春の花

 小さな花弁を追っていく中で、遥か遠くに見える景色が霞がかっていることに、私は気が付いた。

 近くにいる間は一見何もないように思えるのだが、試しに振り返ってみると、先ほどまで歩いていたはずの道さえも既に薄い靄へと取り込まれかけていた。

 にもかかわらず不思議と暗く感じないのは、月明かりに照らされた雲のように、周囲の仄かな光を帯びているからなのかもしれない。

 花びらの列は未だに淡い霧へと続いており、一歩進めば新たに現れ、後ろの一つがぼんやりと消えていく。規則的とも不規則ともとれる終わりのない周期が、それらによって作られていた。

 一体どこまで続いているのだろうか、などと考え始めた頃、微かな匂いが私たちの周りを通り過ぎる。

 私が顔を上げれば、連なった花弁の先で、こじんまりと座っている花の姿が目に入った。

 無数の葉に埋もれてしまいそうなほどには小さく、しかしながら物言わぬ力強さを身に纏っているその花は、私たちが今まで辿ってきたものと同じ花弁を五つの方角に向けて開かせていた。

 すぐ近くまで歩み寄り、葉との隙間に手を添えると、再び微香が鼻をくすぐる。

 花自身が匂いを発しているというわけではなさそうなので、どうやらこれはまた別の何からしいが、胸の奥をくすぐられるような、酷く懐かしい、優しい香りだった。 

 なのにどうして、こんなにも遠く、寂しく感じるのだろうか。

 刹那、勢いよく風が吹き付け、目の前の花ごと心地よい温もりに覆われる。心の底から安心するその感覚を、私は確かに知っている。

 どこまでも深い慈愛と、柔らかな陽の温かさ。何故だか無性に愛おしくなるような、遥か昔に私のことを包み込んでくれていたそれは――母親の香りだった。


 産まれたばかりのことは、正直なところ、ほとんど覚えていない。ただ微かに、温もりと匂いの記憶があるだけ。

 はっきりと母親のことを認識したのは、目が見えるようになってからだった。

 瞼を開けば必ず目の前に母がいて、起きている間も拙い声で「おかあさん」と呼べば、いつだってすぐに駆け付けてくれる。彼女の傍が、私の中で一番安心できる場所になることは、極めて自然なことだった。

 また、私の隣でもぞもぞと動く、自分や母親とよく似た匂いを持つ存在が、兄弟と呼ばれるものだということも、その時に初めて知った。

 段々足腰が強くなって、ある程度自分で歩けるようになると、兄弟たちと共に、時間さえあればすぐにじゃれあうようになった。互いを追いかけまわしたり、おもちゃを取り合って引っ張ったり、お母さんの背中によじ登ったり。後のことなど気にも留めず、とにかく自由奔放に遊びまわる。

 他のみんなよりも少しだけ体の小さい私は、勝てずに泣きつくことも、すぐに疲れてしまうこともしばしばあったけど、その度に「今はだめでも、明日は勝てるかもしれないわ」「あなたはあなたのままでいいのよ」と言って、優しく抱きしめてくれる。そんなお母さんが、私は大好きだった。

 気が済むまで走り回って、段々眠たくなってくると、母は窓際のよく日の当たるクッションに私たちを運びこむ。

 陽だまりの匂いでいっぱいのそこに顔を埋め、緩やかな波を揺蕩うように、夢の中へと舟を漕ぐ。

 庭に広がる片喰が、母の優しさに包まれる私たちを見守りながら、静かに咲いていた。

 

 なんてことない日常で、最近一つだけ、少し不思議に思っていることがある。お母さんのところから離れすぎると、持ち上げられて半強制的に連れ戻されるのだ。

 以前はどこまで歩いていこうと、危ないところや高いところへ登ろうとした時に止められるくらいで、母はいつも少し遠くから、私たちを見守ってくれていた。なのに今日も、ほんの少し離れすぎただけで、すぐにベッドまで連れ帰られた。

 加えて、お日様の光みたいに優しい眼をしているお母さんが、何やら焦ったような、周りを警戒するような目で私を捕まえに来るから、私も拒否することはせず、されるがままに大人しく抱えられていた。

 自分の近くに母以外の大人がいることも、この頃には知っていた。物を噛めるようになってから、自分たちにご飯をくれていたのもこの人たちだったし、時折頭を撫でたり、一緒に遊んだりしてくれていたからだ。

 お母さんもご飯は一緒だったけど、私たちが食べ終わるのを確認してからようやく自分の分を食べ始め、食事中も常にこちらを気にかけてくれていた。まだ自分のご飯が残っていても、私たちの誰かが見えなくなると、やや小走りで駆け付けてくる。

 傍に来てくれるのは嬉しいけれど、前よりもなんだか空気がぴりぴりしている気がして、やっぱり少し不思議だった。

 

 ある日の夜中。それも、みんながぐっすり寝ている時間。聞きなれない物音がして、目が覚める。

 まだぼんやりとしている意識のまま顔を上げれば、私の視界に映ったのは、いつも母が自分から遠ざけていた大人の影。

 もうご飯の時間なのかなと思っていたら、突然体を持ち上げられて、硬い箱の中に放り込まれる。びっくりして悲鳴を上げたら、箱の蓋越しに怒鳴られた。普段話しかけてくる時とは比べ物にならないほど、低く冷たい声だった。

 お母さんも異変に気が付いたらしく、怒りと焦りに満ちた叫び声と、それを振り払う強い音とが暗闇に響き渡る。

 それでも声は段々と遠くなり、何かが勢いよく閉まる音を最後に、母の声はついに全く聞こえなくなってしまった。

 私は何度も「おかあさん」「おかあさん」と呼び続けていたけど、いくら呼んでも一向に届かなくて、自分の心が冷えていくのを感じた。

 しばらくして、泣き疲れた私が角の方で静かに身を縮めていると、不意に揺れが止まり、段ボールごとゆっくりと地面に降ろされる。開かれた空を見上げてみれば、寂しげな星々が細々と輝いている。

「お前には悪いが、こうするしかないんだ。ごめんな」

 軽く頭を一撫でして謝った後、大人は背を向けて私とは反対の方向に歩いていく。直感的に、自分は置いていかれるのだとすぐにわかった。

 身を乗り出してついていこうとするが、壁が高いせいで飛び越えられないうえに、私の体重では倒れてくれない。精一杯の力で叫んでみても、大きな足が振り返ることはなく、川の音に搔き消されて次第に影の中へと消えていった。

 暖かくなる季節とはいえ、夜の空気はまだ冷たい。吹きつける風に、ぶるりと身を震わせた。少しでも温もりが逃げないようにと、箱の隅で再び体を丸くする。

 初めて独りで眠る夜は、痛いほど寒く、長く感じた。

 どこからともなく現れた蒲公英の綿毛が頭上に浮かび、ひとりでに飛び去っていく。いつも通りの日常になるはずだったあの日が、大好きな母と過ごす最期の日となったのだ。


 近くで足音が聞こえる度に、私は声が枯れるまで「助けて」と叫び続けた。他にできることなんてないから、とにかく必死に身を乗り出して、泣き疲れては無意識のうちに眠りにつく。普段なら朝にはご飯がもらえるけれど、今はどんなにお腹が空いても、誰一人として助けてはくれない。だからせめて、体を休めるために寝ていることしかできなかった。

 あれから何回、お日様が昇って沈んでいったのかはわからない。もしかしたら、私が勘違いしているだけで、それほど時間は経っていないのかもしれない。

 突如として落ちてきた冷たい何かに、私は思わず飛び起きる。降ってきた方向に顔を向けてみれば、花時雨がしとしとと静寂を濡らしているようだった。

 背中を濡らした水滴を短い舌で舐めとって、再び小さく縮こまる。小刻みに震える体にはもはや動き回る気力などなく、天気のせいか、人が通る気配もない。ただ、何もない時間が過ぎるのを待つだけだった。

 もうこのまま、誰にも会えずにひとりぼっちでいるのだろうか。考えるだけで泣きそうになるが、しばらく水を飲んでいないせいで涙すら零れてはくれなかった。

 吐き出せない気持ちを堪えるため、強く目を瞑った時、雨音の隙間から何かが近づいてくるのが聞こえた。

 私は最後の力を振り絞って、声を上げる。

 お願い、気付いて。私はここだよ。

 不意に視界が暗くなり、誰かの寒そうな息遣いが耳に届く。顔を上げてみれば、知らない女性が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。どうやら影の正体は、彼女の差していた傘だったらしい。

 私の存在に気が付いたのか、彼女は顔色を変え、慌てて自身の上着で私を抱き上げる。冷え切った体が、久しぶりの温もりにじんわりと包み込まれていくを感じた。

 腕の中で大人しくしていると、傘を。

 しばしの間揺られ続け、やがて一つの建物の前で彼女は立ち止まった。

 生まれて初めて連れてこられたその場所は、飾り気のないシンプルな内装で、様々なものが混ざり合った独特な匂いが立ち込めていた。

 中には他に誰もいなくて、すぐにまた別の部屋へと運ばれた。全身をくるむカーディガンから台の上に降ろされて、知らない大人の人が女性と何かお話をしている。どうやら今から診察?検査?ってのをやるらしい。

 聞いたことのない言葉ばかりで何なのかはよくわからないけど、色んなところを触られたり、お尻に何かを入れられたりして、正直少し怖かった。

 でもみんな、優しく声をかけてくれたし、何度も大丈夫だと言って頭を撫でてくれたから、嫌だけど悪い人たちではないのだと思う。どの道抵抗する体力もないので、私は終わるまでずっとされるがままだった。

 不意に膝の上に乗せられたかと思えば、口に細いものを差しこまれて、垂らされたお水を自然と舐めとる。甘い味が美味しくて、喉が渇いていたのもあり無我夢中で飲み続けた。

 中身がもう出てこなくなると、空になった筒が離される。本当はもっと欲しかったけど、さっきよりも体が軽くなっていて嬉しかった。

 どうやらこれで全て終わったらしく、大人たちが話し終わるのを待ってから、再び腕に抱えられて部屋と建物を後にした。

 今度はゆっくりと歩いてくれて、穏やかな揺れで徐々に眠くなってくる。幸い、私が寝落ちする前に目的の場所に着いたようで、傘を閉じる音が聞こえて目が覚めた。

 開かれたドアの先に広がっていたのは、微かに花の匂いがする部屋。曰くここが、女性の暮らす家だそうだ。一人暮らしで、他には誰もいないのだという。

 玄関に私を降ろした彼女は、あっという間に奥に引っ込み、いくつかのタオルを手に駆けてくる。

 勢いよく走ったせいか、廊下の真ん中で転びかけていたけれど、何とか無事に戻ってきて、私の頭や背中を丁寧な手つきで拭いてくれる。よく絞られた繊維に残る、暖かい水の温もりが心地よくて、自らおでこを拭き取る手へと押し当てた。

 タオルの中でもみくしゃにされながら全身を隈なく拭かれ、にしてもらい、綺麗な布を敷き詰めた空き箱。

 また押し込められるのかと思って、一瞬だけ抵抗しようとしたが、差し伸ばされた手のひらはあの時の大人とは比べ物にならないほど、私を優しく降ろしてくれた。

 持ち上げた顔を女性にそっと撫でられた時、胸に残っていた僅かな不安が綺麗に晴れて、もう大丈夫なんだと、本能が告げた。

 窓際の花瓶で嫋やかに揺れる鈴蘭は、再び幸せが訪れたことを、清楚な香りに乗せて教えてくれた。

 ようやく心の底から安心できたことで、今まで忘れかけていた疲労が一気に襲い掛かってくる。私はすっかり気が抜けて、大きなあくびを零した。

 石鹼の香るタオルに埋もれて、緩慢な動きで箱の壁に身を寄せる。

 小さく聞こえたおやすみを合図に、私は睡魔に抗うのをやめて、そっと瞼を下ろした。

 

 早起きな鳥のさえずりで、閉じていた視界に光が差し込む。久しぶりにぐっすりと眠ったおかげで、まだ完全に寝ぼけている手足を思いっきり伸ばした。

 無意識に声も漏れていたようで、先に起きていたのだろう女性が駆け足で此方へと近づいてくる。私も私で、四角の外に目を向けてみたが、あまりの眩しさにすぐさま頭を元の位置へ押し込めた。

 彼女は静かに横にしゃがみ、ようやく覚醒した私の頬を優しく両手で包み込む。釣られて上に向けた視線が、純粋な瞳に吸い込まれた。私が思わず見入っていると、不意に女性が口を開く。

「ねえ、私、ずっと考えてたの。これから貴方をどう呼ぼうか。候補は色々思いついてたんだけど、今何となく、これだなってのが決まったんだ」

「貴方の名前は、春。きっと貴方は、この季節に似合うような強くて優しい子になるよ」

 得意げに笑う彼女の顔が、陽だまりの中に照らし出される。雨は既に止んでいて、ベランダに咲く勿忘草は真実の愛を映し出して、葉から水滴を滑らせる。

 どんなものよりも特別で、初めて彼女からもらった、大切な宝物。

 雨上がりのその日、彼女は私に「春」の名前を贈ったのだ。


 綿毛がゆっくりと頬を掠め、花々の群れに吸い込まれては、風に浮いて流れていく。

 ここに来た時感じた匂い、あれはお母さんのものだったんだ。幼い頃、無理矢理引き離されて別れてから一度も会えたことがなかったから、思い出すのが難しかった。

 最後の夜、連れ出されるその瞬間まで、母は確かに、私たちを愛してくれていた。

 一人箱に取り残された時は、お腹が空いて喉も乾いて、もう誰にも会えないと思っていたけれど、雨の中、あの人が拾ってくれたから、私はもう、独りぼっちではなくなった。

 久しぶりに得た安らぎの下、彼女の目を初めて見上げたあの朝から、私は春になったのだ。

 控えめに咲き誇る花畑を進みながら、懐かしいそれらの香りに思いを馳せる。私が忘れても、お母さんがくれた優しさの欠片を失くしてしまわぬよう、片喰が自身の根の下に留めていてくれたらしい。

 鈴蘭は相変わらず静かにしなり、清楚な香りで辺りを満たす。雫滴る勿忘草も、真実の愛に覆われて、可憐な花弁を開いていた。

「懐かしいなぁ……もう、どれだけ前になるんだろ。お母さんとは、それっきり会うことはできなかったんだけど、あの人が私を見つけてくれたから、私はもう、独りじゃなくなったんだ」

「そうか。お前は、そいつに救われたのだな」

 案内人さんの言葉に、私は頷く。あの人が居なければ、今も独りのまま凍えていたかもしれない。あの人はまさに、私の恩人であると言えるだろう。

 穏やかな花の海が途絶え、代わりに、まあるい三つ葉が顔を出す。どうやら葉は、細く伸びる茎の上をほぼ等間隔に連なっているようで、微風を受け、やんわりと揺れている。

 三回目ともなれば、これが何を指し示しているのか、何となく察せるようになってきた。

「行こう」

 嗚呼、と簡潔な同意の声が背中から聞こえる。時折曲がり、気まぐれに這うそれに倣って、私達は再び足を動かし始めた。

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