秋の花
肌寒い風の渦巻く霧の中は思いのほか薄暗く、しかし視界は何故かそこまで悪くならない。離れた場所が見えずらいだけで、目を凝らさずとも、足下や自身の周辺ははっきりと視認することができた。
少しずつ歩みを進めていけば、風に流されたのだろう幾つかの水滴が顔を濡らし、やがて弱い霧雨となる。ぽつりぽつりと落ちてくる雫はまるで、霧から零れた涙みたいだった。
瞼に落ちた雨を拭って視線を前に戻した時、霞の奥で揺れる、不思議な形の花が目に入った。
「気をつけろ」
近づいて手を伸ばすと、突然案内人さんが忠告してくる。
「その花は毒持ちだ。触るだけなら問題ないが、間違っても口には入れるなよ」
「う、うん。わかった」
首を傾げている私の横で、感情の読めない声色のまま、彼は静かに続ける。
そもそも、花を食べようとする人はあまりいない気がするのだが、まあ、一応気を付けておこう。
複数の糸が入り混じったような花弁を開き、どこか悲し気に咲く姿をまじまじと観察する。
そういえば以前にも、似たやり取りをしたことがある気がする。あの時はあの人との散歩中で、冷たい風が吹いていて、近づこうとしたら今と同じように止められたのだ。
繊細な大輪が、神楽鈴を鳴らす時のようにゆらりと傾く。妙に見覚えのある光景に、私は揺らいだ記憶の最中へと引きずり落とされ、そしてそのまま
あの人と出会って、共に生きるようになってから、随分と長い年月が経った。
花野風がかさかさ音を立てる落葉を攫って、私たちの横を通り過ぎ、公園の隅に佇む大輪の束を揺さぶる。初めて見るその花が気になり、近寄ろうとする私をあの人は強く引き留めた。
彼岸花という名を持つその植物は、根の先から花弁まで全ての部位に毒があるらしい。どんなに綺麗な見た目をしていても注意が必要で、もし食べてしまったら大変なことになるのだと、あの人は教えてくれた。
授けられた花言葉は、悲しい思い出。
心做しか、私たちを包む空気が、より一層冷たく乾いていくように感じる。
あの人曰く、本来なら墓地や田畑などに植えられているそうなのだが、それならどうしてこんなところに咲いているのだろう。誰かが種か球根を持ってきて、ここに埋めたのだろうか。
何となく嫌な予感がして、私はあの人の横にぴったりとくっついたまま、肌寒い帰路を歩いていった。
日の暮れ時が早くなり、必然と私たちの寝る時間も早くなったのだが、どうやらあの人は以前よりも上手く寝つけていないようだった。
原因は近頃極端に増えた腹痛。ただ単にお腹が冷えて、ということは今までも何度かあったのだが、背中や腰が痛んだり、食欲が無くなったりと他にも様々な異変が起きているそうだ。
またあの人自身の匂い以外の中に、何かはわからない、しかし間違いなく嫌な感じの臭いが混じっていることにも、私は気が付いていた。
病院に行った方がいいのではないかと伝えたこともあったけど、あの人は辛そうに笑うばかりで、結局私には傍にそっと寄り添うことしかできなかった。
だがそんな日々にもとうとう限界が訪れ、ついにあの人は倒れる。仕事中、店先の花へ水をやっている時、あの人は突然お腹を抱えて蹲り、手から滑り落ちたじょうろがカタンと鳴いた。
急いで駆け寄り、あの人に呼びかける私の声に気が付いたのか、店の中にいたお母さんとお父さんもすぐに走ってきてくれた。
甲高いサイレンが鳴り響き、隊員の人に運ばれてあの人が救急車の中へと入っていく。付き添いにと呼ばれたお母さんと共に私も乗り込もうとしたが、お父さんに止められてしまい、どれだけ抗議しても行かせてはもらえなかった。
扉が閉められ、忙しなく走り出したかと思えば、あっという間に遠ざかって見えなくなる。お父さんの話が本当なら、彼らはこの町で一番大きな病院へと向かうのだろう。
あの人を乗せた救急車が立ち去ってから日が暮れるまで、私は音の消えた方向を眺めていた。
お母さんが一人きりで帰ってきたのは、ちょうど宵の口に当たる時間だった。あの人は今、総合病院で入院をしながら、様々な検査をしてもらっているらしい。薬で痛みを抑えているから、今はゆっくり休めているのだという。
心做しか二人の顔が曇っているように見えたが、お母さんが大丈夫と言って抱きしめてくれたため、特段気に留めることはなかった。
あの人が帰ってくるまでの間、私は彼らの家に泊まることとなった。
朝になれば、お母さんがご飯を用意してくれる。毎日の散歩には、お父さんが必ず連れて行ってくれる。食事の内容も普段と同じで、歩く道にも大して変わったところはないのに、何故だか無性に寂しく思う。
だから私は待つことにした。
いつもと同じ、私の特等席であるレジの近くで外を眺める。あの人が帰ってきたらすぐにわかるように。あの人のことを、いの一番にお出迎えするために。
店先での鉢で可憐に花開く姫彼岸花を横目に、私はまたあの人と会える日を楽しみに待っていた。
お母さんたちの家で暮らし始めて、しばらく経った頃。いつの間にか寝ていたらしく、夕方の散歩へ行く時間に、お父さんが起こしてくれる。
どうしてか最近はいくら熟睡してもすぐに眠くなり、声をかけてもらうまで、うたた寝をしてしまうことがかなり増えてきた。
本当はあの人がいつ帰ってきても気が付けるよう、できるだけ長く起きていたいのに、自分の意志に関係なく体は休息を求めだし、昼間であっても寝てしまう。
以前から時折寝坊したり、日差しが温かくて寝落ちしたりすることはあったが、起きていられないなんてことは初めてだった。
同じ場所からあまり動かないせいで、体力も落ちたのだろう。いつも通りの歩速でも疲れてしまう私のために、今もお父さんはゆっくり歩いてくれている。もちろんその分、散歩の時間は長くなるけれど、彼のちょっとした気遣いが私にはありがたかった。
ちょうど同じくらいの時期に、忘れっぽくなったと感じることがあった。当たり前のように用を足しに行こうと立ち上がった際、普段から使っているはずのトイレの場所が、突然わからなくなった。
私は昔から物事を記憶するのは得意だったため、一度教わったは時間が経っても覚えていることができた。にも
トイレだけならば、家の中をさまよえば見つけられるので、特に問題はない。だが、日を追うごとにちょっとした物忘れが増えていき、目の前にいる女性があの人のお母さんであるということでさえ、わからなくなる時もあった。
ここまで酷いとさすがの私でも不安になるが、お母さんの「もう年だものね」という言葉を聞いて、妙に納得してしまった。
ある日の午後、ついに私の最も恐れていた事態が起きた。あの人と過ごした日常の一ページを、忘れてしまったのだ。
風に吹かれる花を眺めて、何気なくあの人との日々を思い出そうとした際、記憶に深い霧がかかって全く思い出せなくなっていることに、私は気がついた。
悲しかった。悲しかったし、寂しかった。たった一つ思い出が手元から無くなっただけで、胸の奥に氷柱で穴をあけられたような気持ちになった。
唯一の救いは、私がまだたくさん、あの人と紡いだ記憶を持っていることだった。
私はまだあの人にもらった愛情をはっきりと覚えているし、もし全てを忘れてしまっても、あの人の下へなら迷わずに帰れる自信がある。根拠はないが、何となくそんな気がするのだ。
だから私は今日も、店先で咲く紫苑の切り花に顔を寄せて、特有の仄かな香りに、絶対に失くしたくない面影を繰り返し重ね合わせた。あの人のことだけは、間違っても忘れたくないから。
くしゅんとくしゃみを一つ零し、ゆっくりと瞼を開く。カーテンの外に浮かぶ空は夜の帳に閉ざされており、闇に沈んだ街を秋時雨が湿らせていた。
冷えた空気に身を震わせて、手足を布団に潜り込ませた時、先ほどまで一緒に寝ていたお母さんの姿がどこにも見当たらないことに気付いた。
道理でいつもよりも寒いはずだ。このまま二度寝してもいいけれど、どの道一人ではまた目が覚めてしまうだろう。
仕方がない。私は寝ぼけた体をよろよろと起こして、ベッドを飛び降りる。あくびを噛み殺しながら、お母さんを探す。薄暗い廊下を歩き回っていると、リビングの扉から光が漏れているのが見えた。
中に入ってみれば、お母さんだけでなくお父さんもいるようで、二人で話しあっている声が聞こえてくる。足元まで駆け寄った私に気が付いたのか、困った顔で私の頭を撫でてくれる。起きているなら、私のことも起こしてくれればよかったのに。
優しい手つきとは裏腹に、部屋にはいつになくどんよりとした空気が漂っていて、何か面白くないことあったのは明白だった。
「貴方にも、ちゃんと教えておかないといけないわね。貴方も大事な家族だもの」
お母さんの言葉に、お父さんも黙って頷く。それから覚悟を決めたような口振りで、あの人の今について話し出した。
まず初めに、あの人が体調を崩した原因のこと。
病院で受けたいくつもの難しい検査の結果、とても重い病気が、体の中に潜んでいたことが明らかになったらしい。お腹が痛くなったのもその病のせいだったが、救急車で運ばれた時には既に手遅れの状態で、痛みは抑えられても、治療することはもはや不可能に近いのだという。
病気の進行を少しでも遅らせるため、あの人が家に帰ってくることはもうできない。私たちはもう、二度と会うことができない。その事実に、あの人自身が誰よりも悲しんでいたことを、お母さんは教えてくれた。
もちろん私も会えないのは嫌だ。そして、自分の知らないところであの人が一人傷ついているのは、もっと嫌だと思った。あの人が傷つくのに比べたら、私は何回だって嫌いな病院も注射も我慢できるのに。
あんなに優しくて純粋で、何があっても笑顔を絶やさずにいられる人が、どうして悲しまなくてはならないのか、甚だ疑問だった。
一通り語り終えると、満足したのか、ただ単純に疲れたのか、二人ともいそいそと寝室へ戻っていく。私もお母さんに促されるまま毛布の中に戻ったが、とても寝ていられるような心境ではない。
しかしながら、こんな状況でもしっかりと睡魔は存在するらしく、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。夢の中でも、繊細な竜胆がひとりでに揺れるのを見つめながら、悲しみに暮れるあの人のことを思い浮かべていた。
次の日から私はずっと、あの人に会いに行く方法を考えていた。帰ってこられないなら、私からあの人のところに行けばいい。むしろ、何故今まで思いつかなかったのだろう。
手始めに私はお母さんのところへ行って、入院している病院まで連れて行ってほしいと頼んだ。彼女は数日に一度あの人のお見舞いに通っているので、その時に私も行けば間違いなく会うことができる。
なのでまず、一緒に行きたいという主旨の話を伝えてみたのだが、お母さんはただ私の頭を撫でるばかりで、連れて行ってくれるのかどうかは答えてはくれなかった。
もう一度強く訴えてみても、「どうしたの?」と困った顔で笑うだけ。
お父さんにも聞いてみたけれど、同じように答えてはくれず、不思議そうに首を傾げる。まるで言葉が通じていないみたいだった。
二人に頼めないのなら、もう自分の足で行くしかない。幸い、総合病院の前はあの人との散歩中に幾度となく歩いたことがあるし、この花屋からの道も方角も、何となく記憶している。この街で一番都市部に近い病院のため、車も電車も多く通るが、毎日あの人と過ごしていくうちにすっかり慣れてしまった。
なので問題は道のりよりも、辿り着くまでに私の体が持つかどうかだ。この数か月で体力はすっかり落ちてしまい、以前のように元気よく走り回ることもできなくなった。街の中とはいえ、遠い場所にある病院まで一人で行けるのだろうかと、いくら考えても不安が拭えない。
日課の散歩の最中も、公園の隅で群れる藤袴の蕾を横目に、あの人の下へ駆け付けるための決断を躊躇い続けていた。
一向に覚悟を決められず、無慈悲にも時間だけが過ぎていく。姿は見えないとわかっていながらも、他にできることもない私は、ただ静かに変わり映えの無い店の外を眺めていた。
いつも来てくれるお客さんに誘われて、ついこの前開花したばかりの桔梗の鉢植えを見ていると、病院に着替えや花を届けに出ていたお母さんが帰ってくる。
彼女たちがこの時期に着ているふかふかのコートの上で寝ると、温かくて気持ちいいんだよな。ばれたら怒られるのだけど。などと呑気なことを考えつつ、お母さんの足下に歩み寄る。どうやら二人は、お見舞いの時に会ったあの人について話しているようだ。
あの人は現在、病気がこれ以上酷くなるのを抑えたり、症状を和らげたりするための治療を受けているらしいのだが、ここ数日は熱が下がらずに苦しんでいるのだという。
お母さんも今日傍で声をかけてみたものの、聞こえている様子はなかったのだと、顔を暗くしていた。
そしてそのまま、高い熱と引かない痛みに
刹那、私は今すぐにでも、あの人の下へ行かなければならないと思った。あの人が私を待っていて、会いたいと望んでくれているのなら、迷う理由は何もない。
お店の中では自由に動き回れるし、他のお花屋さんと同様に入口が通りへと開かれているので、やろうと思えばいつだって外に行くことはできた。あと一つ私に足りなかったのは、踏み出すための小さな勇気。そのことを、私はちゃんと知っていた。
どこからきたのか、歩道の脇で、本来あるはずのない西洋薄雪草の花が一輪、力強く咲いている。
不安がなくなったわけではないけれど、それでも自分の中で目覚めた勇気が立ち止まっていた足を動かして、私は一心不乱に外の世界へと駆け出していった。
降りしきる雨音が戻ってくる。同時に私は、何故この場所が雨に打たれているのかを理解した。確かにこれは私にとって、冷たく細やかな霧雨に濡れる彼岸花の花言葉のように、辛く悲しい思い出だった。思い返せば、あの日の散歩中に偶然見つけたのも、これらの伏線だったのかもしれない。
数えきれないほど長い時間をあの人の隣を生きてきて、離れ離れになったのは今回が初めてだった。お母さんが同じ布団で寝てくれていても、今まで傍にあった当たり前の温もりを、何度恋しく思ったことか。
それでも大人しく我慢できたのは、あの人が必ず帰ってきてくれると信じて疑わなかったから。あの人とまた過ごせるなら、何十年でも待つつもりだった。
しかしながら、現実は想像よりも優しくはなく、あの人はもう帰ってくることはできなかった。その上、私の体も、段々と思うように動かせなくなってきていた。あの人との大事な日々さえ、はっきりと思い出させなくなってしまった。
病院まで辿り着けるかわからない不安から、私は一歩踏み出すことを躊躇っていたが、あの人から「会いたい」と思ってもらえたなら、応えない理由はない。
だからこそ、私はあの日、お母さんたちのいる花屋を飛び出したんだ。
顔を上げれば、西洋薄雪草――エーデルワイスと呼ばれる花が、私の足元を埋め尽くしている。標高の高い山にしか自生しない花の花言葉は、勇気。私を外の世界へと突き動かしたものだ。そのまま私は、あの人の待つ病院を目指して歩き始めた。
「あのね、案内人さん。花って、晴れ空に咲く姿ももちろん素敵なんだけど、雨に降られているのも、とっても綺麗なんだよ」
咲き乱れる雨粒の花畑で、あの人が昔よく口にしていた言葉を真似る。どれだけ悲しくて嫌な記憶でも、私にとって大切な思い出に変わりない。あの人が苦しんでいることを知らないまま、何もせずにいる方が、私は嫌だ。
ただ、お店を飛び出した後のことは、まだ何も思い出せない。病院に向かったのは確実なのだが、その先の記憶は霧の中に隠されているようだった。
「風が来る。気をつけろ」
「え?」
案内人さんから言われた直後、凍えてしまいそうなほど冷え切った強風が、霧雨を掻き消すように吹き付け、思わず私は目を瞑る。
同時に何かが頬に当たる感覚がして、恐る恐る瞼を開くと、私の足下にとてもとても小さな花がころころと転がってくる。
いくつかあるうちの一つを拾い上げてみても、大きさのせいか匂いは薄く、見覚えはあるものの、その名前までは思い出すことができない。微かに甘い香りがしたので、物は試しだと思って口に入れようとしたら、案内人さんに「むやみに食べようとするな。馬鹿かお前は」と止められてしまった。馬鹿だなんて、失礼な。
それはともかく、風の吹いてきた方向には同じような形の粒が落ちており、仄暗い霧へと続いているらしい。
おそらくこの道標たちが、次の記憶に繋がっているんだろう。ならばやることは決まっている。無言で目を向ければ、横にいる案内人さんも静かにこっちを見て頷いてくれる。
相も変わらず悪くなる視界の中で、花を踏まないように気を付けながら、私たちはまた寒い空気の下を歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます