夏の花

 根のようにも見える細い茎に沿って歩き続けると、次第に周囲に霧が立ち込め、先程度同じように遠くの景色が霞みだす。

 妙に湿度を感じる空気に気を取られてすぐには気付けなかったが、葉と葉の間にある距離が、目に見えて小さくなっており、同じ場所に生える数も一から二、二から三と増えてきていた。

 重なる三つ葉の隙間に、やがて四つ葉が混じり始め、しばらくして群生が姿を現す。限りなく広がる草原は雄大で、嗅ぎ覚えのある青臭さに満ちていたが、微妙に何か足りないような気がしてならない。

 私はくるりと振り返って、歩いてきた道を見渡してみる。すると、少し遠く離れた場所に、一粒だけ、葉とは明らかに違うものが伸びているのを見つけた。

 近寄っていけば、十分に日差しを浴びた若々しい香りが、草の香の隙間からゆっくりと漂う。匂いの先で若葉の上に浮かんでいたのは、細かい花弁が集い、球を描く花だった。

 そっと手を伸ばした時、噎せ返るような濃ゆいそれらと、熱をはらんで煙る湿気とが合わさり、私たちを覆うように吹き付ける。刹那、欠けていた部分が一斉に埋まって、記憶の輪郭を形作る。

 少しずつ揺らぐ景色の中、私はゆっくりと瞼を閉じ、あの人と共に過ごした光り輝く季節を思い返した。


 起きてまずあの人が用意してくれたのは、柔らかくふやかしたお粥だった。以前横から覗き込んだ時に、お母さんのお皿に入っていたものと同じ見た目のご飯が、たっぷりのミルクに浸されている。

 ほんのり温かく口の中で簡単に崩れるそれは、家でもらっていたものよりもずっと食べやすくて、心做しか、いつもよりも美味しく感じた。

 あの夜から何も口にしていなかったこともあり、私はあっという間に一滴残らず完食してしまった。すっかりミルクまみれになった顔を見て、彼女は「よっぽどお腹が空いてたんだね」と笑いながら、口の周りを優しく拭いてくれた。

 たくさん食べてお腹いっぱいになった私は、部屋の探検を始めた。昨日初めて来たここは、安心できる場所ではあるけど、やはり目新しいものというのは気になって仕方がない。ということで、さっそく私は手あたり次第に見て回ることにした。

 とりあえず初めに、目の前にあるテーブルを目指して歩き出す。私よりも少しだけ高い木のそれには何もなく、手を引っかけて机上を覗き込み、着地点を見定めて飛び乗ろうとする。だが、足がつるつる滑ってしまい、落ちそうになっていたところを、あの人にそっと降ろされてしまった。

 気を取り直して挑戦したのは、柔らかい布のソファ。飛び跳ねて登ろうとするも全く届かず、疲れて床に座り込んでいると、体を持ち上げられ、気になっていた上の部分に乗せてもらえた。

 薄らあの人の香りがする場所へ、転ばないようにしっかりと踏んで、端に立てかけてあるクッションへと顔を突っ込む。暖かくて安心する匂いがとても心地よくて、すぐに気に入った私は、まるい布地を引きずって投げ落とし、自身も一緒にその上へと転がり落ちた。

 起き上がるや否や、私は再びそれを引っ張って、ふとんの敷かれた箱の中に運び込む。あの人はこれを私の寝床だと言っていたから、ここに置いておけば、クッションはもう私のものなのだ。達成感に浸って見上げる私を、彼女は笑って許してくれた。

 あの人がご飯を作っていた場所は止められてしまったため、一旦諦めて窓の近くへ駆け寄り、外を見渡す。輝くような晴天に目を細め、彼女が開けてくれたベランダへと足を踏み入れてみた。

 私でも見下ろせるくらいの低い鉢に、目一杯広がっているのは、クローバーを携えた白詰草。

 幸運を実らせる花の粒には、様々な晴れ空の香りがぎゅっと詰まり、そよ風に合わせて揺れている。

 あの人と出会い、そして拾われた昨晩の出来事も、もしかしたら運がよかったからなのかもしれない。確証などないけれども、しゃがむあの人の隣で私はそんなことを考えていた。

 

 お昼ご飯を食べて、あの人の膝でのんびりした後、徐に抱き上げられてどこかへ連れていかれる。

 私が降ろされたのは滑りやすい床の小さな部屋、もとい浴室で、水の匂いと石鹸の匂いと、ほんの少しの色んな匂いが充満していた。

 ここが何なのか考えている間に、雨によく似た音が近くで聞こえる。音の発生源は見たことのない不思議な形をしていて、私は思わずあの人の足元で縮こまる。

「大丈夫だよ。怖くないよ」

 怯える私にあの人は何度も「大丈夫」と言葉をかけて、片手で頭を撫でてくれる。

 次の瞬間、足元が濡れたことに驚いて声を上げたが、私に触れてきた水は外の雨みたいに冷たくはなく、むしろちょうどよい温かさを保っていた。

 完全にずぶ濡れになった私を横目に、またを何かを手に取ったかと思えば、あっという間にあの人の手元が真っ白な泡で包まれる。

 桶いっぱいに溢れ返ったふわふわもこもこのそれは、彼女の手によって私の背中に乗せられたらしく、耳の後ろからはじけるような音が聞こえる。

 丁寧な手つきが妙に心地よくて、ゆっくりと目を細める。後から教えてもらったのだが、これが「お風呂」というものらしい。

 汚れた体を隅々まで揉みこまれ、冷えてくる前にたっぷりの温水で泡を流される。あの人が見ていない隙に桶の水で遊んでいたところを、桶ごと回収されて、初めてのお風呂は終わりとなった。

 いい匂いのするタオルにくるまれてお風呂場から連れ出されると、私の頭よりも大きな機械が目に入る。

 硬そうな紐を壁に繋いであの人がボタンを押すと、突然大きな音が部屋中に響き、私は驚いてあの人の膝の上に逃げ込んだ。

 同時に私の背中へ吹き付けたのは、熱すぎないくらいの強い風。水に濡れたままだと風邪をひいてしまうため、しっかり乾かさなければならない、とあの人は言っていたが、だとしてもこの騒音はどうにかならないのだろうか。

 腕の中で眉間に皺を寄せながら、私は渋々襲い来る嵐に身を委ねる。体が温まったせいか、大きなあくびが零れた。

 水気も無くなり、すっかり綺麗になった私を腕の中に抱えて、あの人はソファへと寝転がる。

 温かいね。

 私の言葉に、「そうだね、あったかい」と彼女は返してくれる。柔らかな陽だまりに包まれて、私たちは日が暮れる時間まで一緒に昼寝をしていた。

 初めてのことがたくさんあったその日以来、あの人は毎日おいしいご飯を作ってくれて、部屋の中でたくさん遊んでくれた。寝る時でさえも、いつの間にか二人でベッドに潜ることが当たり前になっていた。

 昼間はあの人がいない日もあるけど、帰ってきたらその分、たっぷり撫でてくれるから、寂しく感じる日はなかった。

 寝室の花瓶で開く桔梗草もきっと、あの人が私に優しい愛情を向けてくれることを、証明してくれるだろう。

 

 あの人と暮らし始めていくつか日が経ち、久しぶりに家から出た私は、拾われた際に訪れた建物と同じ場所に来ていた。

 曰くここは病院という所で、前に私を診てくれたお医者さんが、怪我や病気を治療してくれたり、健康診断? をしてくれたりするらしい。

 お医者さんはあの人と話しながら、後ろの机の見えないところでこそこそと準備を始める。話に出ていたワクチンとは、一体何のことなんだろう。

 そんなことは気にも留めずに、看護師さんに撫でられて嬉しくなっていると、突然鋭い痛みを感じて私は悲鳴を上げる。振り返った先には注射器を手に持ったお医者さんの姿があった。

 何をするんだ! と泣き叫ぶ私をあの人が優しく抱きしめて宥める。頑張ったね、偉いよなどと褒められ、ちょっぴり機嫌は直ったけれど、もう二度と来たくないと彼女へ必死に抗議した。

 だが、そんな私の願いは届かず、どれだけ抵抗しても連れてこられ、 注射を刺された。

 最後のものを打ち終えてからおおよそ二週間後。今日もまた二人で外に出かけていたのだが、どうやら今回の行先は病院ではないらしい。

 しばらく籠の中で揺られていると、彼女は花の香りがたくさんするお店に入り、店内のレジ横に私を降ろす。恐る恐る顔を出せば、目の前に二つの人影が見え、私は慌ててあの人の足元に隠れた。

「怖がらなくても大丈夫だよ、私のお父さんとお母さんだから」

 低くゆっくり差し出された手のひらからは、微かに彼女と似た匂いがする。控えめに見上げる私の頭を、その手は優しく撫でてくれた。この人たちは良い人だと、直感的に思った。

 あの人は自身の両親と共に、このお店で花を売るだけで無く、様々な種類の切り花を束ねてブーケを作ったり、育てる時のアドバイスをしたりと、色んなことをしているらしい。

 実際、明るく清潔な店内には、多種多様な花々が鉢植えや切り花以外にも、ラッピングのためのかわいらしいリボンや、小さなぬいぐるみなどが並んでいた。

 エプロンを着て手入れをする後ろ姿を追いかけながら、凛と輝く花弁を見て回る。「それは今が一番綺麗なんだよ」とか、「毒があるからそれは食べちゃダメだよ」など、私が近づく度に彼女は話かけてくれる。

 その一言一言が、目の前の大輪たいりんに負けないくらい生き生きとしていて、嗚呼、この人は本当に花が好きなのだなと感じた。

 天竺葵の幾重にも重なった匂いが鼻をくすぐった時、植物には皆、特別な意味を持つ花言葉があるのだと、彼女は教えてくれる。

 尊敬と信頼。それがこの花に託された言葉なのだと、付け加えて。

 難しい話はやはりよく分からないけれど、今、私が彼女に対して抱いている想いは、爛漫に咲く天竺葵の花言葉に、よく似ているなと思った。

 

 翌日の明け方、いつもなら仕事に行く時間ぎりぎりまで寝ているあの人が、珍しく早起きをした。

 眠たそうな目をこすり、身支度をするあの人をベッドの上で待っていると、玄関の方から私の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 あくびを零しつつ駆けつければ、靴を履いて準備万端な様子のあの人が待っており、今から街へ散歩に行くのだと告げられる。しかも、私も一緒に外を歩いていいのだと。

 しっかりと身なりを整え、生まれて初めて、ドアの向こう側のコンクリートに足をつける。部屋の床とは違う、まだ冷たさの残る感触が新鮮で、自然と顔が上がる。

 そのままあの人の歩幅に合わせて、若干の不安を胸に、ゆっくりと前へ踏みだした。

 直に触れる湿った風が、無性に心地よく感じられた。

 家のすぐ近くにある、睡蓮の蕾が実る小池ではあめんぼが浮かび、清らかな水の上を、大きなとんぼが飛び去っていく。

 舗装された路肩の僅かな隙間では、石で固められた地面を破るように、立派な草たちが空へと手を伸ばしている。

 大通りに出れば、お日様が出ていなくても、明るく光を灯しているお店がちらほらと見受けられた。

 動きやすい服で走っている人、きちんとスーツを着ている人、道の掃除をしている人。少ないけれど、私たち以外にも起きている人はいるようだ。

 車や自転車の音は少し怖く感じたが、あの人が傍にいるとわかっているから、慣れるまでそう時間はかからなかった。

 しばらく歩いて路地に入ると、鬱蒼と茂る木々に囲まれた、公園という場所に辿り着いた。

 広々とした園内には至る所に植物が植えられており、地面の上にも花壇から逃げた種が、ひっそりと芽を出している。

 花は花でも、あの人のお店にある生花とは違い、力強く葉を広げるものもあれば、こじんまりと佇むものもあり、皆飾らない、ありのままの姿で生きていた。

 太陽がまだ寝ぼけている薄明の中で、視界がまだはっきりとしなくとも、茎の先で夜明けを待つ花の赤子からは確かに命の香りがして、何となく嬉しくなった。

 それはあの人も同じようで、花弁に手を添えては、瞳の中に微笑みを浮かべている。大好きなあの人の喜びがひしひしと伝わってきて、私の胸はさらに温かくなった。

 中央に立つ噴水の横の椅子で休憩したのち、私たちは敷地に隣接する広場へと向かった。芝生に覆われ、土と草の匂いに満ちた空間の奥で、静かに流れるせせらぎを耳が捉えた。

 音の鳴る場所をそっと覗き込めば、澄んだ水が波紋を描いて、ゆっくりと駆けていく姿が目に映る。

「入ってもいいよ」と促す言葉に従って、恐る恐る足を踏み入れると、ひんやりした感触がつま先に触れ、動く度にちゃぱちゃぱと音を立てる。

 川の冷たさが気持ちいいのと、お風呂や雨とは異なる音が面白くて、あっという間に気に入り、全身で楽しむ私をあの人は笑って見守ってくれていた。

 ひとしきり遊んでずぶ濡れになった体を拭き、初めて訪れた公園を後にする。今度は大通りではなく、裏道を使って帰るらしい。

「秘密の道を教えてあげる」

 子供みたく無邪気な笑顔で、路地裏に潜む森の小道へ紛れ込む。背の高い雑草と樹木で溢れる木陰は他と比べて一層暗く、道幅も狭かったが、あの人は相当慣れているのか軽い足取りで進んでいく。

 一方、私は途中で完全に疲れてしまい、腕の中に抱えられて大人しく景色の観賞に専念することにした。

 しばしの間運ばれていき、突然目の前が仄かに明るくなる。前を向けば、少しだけ開けた場所に出たようで、風化しかけた石畳の上に降ろされる。

 蔓を纏った鳥居の奥、顔を上げた先にそびえ立つのは、随分と古びた木の建物。厳粛で、なんとも言えぬ雰囲気のこの場所を、人は神社と呼ぶのだと、あの人は教えてくれた。

 人子一人見当たらない敷地内は、酷く寂れていたが、大きな羽根がいくつも落ちており、人以外の者たちによって、頻繁に訪れられているようだった。

 ふとどこかから視線を感じ、微かな音と匂いを頼りに気配を探そうとすると、茂みの中から数多のからすが姿を現す。

 驚いて咄嗟に後ろへ逃げる私とは反対に、あの人は落ち着いた様子で挨拶をし、奥へと進んでいく。彼らもまた、何事もなかったかのように羽繕いをしたり、手水舎で水浴びを始めたりしていた。

 彼女曰く、幼い頃にここを見つけて以来、時間を見つけて定期的に通っているらしい。烏たちともその過程で仲良くなり、気を許されているとのことだ。

 拝殿の前に着いた彼女は、人のいない社の奥に向かってお辞儀をし、手を合わせた後、満足した顔で振り返る。

 遊べ、構えと群がる幼い小鳥たちに、「またね」と一時の別れを告げると、再び私を抱き上げて、帰路についた。

 路地に戻り、家と家の隙間や林の中を潜り抜けていくと、あっという間に最初に見かけた池の前に出る。

 自宅に入り、玄関で足や体を念入りに拭かれてから、ベッドの中へもぐりこむ。たくさん動いて疲れたせいか、ふかふかした布地がいつもよりも心地いい。

 私の頭を撫でながら、これからは毎日お散歩に行けるのだと、あの人は教えてくれる。

 面白いことばかりの外の世界でまた遊べることにも私は喜んだが、あの人の隣を何度でも歩けることが、この上なく嬉しかった。

 散歩中にあの人が教えてくれた、日々草の花言葉と同じように、楽しい思い出が何でもない日常に加わえられた。


 アスファルトが火傷しそうなくらい熱くなって、向日葵が輝かしく咲き誇る季節の夕暮れ。

 仕事も休みで、一日中私と一緒にのんびりしていたあの人は、突然、勢いよく立ち上がり、「春、遊びに行こう!」と言って出掛ける準備を始める。

 普段はどこに行くにしても徒歩で移動するのだが、今日は車で向かうらしい。

 促されるまま席の後ろへ乗り込み、大人しく座る。自動車に乗るのは初めてで、エンジンをかける時の騒音にはびっくりしたものの、ほどよい揺れと、椅子越しに話しかけてくるあの人の声に癒され、心は完全に穏やかになっていた。

 私がうたた寝から目覚める頃には、既に目的地に着いていたようで、開かれた扉の隙間を搔い潜って潮風の匂いが吹き抜けてくる。

 足を下ろした硬い道路が、さらさらとした砂へと変わり、内部に取り残された熱が両足を包む。土とも草とも、石とも異なる感触に胸が高鳴るのを感じ、私は無意識のうちに口角を上げていた。

 己の速さでまったりと打ち付けるさざなみは、 湿った粒を巻き込んだ後、巨大な水溜まりの方へ帰っていく。

 この水溜まりの正体は海というものだそうで、舌先で試しにぺろりと舐めてみたら、ほんの少しだけしょっぱかった。

 絶え間なく鳴り続ける波音を目掛けて、躊躇なく飛び込み、黄昏の中を思いのままに走りだす。

 ちらりと横に目を向ければ、全力で駆けるあの人の姿が映りこむ。はっきりと顔は見えずとも、私と同じで、心底楽しそうに笑っているということは、容易にわかった。

 帯のように広い浜辺の最果てまで、一気に駆け抜け、二人揃ってよく乾いた砂の上に体を投げ出す。息を切らした互いを見て、私たちはまた笑いあった。

 お風呂が大変になっちゃったね。こんなに走ったの久しぶりだな。でも本当に、楽しかったね。また来ようね。

 当たり前になったやり取りの背景に、昼顔の群れが花を咲かす。自由に伸ばされた蔓には、私たちの絆が握りしめられていた。


 陽炎が解け、よく知っている香りが過ぎ去っていく。晴れた視界の中で、天の川の星よりも多くの思い出を抱えた花々が、炎陽の下に照らし出された。

 名前をもらった後、おいしいご飯をお腹いっぱい食べて、お部屋を歩き回った。今となっては落ち着ける場所になった家も、当時の自分にとっては、知らないことで溢れ返った心躍る遊び場だった。

 初めてのお風呂も最初は怖かったが、温かいお湯でその恐怖心も綺麗さっぱり流された。そしてなにより、体の芯までほかほかになってからのお昼寝は、最高に心地よかった。

 病院は……もう行かなくていい。というより、行きたくない。あの人や看護師さんが、どれだけたくさん褒めてくれたとしても、やはり痛いのは嫌だ。

 逆に、幸せそうなあの人を見られるお花屋さんは、毎日居たいほど気に入っている。お仕事がある日はレジの横から頭を出して、お客さんと話す横顔を眺める。

 花に触れて、花の話をする時にしか見られない表情が、私は大好きなのだ。もちろん、そのお話が私に向けられたものであったら、尚更良い。

 散歩では二人で街を歩ける上に、お店にはない植物のことも教えてくれるから、日常の中でも特別楽しく思える時間だった。

 暑い季節に連れて行ってくれた夕暮れの海も、愛おしくてたまらない思い出の一つだ。

 あの人との間に芽吹いた、絆の存在。はっきりと言葉にはしなくとも、確かにそれは、私たちのことを固く強く結んでいた。

「眩しいな」

 花畑を掻き分けながら、案内人さんがおもむろに口を開く。布に隠された彼の顔は、心做しか微笑んでいるように見えた。

「私たちはどこへ行くにしても一緒だったし、私が知らないたくさんのことを、あの人は教えてくれたんだ。お散歩中に、けがをした烏を拾って、神社まで送り届けたこともあったんだよ」

「本当に、ずっとこんな日が続けばいいなって思うくらい、幸せだった」

 背の高い向日葵を見上げて、花弁に触れる。瞬間、何とも言えない気持ちが込み上げ、温もりで胸がいっぱいになる。

 それだけあの人と過ごした時間は、かけがえのないものだった。

 朗らかな陽だまりの花々を抜けると、先ほどまでとは打って変わり、冷たく乾いた風が頬を撫でていく。

 顔を向ければ、私たちを取り巻く微かな霞に紛れて、ほんの少しだけ暗い霧が立ち込めているのが見えた。

「入るなら、足下には気をつけろ」

 自身の後ろから、静かに警告する声が聞こえる。霧の中は視界が悪くなるから、言われなくてもそうするつもりだ。

 私は言葉を返す代わりに、はっきりと頷く。そして、風の誘う方向に一歩足を踏み込んだ。

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