波のあと

沙華やや子

波のあと

 夏子なつこ時恵ときえを憎み続けてきた。

 時恵は夏子の、最初から夫が居ない美人の母だ。


 もうすぐ夏子は49才。時恵は65才。


 島根県で育った夏子は、時恵の恋人から虐待を受け続け育った。

 

 その男、基之もとゆき(現在行方知れずの70才)は、夏子が幼い頃、時恵が夜の仕事に出掛けて行く際の世話係だった。


 夏子は忘れない。あれは3才ぐらいだったのだろうか、夏だった。当時基之は24才か?

 その基之に腹を蹴られ、畳の上を凄く長い距離、おしりでス――――! と移動した夕べを。腹部には激痛が走り、おなかが破れるかと思った。

 怖い言葉で脅かされ、風呂に入れられると灼熱のシャワーに耐えた事もしっかりと覚えている。火傷こそしなかったが、肌の赤味は暫くおさまらない。

 熱くて、熱くて、湯船につけられればそこは地獄の窯のようだった。

 げんこつで頭を殴られた時は、一瞬辺りが真っ暗になり、気づくとクラクラした。


(ママの好きな人だから)と、夏子は決して母親・時恵に虐待の事実を打ち明ける事はなかった。


 中学生になると夏子は基之からレイプされた。

 黙り続けた夏子。自分もいけないような気がしたからだ。


 母・時恵と、基之は、夏子が高校に入る頃別れた。



 当たり前に夏子は病んで行った。


 夏子は自分の親である時恵を可哀相だと思い続けてきた。

 まるでピエロのようだったから。何処までも人に優しいから。


 そして夏子は、片親である自分と、弱々しい母親を恥ずかしいと感じていた。


 

 高校を卒業し、上京した夏子は25才の春……風俗のお客を通し知り、違法薬物に手を出した。 

 悲しみと恐怖と不安感、眠れぬ日々、これらの怒りをすべて母である時恵に向ける事となる。


 虐待を起こした怖い加害者よりも、『虐待を放置した優しい母親』のほうが責めやすいからだ。



「追手がくる!」とおかしくなって、東京から田舎へと逃げた夏子が母・時恵に、自分の悪事と子ども時代の虐待体験を洗いざらい打ち明けると……時恵は「何て可哀相に!」と泣き崩れた。


 夏子は周りから「よく薬、やめられたね!」といつでも賞賛を受けたが、夏子にしてみれば、あの幻覚と妄想状態が死ぬより怖かっただけだ。


 夏子は薬の禁断症状から『自分は狙われていて、必ず誰かに殺される運命だ』と思い込んで毎日脅えていた。『怖いから、いっその事早く殺してくれ』と……。


 夏子は憎む。


 自分を放ったらかし、恋人と抱き合っていた母親・時恵を。


 ネグレクトだ! と。


 母・時恵は夏子に要求され、10年以上、カウンセリング料とカウンセリングルームへ行く交通費を夏子に払い続けた。


 時恵は逃げやしなかった。夏子に真摯に向き合った。


 やがて夏子は29才の頃、フラッとまたも、恐ろしい思いをした東京へ舞い戻った。それほど回復していたと言えるのだろうか。


 新しいカウンセリングルームへ通い、治療費は相変わらず時恵が出していた。


 もう風俗業はしなかった。現場仕事に精を出した夏子。専門的な建築の知識はないので、掃除や片付け・道具を運ぶなどの雑用係だ。


 気まぐれの虫が夏子には住んでいるから、32才の初秋、島根へ遊びに帰った。


 リビングで化粧を直しつつ、テレビを見て馬鹿笑いしている金髪・巻き毛の夏子。


「あ! 夏子、帰ってたの?!」2階から母・時恵が駈け下りてきた。

 

「うん」


「今日のごはんのサバの塩焼きがあるけど、お味噌汁と……食べる?」


「うん」


 時恵は嬉しそうだ。

 夏子は素直になれない。


 もう笑えずに、つけっぱなしのテレビの前で魚を箸でつつく夏子。


 その間、母・時恵は2階へ上がっていた。夏子に好かれていない事を知っている。


「ごちそうさまー」と言って、夏子は食器を洗った。


 そして母の寝室へ行く。


「ママ、明日ドライブに連れてってくんない?」


 時恵は少し戸惑った顔をしたが「うん! 良いよっ」と笑顔で答えた。


――――翌日。


「あたしね、海が見たいの、ママ。日本海」


「うん、わかった!」


 二人は……「空が綺麗だね」とか、「海辺は生えてる植物が違うよね」など、当たり障りのない話を言葉少なにした。


「ママ、砂浜まで下りたい。海の近くまで行きたい!」

 大好きな海を見、テンションが上がってきた夏子は言った。


「うん、良いよ。車停めて歩いて行こうね!」と時恵。


 ザブーンッ、ザブーンッ。日本海は綺麗で強い。


 時刻は午後3時になっていた。


「ンフフ!」

 急に笑いながら「わ――――っ」と明るく叫んだ夏子。


 そしておしゃれなサンダルのまま海に入って行く。


「ママ! ママ!」


 クルクル踊るように笑ってはしゃぐ夏子。


 すると、時恵は泣き笑いしながら「うん! うん!」と言い、時恵も靴のまま海へ入った。


 夏子の回るフレアスカートと時恵のデニムパンツはビショビショになった。


「キャ――――」夏子のキラキラした瞳に、海を映した涙のスクリーンが出来た。

 そのスクリーンが次から次へと零れ落ちて行く。


 笑って、笑って、それがニセモノであっても笑って、二人は女優を演じた。その気になった。


                *


 それから20年経った。明日49才になる夏子には高校1年生の息子がいる。そばには夏子の過去を丸ごと受け入れた誠実な夫もいる。


 夏子は相変わらず東京に、時恵は島根で暮らしている。


 夏子は息子を生み、当時の時恵の苦労を、孤独を、痛いほどに理解した。

 いびつにもつれてしまっていた紐が、緩やかにほどけた。



 ――――2月20日。夏子の誕生日の朝、夏子は母・時恵にLINEを送った。


『 ママ、あたしを生んでくれてありがとう。あたしは、ママの娘で嬉しい! 』


 返信がすぐにやって来た。


『 夏子、お誕生日おめでとう。ママのもとに生まれてきてくれてありがとう。ママは幸せだよ 』

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波のあと 沙華やや子 @shaka_yayako

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