第2話

聖女が跪く。

その光景が、閉ざされた公爵邸の門の向こう側でどのような激震を巻き起こしたかは、想像に難くない。


再び門が開き、中から先ほど俺を突き飛ばした父と、冷淡な笑みを浮かべていたはずの義兄たちが転がるようにして飛び出してきた。

彼らの顔は、もはや怒りでも侮蔑でもなく、死人のような蒼白さに染まっている。


「リ、リーシャ……! いったい何をしている、立ちなさい! なぜ、そんな無能の足元に……!」


父の声が震えている。

彼は、自分の娘がこの大陸でどれほどの権力を持つ存在かを知っている。

同時に、その娘が「無能」と切り捨てたはずの息子に跪いているという事実を、脳が拒絶しているようだった。


リーシャは俺の手に頬を寄せたまま、微塵も動かなかった。

ただ、その黄金の瞳だけが、ゆっくりと父の方へと向けられる。

そこには、肉親に向ける温度など欠片も存在しなかった。


「……汚らわしい。その口で、二度とお兄様の名を呼ばないでくださる?」


冷え切ったリーシャの声が、雨上がりの静寂を切り裂く。

彼女は俺の手を優しく離すと、流麗な動作で立ち上がった。

その瞬間、彼女の背後にある聖騎士団が一斉に剣を引き抜き、ガシャンと金属音を響かせる。

一糸乱れぬその動きは、リーシャの殺意が騎士たち全員に共有されていることを示していた。


「聖女リーシャ・ヴァン・グレイロードの名において命じます。……グレイロード公爵家は、本日、今この瞬間を以て聖教会の庇護を失いました」


「な……っ!? なにを、何を言っているんだリーシャ! 我が家は代々、聖教会の筆頭守護家として——」


「黙りなさい、不潔な人種」


リーシャが短く呟くと、父の言葉は魔法的な圧力によって強制的に遮られた。

父は喉を掻きむしり、声が出ないことに恐怖してその場にへたり込む。


「神を捨てた家に、神の加護など必要ありません。お兄様を追放したという罪は、万死に値します。……本来なら、この地ごと更地にするのが妥当でしょうね」


リーシャは楽しそうに、だが瞳の奥に底なしの狂気を湛えて微笑む。

彼女の手のひらに、純白の光が集束していく。

それは治癒の光ではない。

対象を分子レベルで分解し、消滅させる極大攻撃魔法の予兆だ。


「リーシャ、やめなよ」


俺は、彼女の服の袖を軽く引いた。

リーシャは弾かれたように俺を振り返り、その瞬間、手に宿っていた死の光を霧散させた。


「お、お兄様……? どうして止められるのですか? この者たちは、お兄様の尊厳を傷つけ、泥を啜らせようとしたのですよ?」


「いいんだ。復讐なんて、今の俺にはどうでもいい。ただ、もうこの場所には居たくないだけなんだ」


俺の本心だった。

創世神の力が目覚め始めたせいか、俺の感覚は以前とは全く違う次元に移行していた。

公爵家という狭い世界での確執が、あまりにもちっぽけで、無意味なものに思えていた。

空を飛ぶ鳥が、足元の蟻の喧嘩に興味を示さないのと似ているかもしれない。


「お兄様がそう仰るなら……。ええ、お兄様の慈悲深さこそが、神の証ですわ」


リーシャは頬を染め、恍惚とした表情で俺を見つめる。

そして、彼女は跪いている父たちを見下し、冷酷に告げた。


「お兄様の慈悲に感謝しなさい。命だけは助けてあげます。……ですが、公爵家が所有するすべての聖属性魔石と、王都の領地、そして称号の半分を教会へ返上していただきます。これは決定事項です」


「そ、そんな……。それでは我が家は没落する……!」


義兄が絶望の声を上げるが、リーシャはそれを一瞥もせず、俺をエスコートして馬車の方へと促した。

聖騎士たちが、俺を主君として扱うように深く頭を下げる。

俺は、もはや自分の家ですらなくなった公爵邸を一度も振り返ることなく、リーシャに導かれるまま馬車へと乗り込んだ。


馬車の内部は、外観以上に浮世離れした空間だった。

最高級の魔獣の毛皮が敷き詰められ、壁には空間拡張魔法が施されている。

小さな部屋ほどもある広さだが、リーシャは当然のように、俺のすぐ隣にぴったりと体を寄せて座った。


「さあ、お兄様。冷えた体を温めましょう。……ああ、私がもっと早く迎えに来ていれば、こんな酷いことにはならなかったのに」


リーシャは甲斐甲斐しく、俺の濡れたシャツを魔法で一瞬にして乾かし、厚手の毛布を俺の肩にかけた。

それだけでは足りないのか、彼女は俺の腕を抱きかかえ、自分の体温を分け与えるように押し付けてくる。


「リーシャ、ちょっと近いかな」


「いいえ、離しません。二度とお兄様を私の視界から消したりはしませんわ。お兄様は私の神様で、私のすべてなのですから」


彼女の愛は、以前よりもずっと重く、濃密になっていた。

聖女として崇められる日々の中で、彼女の精神は「兄という神」への信仰によって辛うじて保たれていたのかもしれない。


「ねえ、お兄様。さっきのパン……あれは、どうやって出されたのですか?」


リーシャが、上目遣いに尋ねてくる。

彼女の目は、好奇心というよりも、信者が奇跡の正体を知りたがるような渇望に満ちていた。


「自分でもよくわからないんだ。ただ、お腹が空いたなって思ったら、そこにあって……。俺には魔力もスキルもないはずなんだけど」


「ふふ、当たり前ですわ。魔力やスキルなんていうものは、この世界のシステムが定めた『型』に過ぎません。お兄様は、そのシステムそのものを作られたお方なのですから、型に嵌まるはずがないのです」


リーシャは俺の手を取り、指の一本一本に愛おしそうにキスを落とした。


「鑑定の水晶が反応しなかったのは、お兄様が無能だからではありません。……この世界の道具では、お兄様の高貴すぎる存在を測ることなど、到底不可能だった。ただそれだけのことなのですわ」


彼女の言葉が、すとんと胸に落ちた。

そうだ。

あの時、水晶は光らなかったのではない。

あまりの膨大な「何か」を前にして、計測不能で沈黙していただけだったのだ。


「お兄様、何か欲しいものはありますか? 食べ物、服、宝石、あるいは誰かの命……。仰っていただければ、私がこの世の果てからでも持って参ります」


「いや、今は特にないかな。……あ、でも、この馬車、少し揺れるね」


俺が何気なくそう言った瞬間。

馬車の揺れが、物理的にゼロになった。

タイヤが石畳を叩く音も、馬のいななきも消え、まるで雲の上を滑っているかのような静寂が訪れる。


俺の言葉が、再び世界を書き換えたのだ。


「ああ……素晴らしい」


リーシャは感激したように震え、俺の胸に顔を埋めた。


「お兄様が『揺れる』と仰ったから、世界が自ら揺れるのを止めたのです。お兄様の言葉は真理。お兄様の願いは福音。……ねえ、お兄様。もっと、もっと私に命じてください。貴方の言葉で、この世界を塗り替えてくださいませ」


彼女の瞳にあるのは、もはや狂信を通り越した「恍惚」だった。

俺を甘やかし、俺に尽くし、俺が願うすべてを現実にする。

それが彼女にとっての至上の喜びなのだ。


馬車は、聖教会の本拠地である聖都に向けて走り続ける。

そこには、俺を「本物の神」として迎え入れるための準備が、リーシャの手によって着々と進められているという。


公爵家を追放された無能な兄。

それが、一晩にして「世界の主」へと返り咲こうとしていた。


「お兄様、聖都に着いたら、まずはお風呂に入りましょうね。私が、お兄様の隅々まで、心を込めて清めて差し上げますわ」


リーシャの微笑みはどこまでも優しく、そしてどこまでも重かった。

俺は、自分の中に目覚めゆく強大すぎる力と、隣で愛を囁き続ける狂信的な妹の温度を感じながら、静かに目を閉じた。


これから始まるのは、復讐劇ではない。

神が、自らの庭を愛でるように、世界を再定義していく物語だ。


俺の言葉一つで、世界は変わり、人は跪き、理は崩壊する。

その隣には、俺のためなら世界を滅ぼすことすら厭わない、最強の聖女がいる。


「いいよ、リーシャ。好きにしてくれ」


俺がそう呟くと、妹は幸せそうに喉を鳴らし、俺の腕をさらに強く抱きしめた。

聖都へ向かう道は、月光に照らされてどこまでも白く輝いていた。

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