っていた。再会してからも片時も離れることなく、常に同じ時間を過ごしてきたし、そもそも、私に花のことを教えてくれたのは、いつだってあの人だった。にも拘わらず、あの人の名前だけが一向に見つからない。

 この世界の何よりも大切なものであるはずなのに、思い出そうとすればするほど、無尽蔵に湧き出てくる霧に埋もれて、真冬の山に隠されたどんぐりの如く行方をくらませてしまう。どれだけ雪原を探し回っても、奥底に眠る小さな木の実が姿を現すことはない。

 あてもない捜索に頭を悩ませていると、不意に、足元を覆っていた冷気がぱたりと消える。どうやらいつの間にか、花畑の道を抜けていたらしい。振り返った先には、相変わらず寒い季節が広がっていた。

 額に舞い降りた粉雪を振り払う私の目の前に、縁のない不透明な壁が立ちはだかる。

 否。壁のように見えたそれは限りなく深い雲の塊で、荘厳な雰囲気を自身に纏わせ、あちらこちらで気まぐれに渦を巻いていた。

「行くのか?」

「行きたい」

 私は即座に答えた。迷う理由など、あるはずもない。

 一度大きく深呼吸をして、無意識に速まりつつあった鼓動を落ち着かせる。数秒後、縦横無尽に入り乱れる眼前の景色を見据えて、その内側へと足を踏み入れた。


 隙間なく密集した雲の群れはほんのりと明るくなったり、かと思えば淡い暗がりになったりと、拍動によく似た明滅を繰り返しながら、私たちが通った足跡を次々と呑み込んでいく。

 あまりにも自然で、かつ規則的な運動が、まるで何か、一匹の大きな生き物に取り込まれでもしてしまったかのような錯覚を、私に感じさせた。

 しかしながら、ゆっくりと波打っていく光と影は奇妙であっても不快ではなく、むしろどこか、心地よい気がする。

 とはいえ、自身の足元と、周囲との境界が不明瞭になるほど見通しのきかない場所を彷徨っていれば、自然と方向感覚も狂ってしまうわけで、既に私は自身がしっかりと前に進めているのか、わからなくなってきていた。

 そんな私を見かねてか、案内人さんは時折「もう少し左だ」「待て、そっちじゃない」など、目指すべき方角を教えてくれた。

 私にとってはただの白黒の世界だが、どうやら彼の目にはもっと鮮やかに映っているらしい。単純に人よりも見える色が多いのだと、当たり前のように彼は語った。

 背後から聞こえる声に助けられ、道なき道を辿っていく。

 すると突然、隙間なく埋め尽くされていた視界が一斉に晴れ、隠されていた空間がその姿を現す。

 地平線の向こう側まで広がる乾いた空白と、時間が停滞した感覚。そしてそれらの中心に佇む巨大な一本の樹木は、穢れの無い空白に満ちたそらを空間ごと覆いつそうと、無数の枝を四方八方に。張り巡らせている。

 この木もまた、私がかつて持っていた記憶の欠片なのだろうか。試しに私は近くにあった根っこの一部に、そっと手を触れてみようとした。ところが、表皮を撫でるはずだった指先は空を切るばかりで、再びかざしてみても、何の感触も掴むことはできない。

 意味不明な現象に目を丸くして、まっすぐと前方を見上げた時、初めてその大木の輪郭が霞みがかった街の如くぼやけて見えることに気が付いた。

 加えて、細い枝の先端に小さなふくらみが実っており、それが未熟な花の蕾であることも、私は今初めて知った。

「あれ、蕾?」

 普通なら、なんらおかしくない光景だろう。けれどもこれまで辿ってきたものは、数や大きさに差はあれど、花を開いた状態で私たちを迎えていた。にもかかわらず上空で揺れる塊は、霞んだ花弁を固く冷たく閉ざしている。

 訳も分からず、困惑している私の耳に、「酷いな」という簡潔な一言が聞こえてくる。顔を向ければ、いつの間にか隣に立っていた案内人さんが、微塵も頭を動かさずに聳え立つ巨木を正視していた。

 酷いとは、いったいどういう意味なのだろうか。無意識に疑問を口にすると、案内人さんは返って問いを投げかけてくる。

「お前は、先ほど思い出した出来事からこの世界で目を覚ますまで、一体どれだけの時間が経っているのか、覚えているか」

 私は首を横に振る。

 ほんの少しだけ間をおいて、彼が話し出す。

「お前とお前の言うあの人が再会してから今日のこの日までに、既に一年が経過している。時の流れに伴って、お前自身の体の老化も、随分と進行した」

「もう気付いているとは思うが、お前たちの記憶は年月とともに段々と薄れていく。ただでさえお前は相当な年寄りだったんだ。残っていた僅かな記憶を失くすのに、その一年という時間は十分すぎるほど長いものだったのだろう」

 確かに私は初めの頃、自身のことを何も覚えていなかった。本来自身の中にあるはずの記憶を、何一つ持っていなかった。

 だから私たちはこの世界に散らばった花々を辿って、欠片を一つずつ取り戻してきたのだ。それらは全て、現実の私が忘れてしまったからこそ、必要なことだったのだと彼は言った。

 そしてゆっくりと首を動かし、中央の大木に向き直る。

「あの樹。あれはおそらく、この空間を統べる花の樹であり、お前にとって最も大切な思い出でもある、最後の欠片なのだろう。だが既に、いつ完全な崩壊を起こしてもおかしくない状態だ」

 唐突に明かされた重大な事実に、思わず声が出る。いや、そういうことはもっと早く言うべきなのでは。こんな悠長に話している場合なのだろうか。

 とはいえ、知ったところでどうすればいいのかなど、私にはわからない。実際今も、霞で出来た偶像のように一切触ることはできないのだから。

 焦りと動揺が伝わったのか、案内人さんは淡々とした調子で「落ち着け」と諭してくる。

「案ずる必要はない。まだ間に合う」

 頭にはてなを浮かべ、私は目をぱちくりする。一体どういうことなのだろう。その疑問の答えはすぐ明かされた。

「忘れられてからの時間が長い記憶ほど、完全な消滅に近くなる。が、記憶というものは、奥底に必ず何かしらの痕跡が残っているものなのだ。それ故、たとえ一度忘れてしまったとしても、きっかけさえあれば思い出すことができる」

 まあ、難しい話は一旦置いておいて、とりあえず今はそのきっかけ? とやらを探せばいいと私は解釈した。

「でもこんなに広いのに、どうやって探すの?」

 素直な疑問を投げかければ、

「私が近くまで導こう。ついてこい」

 返答する間もなく案内人さんは歩きだし、私は慌ててその背中を追いかけた。

 

 地平線に霞んで見えなかったが、たった今抜けてきた雲の群れは空間全体を囲っていたらしく、どこまで進んでも変わらずに不透明な壁を築いている。

 そして、これまた遠すぎて気付かなかったのだが、堆く積みあがった雲は私たちが中にいた時よりも控えめに、明滅を繰り返していた。

 仄かな灯りと影の波紋が不透明な水面に広がっては、次の波に掻き消される。それらの不規則な運動が絶えず行われており、視界には必ず輪郭の曖昧な枯れ枝が這っている。

 もしもこの曖昧さが彼の言う「崩壊の前兆」であるのならば、私が思い出せなかった時、この世界はどうなってしまうのだろう。霞の白に呑み込まれて、何もかも、無かったことになってしまうのだろうか。考えただけで、胸の奥がきゅっと苦しくなる。

 そういえば。案内人さんのことも、何もわかっていない気がする。今更ではあるけれど、結局どの記憶にも彼の姿は映っていなかったため、謎は解けるどころか、かえって深まっていくばかり。

 もちろん正体が気にならないといえば嘘になるが、誰なのかはわからずとも、一つだけはっきりと断言できることがある。

 間違いない。彼は良い人だ。

 優しい風に吹かれ、新月の夜を纏った長髪が、雨に濡れた羽根のように光を反射する。心惹かれるしなやかなそれに、あの人の面影が重なり、無意識に指を伸ばしかけたところで、

「着いたぞ」

 振り向く声に、私は慌てて手を引っ込めた。

 私たちが立ち止まった場所には特に何かがあるというわけでもなく、ただ樹の見える位置が少し近くなっただけのように思える。

 本当にこんなところで、例のきっかけとやらを探せるのだろうか。体ごと傾きそうな勢いで頭を悩ませていると、ふんわりとしたものが徐に頬を撫でていく。

 それは確認する間もなく遠くへと飛び去ってしまったが、再び現れた小さなものは私の目の前で軽やかに舞い上がる。

 先端を三角に切り取られた、薄く柔らかい一欠けの花びら。掴もうとしても、素早い身のこなしであっという間に逃げてしまう。

 花弁のやってくる方角に顔を向けてみれば、輪郭のない大樹の麓で、溶けて消えてしまいそうなほど淡く弱々しい光が、懸命にその輝きを放っていた。

「あそこを目指せばいいんだね」

 私が本能的に感じ取ったことを、彼は静かに肯定する。

「ここから先はひとりで十分だろう。お前だけで行くといい」

 足を踏み出す前に、何故こんなにも私のことを助けてくれるのかを問うてみる。

 刹那、布に隠されて見えることはないはずの瞳と、目が合った気がした。

「私はただ、かつて同族を助けられた義理を果たしただけだ」

 それだけ言って、案内人さんはそっと私の背を押してくる。手から伝わってきた言葉に頷いて、最後の道標が灯る場所へと向かい始めた。

 

 歩いている間も花びらは樹の方向からひらひらと舞い、すれ違いざまに浮かび上がっては、彼方へと霞んで消えていく。小さく儚げな体躯がひとつ、ふたつと頬を撫でていく時、陽だまりに吹くそよ風の温もりに包まれて、何とも言えない懐かしさが私の胸の内にふつふつと湧き出てくる。

 思えばずっと、温かかったような気がする。

 初めてあの人と出会った幼少期。母や兄弟から引き離され、雨に沈んだ暗闇で動けなくなっていたあの日。

 冷え切った体を抱き上げられ、「春」の名前をもらってから、私の中で小さな温もりの芽が顔を出すようになって。かけがえのない思い出を、日常を重ねる度に、少しずつ根付いていった。

 力強い輝きを放つ太陽の下、たくさんの初めてと楽しいに触れて、数えきれないくらい何度も二人で一緒に笑いあった。様々な場所を訪れることも好きだったけれど、あの人の隣を歩けること自体が、私にとってこの上なく嬉しいことだったのだと、今なら胸を張って言える。

 枯れ葉の舞う季節にあの人が倒れて離れ離れになってしまった時に、帰りを信じて待っていられたのも。あの人が家に帰ってこられないこと、あの人が自分に会いたがっていることを知って、すぐに駆け出せたのも。今まで全く知らなかった外の世界の厳しさと、凍えそうな寒さに耐えて、何とか無事にあの人と再会できたのも。

 そのどれもが、胸の奥底に温かなものが息づいていたからこそ、成し遂げられたことだった。弱く小さかった灯火は時間とともに大きくなり、やがて、私の行先を照らす確かな道標となったのだ。

 どれだけ雨に打たれても、風に吹かれても、全てを忘れてしまっても、深く深くに根を張った数多の花は枯れ切らずに、私たちの軌跡を紡いでいる。それが、記憶を失くしてもなお、私が心のどこかで安心感を抱いていた所以なのだろう。

 今もまた、一歩ずつ大樹へと近づくにつれて、溢れんばかりの陽射しを受けた一粒の種が土中からゆっくりと芽吹くように、段々胸が柔らかく優しいもので満たされていく。あの人から幾度となく教わったその感覚が、くすぐったいほど愛おしく思えた。

 風に吹かれて踊る花の欠片を眺めながら足を進めていると、私の視界の端に突然、きらりと光る何かが現れる。

 道からほんの少し外れたところにあるそれは、大きな水溜まりだった。先ほど光って見えたのは、波の無い鏡がやんわりと光を反射していたかららしい。

 私は小さな好奇心に任せて、いくつかの花弁に飾られたその場所を覗き込んでみる。

 何もない真っ白な景色を背景にして、水面に映っていたのは、一人の人影――ではなく、一匹の柴犬だった。

 驚いて辺りを見渡すが、当然私の周りには誰の気配もなく、今この場所にいるのは正真正銘私ただ一人であることがわかる。

 もう一度、恐る恐る水溜まりに目を向ければ、やはりそこには柴犬がおり、毛に覆われた首元にはかわいらしい花柄の輪がついているようだ。

 私以外に人はいない、見間違いでもないとなると、最後に考えられることは一つだけ。とても信じがたいことではあるのだが、他に思い当たることもない。

 しばしの間水鏡を見つめて、「でもまあ、いっか」私は顔を上げて歩き出す。

 たとえ「そう」だったとしても、私にとってあの人が大切な家族であることに変わりはないし、私たちは互いに唯一無二の存在であると知っている。なら、そんな些細なことを気にする必要はないだろう。

 心做しか先ほどよりも軽い足取りで、温かな風の吹く道へと戻り、目の前に聳える輪郭の曖昧な大樹を再び目指していく。

 弱く消え入りそうだった光が、はっきりと目で捉えられる位置まで近づき、樹から伸びた巨大な根っこが次第に足元全体を這い始める。

 ようやく辿り着いた麓の、太く立派な根が幾重にも折り重なった僅かな隙間から、木漏れ日に似た明かりがほろほろと零れでる。硬く頑丈な木の格子は意外にも簡単に掻き分けられ、ついにその光の主が姿を見せた。

 私をここまで導いた、先の欠けた丸い花びら。それらを五つ、円になるように携えて、細い枝の上で仄かに輝いている。

 小さく淡い陽だまりの花弁にそっと指を触れた瞬間、どこからともなく湧き出た花吹雪が勢いよく吹き付け、手元の小枝ごと私を包み込む。

 懐かしく、愛おしい香りに目を細めて、自由に舞い踊る花の渦中で、私は何よりも大切なあの人との記憶に思いを馳せた。


 あの人に拾われて、おおよそ一年が経った頃。日の出に合わせて布団を飛びだした私は、鉢植えに飾られたベランダの窓からいつも通り薄明の街を眺めていた。

 段々明るくなっていく景色が面白くて始めた習慣の最中、不意にひらりと、何かが空から降りてくる。

 不思議に思い目で追ってみると、どうやらそれは一枚の花びらだったようだ。まるっこい体の端が、野良猫の耳先みたくほんの少しだけ切り取られていて、向こう側が透けて見えるくらいには薄かった。そのせいか、たった今着地したばかりのそれも、風に乗ってあっという間に彼方へと消え去ってしまう。

 一体、何の花だったんだろう。

 考えているうちに、玄関の方から私を呼ぶあの人の声が聞こえてくる。結局何もわからないまま私は日課の散歩に出かけたが、疑問の答えは案外すぐに明らかになった。

 愛用のリードと首輪を身に着けて、足早に階段を下り、少しだけ抜け道を使って表通りに顔を出す。

 毎日必ず通っている、普段と何ら変わりのない歩道。唯一違うのは、先ほど見かけた花弁が地面を埋め尽くしていることだ。

 顔を上げてみれば、彼らの大元であろう木が道に沿って等間隔に並んでいる。生き生きと葉を揺らす姿は幾度となく目にしてきたものの、こうして満開の花を咲かせている様を見るのは生まれて初めてだった。

 舞い落ちるそれを、飛び跳ねて捕まえようとしてみたり、鼻先に乗っかった欠片を振り払ったり、枝垂れの下を思いのまま勢いよく駆け抜けてみたり。

 どこを向いても、視界の端から端を吹雪の如く舞い踊っては、息をつく間もなく走り去る愉快な情景に、自然と胸が高鳴るのを感じる。

 軽快な足取りで訪れた公園の噴水や、広場の小川の水面にも花筏が浮かんでいて、私はその真ん中に向かって意気揚々と飛び込んだのだが、さすがにまだ、水遊びをするには早かったらしい。びしょびしょに濡れた体を、あの人は笑いながらハンカチで拭いてくれた。

 いつもは木漏れ日が差し込むだけで、昼間も仄暗い烏たちの神社がある森の奥にも、彼らは自身の気配をしっかりと残しており、まるで、世界そのものが陽だまりの中に溶け込んで、温かく柔らかい季節の香りに染め上げられているように思えた。

 ひとしきり遊びつくし、るんるんで辿る帰路の途中、あの人の両親が営んでいる花屋兼実家に寄り道する。

 あの人曰く、今日は週に一度の定休日だそうで、お父さんとお母さんに挨拶してから、お店のちょうど裏側に位置する古びた一軒家へと上がった。

 年季が入り、時折ぎしぎし音を立てる木の廊下を進んで、軽快な足取りで日に焼けた畳の和室を抜ければ、黒光りする古風な縁側に出る。

 すると、小さな庭の片隅にも、街にあるものと同じ花の木がこじんまりと植わっていることに気が付いた。儚げな雰囲気を纏うその樹から、私の足元へと純白の花びらがふわりと舞い降りる。

 大通りで奔放自在に咲き乱れる姿とはやや反対に、人目に付きにくいこの場所で、彼はひっそりと花を開いていた。

 何とも言えぬ静けさに、無性に心を惹きつけられて、しばらく目を離せずにいると、「綺麗でしょ」声をかけてきたあの人が私の隣に腰を下ろす。

「これはね、桜っていう花なんだよ。桜の、染井吉野っていう品種。私が生まれるずっと前から、この場所で毎年、春が来たことを教えてくれてるの」

 春? 春って、私のこと?

 元気よく問いかける私を見て、あの人は少し驚いた顔をしてからくすっと笑い、そうかもね、と優しく微笑む。

「あの時は雨ですぐに散っちゃったけど、去年はちょうど、貴方を見つけた日が一番よく咲いていたんだよ」

 もしかしたら、桜の花が私たちを出会わせてくれたのかもしれないね。

 彼女の言うことが事実なら、私は彼らにたくさん感謝しなくてはならない。だって、あの人と生きている今が、ものすごく幸せだから。

「実はね、私の名前も『桜』っていうの。私が産まれた日はまだどこも蕾だったんだけど、この木だけは何故か、満開に咲いてたんだって。桜の花言葉はね――」

 ひらり、ひらり。風と揺れる花びら達に包まれて、桜の笑顔が春の陽光に照らし出される。

 嗚呼。確かに、美しいなと思った。

 純潔という言葉が、本当によく似合っていて。透き通っていて、儚くて。胸の奥がほわほわ温まっていくのを実感する。飛び跳ねるような高鳴りはいつの間にか落ち着いていて、代わりに、眠たくなるような安心感がそこに在る。

 彼女と同じ名前のこの花が、この花の舞う優しい季節がずっとずっと咲き続いてほしいと。そう、思ったんだ。


 桜。他の何よりも愛おしくて、一番大切なあの人の花の名前。

「綺麗だなあ……」

 視界を覆う花靄に紛れ、頬を伝う雫がぽろぽろと零れ落ちる。

 久しぶりに目にした桜はやっぱり、今まで見てきたどんなものよりも眩しくて、綺麗だった。

 何も無い空白が幾千もの花びらたちによって、清らかな純白に彩られ、いつかの朝日みたいに煌めく。この世界そのものが、春の温もりで満たされる。

 夢心地という言葉は、まさに今の気持ちのようなことを言うのだろう。まあ実際、ここは私の心が見せる夢の中なのだが、辿ってきた思い出は全て、夢や幻想などではないことを私はよく知っている。そしてその事実にまた、深く安堵するのだ。

 ほのかに震える足で私は、花に霞んだ景色へと歩き出す。一歩一歩踏みしめる度、草原に陽だまりを敷き詰めたような、初めてあの人に抱き上げられた時のような、ふんわりとした感覚が直に伝わってきた。

 にじむ光に、淡い春の微笑みを浮かべる。桜吹雪に包まれながら、私は胸の内に溢れる想いを失くさないように優しく抱きしめた。

 花風に背を押されて、しばしの間元来た道を進み続けると、すっかり馴染んだ黒髪が遠くに現れる。

「無事に思い出せたんだな」

 案内人さんは顔を見るなり、落ち着いた様子で話しかけてくる。彼の言葉に頷いて、私はゆっくりと後ろを見上げる。

 広大な空を覆いつくす、桜の大樹。枝一杯に儚げな花を実らせる輪郭は、もうぼやけることはないだろう。

「私、帰らなくちゃ。あの人が待ってるんだもん」

「そうするといい。今のお前なら、もう迷わずに帰れるだろう」

 送り出そうとする彼に、私はくるりと振り返って、全力の笑顔で元気いっぱいに告げる。

「案内人さん。短い間だったけど、本当に色々ありがとう。ばいばい!」

 目の前が淡い陽光に塗り替えられていく背後で、微かに「またな」と呟く声が聞こえた気がした。

 徐々に意識が曖昧になって、果てのない明かりの中をゆらゆらと揺蕩い始める。自身がこの後どうなるのかを何となく察しつつ、温もりに身を任せて、私はそっと瞼を閉じた。

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