冬の花

 雨はいつの間にか止んでいて、代わりに先ほどよりも冷たい風が私たちの肌を突き刺す。霧自体の濃さはあまり変わらず、ほんのりと淡い影を帯びている。ひとつ大きな変化があるとすれば、私たちを囲むものが雲みたく見えるようになったことだ。

 霧なのに雲というのも変な話だが、実体のない柔らかな綿の塊が、点々と連なっている。それ故に、私たちの視界は晴れたり曇ったりを繰り返すのだ。一体いつ私たちは、乱層雲の中に迷い込んでしまったのだろうか。

 また、乾燥のせいか、ほんの少しだけ喉がかさついている気がする。この長い旅の途中、一度も飲んだり食べたりしていないため、大丈夫なのだろうかとも思ったが、そういえばここは私の夢の中だった。記憶を探すために歩いているのに、危うくそのことも忘れてしまうところだった。

 道を示している花の小粒は指の先ほどしかなく、昔から近くを見るのが苦手なため、気を抜いたら見失ってしまいそうなる。せめて、もう少し同じに集まってくれていたら追いやすいのに。

 案内人さんももはやどこにいるのかは分からないが、時折聞こえてくる声からして、おそらく私の後ろにいるのだろう。

 比較的霧の濃ゆい場所に入っても、相変わらず辺りは仄暗いだけでなのだから、不思議だなとつくづく思う。

 こがらしに揺れる雲を掻き分けて進んでいけば、足下に転がってきた花のものと、よく似た香りが微かに鼻腔をくすぐる。

 無意識に進む足を速めると、突然目の前に、私の背丈よりも大きな低木が姿が現す。あまりにも急だったため私は止まれず、綺麗に顔から突っ込んでしまった。

「おい、大丈夫か?」

 慌てた様子の足音を立てて、案内人さんが駆け寄ってくるのが聞こえる。

 ゆっくりと一歩下がり、顔を上げた私の目に映ったのは、細かな粒が細い枝の上に隙間なく並び、さらにその枝を何本も同じ場所に寄せ集めた、巨大な花の群れだった。今まで私たちが辿ってきたものたちも、ここから風に乗って転がってきたのだろう。

「気をつけろと言っただろう。怪我はないか」

「うん、大丈夫。まあるい鈴みたいな花びらがクッションになったから」

 割としっかり追突したが、体には傷一つない。思えば前にも、この花の群衆の中に、顔を突っ込んだことがある気がする。

 その時は確か、凍てつくような寒さの空気に囲われいて、私の隣には誰もいなかった。

 石鹸に似た甘い匂いが辺りを満たす。息を切らして駆けたあの日を脳裏に浮かべて、冷たく燃ゆる旅の記憶へと、足を踏み入れた。


 心の声に従って、勢いよく飛び出したはいいものの、生まれて初めて一人で歩く外の世界は、私の知っているものと大きく異なっていた。

 外に出てからまず、私はいつもあの人との散歩で通っていた道を歩き始めた。病院を目指すならこれが一番の近道だし、私にとって、何よりも慣れ親しんでいる道のりだからだ。

 お店前の通りから垂直に伸びた路地を抜けて、寂れた住宅街の中へと進む。同じような形の家々が立ち並ぶこの地域は、入り組んでいて一見わかりずらそうに思えるのだが、ある程度の規則性がある上に抜け道も多いので、慣れてしまえば大変便利である。

 故に今回も、当たり前のように使っていたのだが、二つ目の十字路を渡ろうとした時、微塵も止まる気のない車がとんでもない速さで私の眼前を過ぎ去っていく。

 幸い衝突される寸前で避けられたため、特に問題は起こらなかった。しかしながら、もう車が走ってこないとは言い切れない。

 あの人の下へ辿り着く前に怪我をして、自分が動けなくなるのは非常に困る。そのため私は、道路を渡る際は必ず手前で立ち止まり、車の有無を確認してから向こう岸へ行くようにした。

 三つの電柱とすれ違って、アパート前の出入りの激しいコンビニを横目に、私は大通りへと出た。

 車も人も絶えず行きかうこの道はほぼ毎日あの人との散歩コースに入っていたので、今回もまた、これまでと同じように歩けると思っていた。だが数歩進む度に誰かとぶつかったり、何故かこちらに寄ってきたり、むしろ避けていったりと人の動きが全く読めず、中々前に行くことができない。

 終いには背の高い大人たちに追い回されて、慌てて私は細く暗い路地の奥へと逃げ込んだ。うずたかく積まれた段ボールの影に隠れて息を殺していれば、段々と喧騒が静かになっていく。ようやく落ち着けた頃には、あの人が「小さくてかわいい」と褒めてくれた掌が汗でびしょびしょに濡れていた。

 あんな風に様々な種類の視線を向けられたのは、生まれて初めてだった。もう何年も生きてきたが、頭を撫でられたり優しく声をかけられたり、予想外のことに吃驚させられたことはあれど、今以上に肝を冷やしたことはない。あの人がいないだけで、世界はこれほどまでに見せる縫って顔を変えてしまうものなのか。

 ずっとあの人を守っている気でいたけれど、実際に守られていたのは私の方だったのだと、今になってようやく気がつくことができた。そして同時に、あの人は今、隣にはおらず、私は独りで街を歩いているのだということを改めて実感する。

 自分以外には誰もいない静寂の中、足音を立てぬよう注意しながら、道端を埋め尽している栄寿の花の群集に紛れ込む。

 枝の隙間を吹き抜けてくる何とも言えぬ孤独感が、私の胸の深い部分に、酷く寂し気な葉を落としていった。


 人気の少ない道を選んで、私は引き続きあの人のもとを目指す。遠回りにはなるが、仕方ない。再び追いかけられるよりはましだ。

 人一人がやっと通れるくらいの路地に、虫たちのいない茂み、枯れ葉に覆われた木々の隙間。見たことはあれど通ったことはない、もはや道とすら認識していなかった場所を踏みしめていく。綺麗に舗装された道路と比べて足元が悪く、よく気を付けないとすぐに転んでしまうだろう。

 それこそ昔は地面がどれだけ荒れていても、縦横無尽に走り回れたのだが、やはり自分も時間の流れには逆らえないなとつくづく思う。

 歩く道が変われば、当然見えてくる景色も変わるわけで、普段とは全く違う角度から眺める街はまるで、初めて訪れる旅行先みたいだった。にも拘らず、敷き詰められた香りは何一つ変わらないため、新鮮な気持ちの中に温かい安心感が入り混じる。

 いつも通りじゃない風景が実際はいつもと同じものなのだから、本当に不思議な感覚だ。

 とはいっても慣れない道を直感のみで進んでいたら、間違いなく迷子になり、あの人の病院に辿り着くどころか、むしろどんどん遠ざかってしまうかもしれない。私の体力的にも時間的にも、それだけは避けたい。

 故に私はある程度歩いたところで、ばれぬように気を付けながら大通りへと顔を出し、向かうべき方角を確かめる。物陰に隠れていれば、案外誰にも見つからないらしい。

 日差しが西に傾いて行き交う人が減ってくると、視界は暗くなったものの、気兼ねなく確認しにいけるようになった。街灯の明かりを頼りに周囲を見渡し、人がいない隙を狙って表を足早に駆け抜けることもあった。

 深い宵闇に染まった空で北極星が輝きはじめる頃には、両方の手足がかじかんで動かせなくなるくらい、冷え込みが強くなった。

 本当であれば明日も歩き続けられるよう、ゆっくりと体を休めておきたいのだが、ちょうどよく寒さをしのげる場所が見つからない。

 いっそのこと、家に囲まれた路地裏で夜を明かそうかと考えていた矢先、前方から道路を照らす車のライトが近づいてきて、私は慌てて横の森へと逃げ込んだ。

 息を潜めて車が通り過ぎるのを待っていた際、何気なく隠れていた枯れ葉が思いのほか温かいことに気が付く。ここであれば木々が風を防いでくれる上に、外からは中の様子がわからないため、発見される心配もない。

 周囲の花壇で悠々と花開く琉球弁慶に見守られて、積み上げられた落ち葉の中に身を埋める。

 安心した途端蘇ってきた寂しさを、そっと心の奥へしまい込む。それと同時に、あの人と築いたたくさんの小さな思い出を夢に浮かべて、私はゆっくりと眠りについた。


 眩しい朝焼けに起こされて、足に着いた土を振り払いながらのそのそと立ち上がる。久々に一日中動いたせいで、全身が悲鳴を上げていた。体はまだ休んでいたいと訴えているが、私は一秒でも早くあの人のところに行かねばならないのだ。ようやく日が昇ったのだから、進まない理由はないだろう。

 森を出てからはまた街を歩き、人の気配を感じたら隠れ、夜になったら誰にも見つからない場所で眠る日々を、幾度となく繰り返した。

 喉が渇いた時には公園や小川で水を飲み、お腹が空いても我慢したり、友達の烏や野良猫からご飯を分けてもらったりして必死に耐えしのいだ。時には年老いたおじいちゃんやおばあちゃんから、軒先でご飯をもらうこともあった。

 長い道のりの中で特に辛く感じたのは、暮れ方を過ぎた後の真夜中に吹き付ける風だった。物陰や草の中に入り込めればまだいい方だ。しかし何もないところで暗くなってしまえば、路地の隅で丸くなるしかない。

 今日もまた同じように建物の裏で寝ようとしたのだが、何か冷たく小さなものが鼻の上に着地する。私の体温であっという間に溶けてしまったそれは、次々と地面に降り積もっていく。昨年も見たその花が、この季節に舞う雪の結晶だということはすぐにわかった。

 疲労で限界を迎えかけている体に、凍てつくような冷気が容赦なく襲い掛かってくる。休みたいけれど、このままでは寝ている間に固い氷になってしまう。

 どうしよたものかと頭を悩ませていた時、私の目の前を、この街の全域を取り仕切っているボス猫が通りがかる。外を生きる彼らならば、雪の夜にどうすればいいのか知っているかもしれない。

 急いでそのサバトラ模様の背中を追いかけ、試しに声をかけてみる。私に気が付いた彼は歩くのをやめて、長い尻尾を揺らしながらこちらに顔を向ける。

「なんだ、珍しい。貴様、いつもの人間は一緒じゃないのか」

 私が諸々の事情を説明すれば、相変わらずの凛とした表情でゆっくりと目を細めた。

「しょうがない。なら貴様も俺についてくるといい。部下たちの案内があれば、さすがの貴様でもはぐれることはないだろう」

 ボス猫は軽々と塀の上へ飛び上がり、こっちだと言わんばかりに振り返っては前へと足を進める。先ほどの言葉通り、足の速さは全く違うが、周りの猫たちが度々「こっち、こっち!」「そこは危ないよ」「気を付けて」などと教えてくれるため、道順に迷うことはなかった。

 風化した狭い階段を下り、乾燥しきった水路を渡ると、住宅に囲まれた広い空き地が姿を現す。草葉にまみれた端の方では、何匹もの猫が一塊になって暖を取り合っていた。

 促されるままその毛玉の中に混ざって縮こまり、敷地内に群生する加密列をちらりと見る。その花に託された花言葉の通り、私はあの人に会いたいという願いだけを原動力にして、いくつもの逆境を耐え抜いた。


 猫たちに感謝と別れを告げて、再び曖昧な記憶を頼りに歩いていく。雪に飾られて歩道はだいぶ見にくくなっていたが、ボス猫が間違いないと言っていたので、おそらく方角は合っているだろう。

 お母さんとお父さんのお店を飛びだしてもう何日経ったのか、私にはわからない。もしかしたら、それほど時間は経っていないのかもしれないし、とんでもなく長い年月が既に過ぎ去ってしまったのかもしれない。

 いずれにせよそんなことを気にする余裕はなく、立ち止まろうとする足に鞭を打って、ただひたすらに前へ前へと進んでいく。

 つい先ほどまで団子になって暖を取っていたとはいえ、昨夜の天候で凍らされた空気は体に堪える。うっかり吹雪の中に飛び込んでしまった時よりも、遥かに寒く感じた。

 人に踏まれて凍りついたレンガ造りの道を抜けると、絶えず行きかうトラックや車の重低音が私の鼓膜を揺らす。緩慢な動きで顔を上げれば、大通りの向こう側に聳え立つ巨大な建物の姿が視界に映った。

 かなりの高さを持つそれは一見ビルやマンションのようにも思えるが、周囲に建つ他のものとは明確に違う雰囲気を纏っている。

 病院だ。と、私は瞬時に理解した。

 もうすぐかもしれない。あと少しで、あの人に会えるかもしれない。

 疲労を訴え、かじかんでいた指先に血が巡り、見えてきた希望に体が軽くなる。待雪草の花壇を横目に人波を掻き分けて、大河に渡る橋のような横断歩道を無理矢理突破する。

 粉雪を蹴って綺麗に整えられた生垣の隙間へと潜り込んでしまえば、誰にも追いかけられないということを、私はこの旅で完全に学習していた。

 敷地全体を取り囲む小さな森と茂みの下を巡っていき、病院の出入口を探す。寒さのせいか、低い位置の窓はほとんどが固く閉ざされており、開いていても必ず人の気配があるので、むやみに突っ込むことはできない。今この中にいる人たちが、どこから入ったのかがわかれば一番良いのだが。

 一向にそれらしい場所が見つからず木陰で右往左往していた時、真横に植わっている低木の向こう側からエンジン音が聞こえ、急いで奥の方へと逃げ込む。

 音が落ち着いてから恐る恐る覗いてみると、荷物を持った母親が小さな子供の手を引いて、歩いているところだった。

 不意に、とある一つの考えが私の頭に浮かぶ。彼らの後ろについていけば、もしかしたら何かしらの手掛かりを得られるかもしれない。

 もちろん隠れる場所がなかったり、急に車が動き出したりと様々な危険性はある。が、思い立ったら即行動。

 周りに誰もいないことを確認した上で、私は慎重に広々としたアスファルトへと足を踏み出す。意外にも駐車場を行き来する者自体はあまりいないようで、すんなりと通ることができた。

 問題は、ここからどうやって建物に入るかだ。物陰となる遮蔽物が無くなるのに合わせて、近くの草むらに紛れ込み、親子の様子を観察してみる。彼らは走っていく車両の有無に気を付けながら道路を渡り、透明な扉を潜って中へと消えていった。

 あれは確か、自動ドアというものだった気がする。他の人は全く問題ないのにも拘わらず、私にだけは一切反応してくれないひねくれ者だ。

 仕方がなく誰かが通るのを待ち、数分後。扉が開け放たれたタイミングを見計らって、勢いよく駆け抜ける。次の瞬間、噎せ返るような消毒液の匂いが私を出迎えた。

 清潔感溢れる室内にはおそらく患者だと思われる人、手にファイルを持った看護師さん、堅苦しい白衣を着たお医者さん。皆一様に、驚きと怯えが混ざり合ったような表情をしている。

 これだけ多くの人間がいるのに、肝心のあの人の姿がどこにも見当たらない。

 自身に向かってくる手の平を避け、騒めく人々の間をすり抜けて、私は手あたり次第に入れそうな場所へと顔を出す。あの人は間違いなくこの建物のどこかにいるのだから、探していけば絶対に会えるはずだ。

 若い頃からの運動神経がまだ生きていてよかった。部屋の角に追い詰められても、僅かな足の間を潜って軽々と避けることができる。今の私なら、植木で咲き乱れる山茶花の如く洗練された身のこなしで、どんな困難にも打ち克てるように思えた。

 外見からして、ある程度の大きさがあることはわかっていたのだが、この病院は私の想像よりもずっと広いらしい。真っすぐと続く廊下は私を何人繋げても足りないくらい長く、幅も街に並ぶ花壇と同じくらいある。一階だけでこれなのだから、もっと急がなくては日か暮れてしまう。

 床に映る光の川を蹴りながら、私は声を上げる。

 大好きなあの人。どこにいるの。私だよ。私が来たよ。一人で街を歩いて、ここまで会いに来たんだよ。

 何度も肺を震わせては、あの人の名を呼ぶ。走り回っているせいで、すぐに息が切れる。それでも足だけは決して止めずに、あの人のことを探し回る。

 あと少し、あと少しなんだ。絶対に、止められてたまるものか。

 長椅子に飛び乗って、再度叫んだ時。

「春?」

 声が、聞こえた。微かにしかしはっきりと、もう一度聞きたいと強く願っていた、大好きな声が。

 耳を傾け、方向を定め、一心不乱に駆けていく。狭い通路を抜けて、エレベーターの前まで来た私は、清浄な空気の中にあの人の匂いを見つける。辿り着いた暖かな雰囲気の空間で、詰まりかけている呼吸を無視して顔を上げる。

 霞む視界の先で待っていたのは、他の誰でもない、あの人だった。

 私は溢れ出る思いのまま、その胸に飛び込む。

 嗚呼、懐かしい。最後に会った時よりも細く華奢になっているが、私を抱きしめる骨ばった手は、相も変わらず優しいままだ。柔らかく愛おしい唯一の温もりが、この上なく心地いい。

 不意に、私の額を雫が濡らす。それがあの人の涙だということは、すぐにわかった。泣いてはいるけど、悲しみの匂いはしない。あの人もまた、この再会を喜んでくれているんだ。

 中庭でひっそりと花開く福寿草の祝福の下、私たちはしばらくの間、ようやく辿り着けた幸福を噛み締めていた。


 それから私は、あの人の車椅子を押していたのであろう看護師さんに引き剥がされそうになったが、あの人が必死に止めてくれたおかげで無理矢理に離されることはなかった。その代わり、お父さんとお母さんに私を迎えに来てもらうことなったらしい。

 彼らに会ってまず、私はこっぴどく叱られた。なんでいきなり飛び出していったんだ、とか。急にいなくなったらだめでしょ、とか。ずっと心配してたんだよ、とか。

 声そのものは厳しくても、向けられる言葉の一つ一つはとても優しく、温かかった。

 そして二人とも、私たちの表情を見て安心したように涙を流していた。

 腕の中に抱き上げられて、まだ帰りたくないと声をあげる私をお母さんが宥める。

「大丈夫。また近いうちに会えるわ」

 言われた当初は、彼女の言葉の意味がよくわからなかった。だが数日後、いつも通り花屋の店先で外を眺めていると、お父さんたちに連れられて道を進むあの人の姿が目に映る。あの人が家に帰ってきたのだ。

 私はあまりの嬉しさに、鳥や兎の如く飛び跳ねて、全力で彼らを出迎えた。

 頭に疑問符を浮かべながらも全身で喜びを表していると、お母さんがゆっくりと話し出す。なんでも、あの日の私たちの様子を見て、残された年月が少ないのならば、可能な限り二人に同じ時間を過ごさせてやりたいと思ったのだとか。

 元々、病気が治らないと判明した時点で自宅療養も視野には入っていて、今回のことを受けてようやく決心がついたということを、彼女は教えてくれた。

 離れ離れにならなくていい。これからはもう、何があってもずっと一緒にいよう。ある種の誓いにも似たその約束を、脳内で静かに唱える。

 再びあの人と暮らせるようにしてくれたお母さんとお父さんへの、「ありがとう」では絶対に足りないくらいの感謝の思いを、水に行けられた菖蒲水仙の花弁に託して、私は今のこの瞬間を大切に胸の奥へとしまい込んだ。


 柔らかい六花が私の頬を撫でて、はらりはらりと舞う花びらと共に白銀の海へと溶けていく。その水面から静かに顔を出す花々は凍えかけながらも、簡単には千切れない強固な根を雪の下に這わせていた。

 初めて独りで歩いた街は、知っているはずなのに全く知らないような気がしてしまうほど、未知の景色で溢れ返っていた。肝の冷える体験や辛く苦しい時間がたくさん敷き詰められたあの旅路で、今まであの人がどれだけ自分を守ってくれていたのかを思い知らされた。

 酷く痛む孤独が胸の奥深くに突き刺さってもなお、進み続けられたのは、あの人との思い出と、たった一つの願いがあったからに他ならない。

 だからこそ、私はあの人にまた会うことができたし、再びあの人と一緒に過ごすことも叶ったのだ。

  道中で助けてくれた人々と猫たちと、あの人が帰ってこられるよう動いてくれたお母さんたちには、本当に感謝してもしきれない。

 あの人が以前、何気ない会話の中で「厳しい寒さに耐えるからこそ、綺麗な花を咲かせるものもあるんだよ」と言っているのを聞いたことがある。まさにその通りだと、私は今になってようやく気がいた。

 風に吹かれる山茶花も、吹雪に埋もれる福寿草も、美しいという言葉では表せないくらい、優雅で洗練された花を実らせている。

 多くの人は嫌な記憶が残るのを避けるけれど、私にとってはこれらも、なくてはならない大切な思い出なのだ。

「思い出せてよかった」

 心の底から湧き出た言葉が無意識に零れる。

 きらきらと光る風花が舞い、暖かな命の欠片に満ち溢れた花畑を、私はしばらくの間、何も言わずにただ静かに眺めていた。

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