第3話
馬車は夜の帳を切り裂き、聖教会の総本山である聖都エーテルガルドの巨大な城壁へと辿り着いた。
高さ数十メートルに及ぶ純白の壁は、月光を反射して神々しく輝いている。
普段であれば、門限を過ぎた入城は厳しく制限されるはずだ。
だが、リーシャを乗せた馬車が近づくと、重厚な鉄門は音もなく左右に開き、さらにその先に続く大通りには、深夜であるにもかかわらず無数の聖歌隊と信徒たちが整列していた。
「見てください、お兄様。皆様、お兄様をお迎えするためにこうして集まっているのですわ」
リーシャが窓の外を指さして、誇らしげに微笑む。
だが、外の様子を窺うと、信徒たちは皆一様に地面に額を擦り付け、震えながら祈りを捧げていた。
それは歓迎というよりも、強大な天災が通り過ぎるのを待つ畏怖に近いものに見えた。
馬車が大聖堂の正面玄関に到着すると、そこには教会の重鎮と思われる老人たちが、豪華な法衣に身を包んで待ち構えていた。
その中央に立つ、一際大きな杖を持った男——枢機卿ボルマンが、馬車の扉が開くと同時に恭しく頭を下げた。
「聖女様、お帰りなさいませ。……して、そちらの御仁は? 聖域に部外者を招き入れるのは、いかに聖女様の御意向とはいえ少々問題が……」
ボルマンの視線が、リーシャにエスコートされて馬車を降りる俺に向けられた。
彼の瞳には、俺を品定めするような、不愉快な警戒心が宿っている。
「部外者? 誰のことを仰っているのかしら、ボルマン枢機卿」
リーシャの声から、一瞬にして温度が消えた。
彼女は俺の隣に立ち、俺の腕を自身の胸に抱きしめるようにして固定すると、冷徹な視線で老人を射抜いた。
「このお方は、我が兄にして、この世界を統べる真なる主。貴方たちが祈りを捧げる対象そのものですわ」
「な……っ!? 聖女様、そのような冗談は——」
「冗談? 私がそんな下らないことに時間を使うとお思い?」
リーシャの体から、黄金色の魔力が溢れ出す。
それは聖女としての癒やしの力ではなく、逆らう者を根こそぎ圧殺しかねない、暴力的なまでの神威だった。
枢機卿たちはその余波に押され、数歩後ずさる。
「リーシャ、いいよ。そんなに怒らなくても」
俺は、彼女の頭を軽く撫でた。
すると、あんなに鋭かったリーシャの気配が、一瞬でふにゃりと崩れた。
彼女は俺の手のひらに頬を摺り寄せ、幸せそうに目を細める。
「お兄様がそう仰るなら……。ですが、神であるお兄様に対して無礼を働く者は、例え教会の重鎮であろうと容赦はいたしません」
俺は困ったように笑い、枢機卿の方へ向き直った。
正直、神だとか主だとか言われても、俺自身まだ実感が湧いていない。
ただ、さっきから気になっていたことが一つあった。
「あの、枢機卿さん。……その杖、重くないですか?」
彼が持っている大杖には、巨大な魔石が埋め込まれており、そこから常に不穏な重圧が放たれていた。
俺の目には、その杖が枢機卿の肩や腕に、目に見えない「澱み」のようなものを押し付けているように見えたのだ。
「……? これは聖遺物の一つ、重力制御の杖だ。確かに強力な魔力ゆえ、扱いには相応の負担が伴うが、それが何か?」
「もっと、羽みたいに軽くなればいいのに。……そう、これくらいに」
俺が杖を指差してそう呟いた、その瞬間だった。
大杖に埋め込まれていた魔石が、カチリと音を立てて純白に染まった。
枢機卿は目を見開き、驚愕のあまり声を失った。
彼の手にあったはずの重量感が、完全に消滅したのだ。
それどころか、杖は彼の意志を汲み取るかのように、空中にふわふわと浮かび上がり始めた。
「な、なんだこれは……!? 聖遺物の構造が書き換えられた……? いや、この溢れ出す神聖な気配は……」
枢機卿は、震える手で杖を掴み直した。
以前の禍々しい重圧は消え、代わりに彼の全身に、活力を与えるような清涼な魔力が流れ込んでいる。
「……あ、ああ……。私の持病だった肩の痛みが、消えていく……。これは、まさに神の御業……」
ボルマン枢機卿は、杖を投げ出すようにしてその場に跪いた。
彼だけではない。周囲にいた他の司教たちも、今の「奇跡」を目の当たりにし、腰を抜かしたように地面に伏した。
「失礼をいたしました……! まさか、これほどまでの御力をお持ちのお方が、現世に降臨されていたとは……!」
教会のトップたちが、俺の足元で平伏している。
数時間前まで、実家の泥水を啜っていた自分とは、あまりにかけ離れた光景だった。
リーシャはそんな彼らを見下し、満足げに鼻を鳴らした。
「わかればよろしいのです。……さあ、お兄様。不快な掃除は済みました。奥へ参りましょう。お兄様専用の離宮を、すでに最高の状態に整えてありますわ」
リーシャは俺を促し、大聖堂のさらに奥、歴代の聖女すら立ち入りを禁じられたとされる最奥の聖域へと導いていく。
廊下を歩くたびに、俺の歩幅に合わせて床の絨毯がふかふかと柔らかくなり、周囲の空気が甘く芳しい香りに包まれていくのを感じる。
俺が「心地よい」と感じるように、世界が勝手に調整されているのだ。
辿り着いた離宮は、まさに贅を尽くした空間だった。
窓の外には、深夜だというのに太陽のような柔らかな光を放つ魔導花が咲き誇り、中央には雲のような柔らかさを予感させる大きなベッドが置かれている。
「さあ、お兄様。まずはこの二年の垢を落としましょう。私が、お兄様の指の先まで、心を込めてお洗いいたしますわ」
リーシャが、熱のこもった瞳で俺を見つめながら、自身の法衣の紐に手をかけた。
「……リーシャ、自分で洗えるよ?」
「いいえ、神の御身を人の手が直接洗うなどという不敬、私が許しません。……お兄様を洗う権利は、世界で唯一、このリーシャだけに与えられた特権なのですから」
彼女の瞳は本気だった。
追放された俺を救い出し、神として崇め奉る。
それは彼女にとっての救いであり、そして同時に、俺を誰にも渡さないための執念でもあった。
俺は苦笑いしながら、彼女に導かれるまま湯殿へと向かった。
窓の外では、聖都の鐘が鳴り響いている。
それは、偽りの無能が去り、真なる神が玉座に就いたことを知らせる祝砲のようだった。
俺を捨てた公爵家。
俺を馬鹿にした学園の連中。
彼らが、この聖都で起きている「異変」に気づくのは、そう遠い先のことではないだろう。
「お兄様、お湯加減はいかがですか? もし熱ければ、世界の温度ごと下げて参りますが」
「……いや、ちょうどいいよ。ありがとう、リーシャ」
俺の言葉に、リーシャは今日一番の、蕩けるような笑顔を見せた。
その愛は重く、狂気的で、けれどどうしようもなく温かかった。
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「無能な兄はいらない」と実家を追放された俺、実は創世神の生まれ変わりだった。〜人類最強の【聖女】になった実妹が、俺の足元に跪き「お兄様を捨てた人類なんて、今すぐ滅ぼしましょうか?」と微笑んでいる件〜 kuni @trainweek005050
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