花を紡ぎて
和猫三毛
序の花
輪郭の曖昧な
胸に残ったわずかな違和感を気にする間もなく、床板に一歩踏み入ろうとした時、突然何処かから声が聞こえ、ぼやけていた意識ごと勢いよく引き戻される。力強く手を引くそれに抗えるわけもなく、視界を閉じた。
しばし後、温かい風を感じて私は目を覚ます。ゆっくりと体を起こし、顔を上げた私の前に広がっていたのは、何もない無彩色な景色だった。
「ここ、どこ?」
「目が覚めたか」
不意に背後から声をかけられ、私は反射的に振り返る。
恐らく声の主であろう、男とも女とも取れない体格の彼が、静かな眼で私を見下ろしていた。
とは言っても、顔が布で覆われているため、実際にどこを見ているのかはわからない。だが直感的に、自分へ視線が向けられているということは、何となく感じ取れた。
「貴方、誰?」
「名乗る必要はない。私はただ、お前の道案内をしに来ただけだ。呼ぶ名が必要なら、案内人とでも呼ぶがいい」
「案内人さん?」
「そうだ」
首を傾げながら復唱すれば、案内人と名乗った目の前の人物は小さく頷く。少し偉そうな口ぶりだが、やけに淡々としていて、よく分からない人だなと思った。
次に何を聞くべきか、そもそも信用するべきなのか悩んでいると、何の前触れもなく、唐突に彼は問いかけてくる。
「お前はこの世界がどういう場所であるのか、知っているか?」
反射的に声を漏らして、目をぱちくりさせながら私は固まっていたが、彼が律義に返答を待っていることに気が付き、慌てて否定する。
「ここはお前の記憶から成る空間。人間の言う、夢に似て非なるものだ」
理解が追いつかず呆気に取られている私に、難しければ夢という認識でも問題ない、と彼は補足した。
ちょっぴりむかついたが、話が難しかったことは事実なので、諦めてそういう事にしよう。
「えーっとつまり……どういうこと?」
「そのままの意味だ。今後ろに落ちているそれも、お前の記憶の一部だろう」
指摘されて振り返ってみれば、足元に一枚の花びらが落ちていることに気が付く。
見渡す限り空白ばかりで何もないのに、何処から零れてきたんだろうか。
「物は試しだ、拾ってみろ」
促されるまま私はしゃがみこみ、恐る恐る手を近づける。次の瞬間、微かに嗅ぎ覚えのある匂いが鼻腔をくすぐった。
少し甘いような、それでいて爽やかさのある、何処か上品な香り。記憶にはない。けれど、私は確かにこの香りを知っている。
そう思い至ると同時に、誰かの声が頭の奥底から響く。
「この花はね、春が来たことを教えてくれる花なんだよ。貴方と同じ、春。名前は――」
ゆっくりと瞼を開いた私の前で、先ほど拾い上げた欠片を纏った花が満開に咲く。初めて脳裏に蘇ってきた話を聞いた時も、同じ気品のある花香が満ち溢れていたような気がする。
梅。毎年暖かな季節の訪れを告げる、約束に忠実な花だと、あの人が教えてくれたんだ。
「そういえば、お前の名を聞いていなかったな。何というのだ?」
「私の名前はね、春っていうの。誰かが私を、そう呼んでいたんだ。いつの間に忘れてたんだろ。今やっと思い出したの」
本当に、どうして忘れていたのだろう、自分の名前のはずなのに。何度もあの人が呼んでくれていたのに。
そこまで思い返して初めて、私はあの人のことが何も思い出せないことに気づいた。
それだけではない。自分が今までどう過ごしてきたのかも、いつどうやってあの人に出会ったのかも。何一つ、思い出せないのだ。
「なんで、思い出せないんだろ」
呆然と立ち尽くす横で、案内人さんが、この状況を知っていたかのような言葉を零すのが聞こえる。
訝しんで顔を上げる私の前に差し出されたのは、予想外の問いかけだった。
「お前はどうしたい?」
「え?」
「記憶が無いのだろう。お前の意思次第では取り戻すことも、忘れたまま進むことも可能だ」
「で、どうする?」
何故かはわからないが、どうやらこの人は、私に記憶が無いことを知っていたらしい。半信半疑だった案内人という役職は、本当なのかもしれない。
いずれにせよ、帰る方法があるなら帰りたいし、忘れていることは全て思い出したい。本来そこにあるはずだった記憶を、ずっと忘れたままでいるというのは、なんとなく寂しい気がしてならないから。
「思い出したい。思い出して、帰りたい」
刹那、濡れ羽色の布越しにじっと見つめられ、思わず体に力が入る。だが直後、彼は随分と落ち着いた声色で、わかったと一言放った。
そのまま案内人さんは、今走った緊張感が嘘だったかのように、淡々と話し始める。
「その花弁に触れた時、お前は自身の名を思い出しただろう。先ほど言った通り、それはお前の記憶の一部が具現化した、欠片のようなものだ。同じように一つ一つ巡って行けば、全ての記憶を取り戻すことができるだろう」
不意に何かが視界の端を舞い、地面へと吸い付けられる。視線の先で、ごく小さな三角の花弁が一瞬その場に留まったかと思えば、柔いそよ風と共に飛び立った。
合わせて彼らの進む方向に目を向ければ、よく似た欠片が彼方までいくつも続いているのが見える。
「気になるのなら、追ってみるといい。それらもお前の記憶の欠片だ」
背後からかけられた言葉に頷いて、花びらの連なる横を歩きだす。
数多の花を巡る私の小さな旅が、今、空白だったこの世界で静かに芽吹いた。
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