第9話 「あなたの好きなところ」西野カナ
第9話 「あなたの好きなところ」西野カナ
師走の冷たい風が、赤坂の街を切り裂くように吹き抜けていた。2016年12月30日。新国立劇場の楽屋口には、吐く息の白さと、どこか浮き足立った熱気が混在している。
西野カナは、鏡の前に座っていた。 視界の端で、何層にも重なった淡いピンク色のドレスが、まるで春の訪れを待つ花びらのように微かに揺れている。ヘアメイクが振りかけるスプレーの、甘く、それでいて鼻を突く化学的な香りが鼻腔をくすぐった。
「……緊張してる?」
マネージャーの声に、彼女は鏡越しに微笑んだ。その笑顔は、どこか自分を鼓舞するような強さを含んでいる。
「ううん。ただ、今日はいつもより少し、胸の奥が熱い気がする」
彼女の指先が、膝の上に置かれた歌詞カードをなぞった。 『あなたの好きなところ』。 トランプのカード一枚一枚に、相手の好きなところを書き込む「トランプラブレター」をモチーフにしたこの曲は、単なるラブソングではない。日常の些細な、時に格好悪い瞬間さえも「愛」として肯定する、彼女なりの人間賛歌だった。
舞台裏に移動すると、空気の質感が一変した。 オーケストラのチューニングの音が、重低音の唸りとなって床から足の裏へと伝わってくる。巨大な照明機材が放つ熱気が、冬の寒さに慣れた肌をじりじりと焼く。
「第58回輝く!日本レコード大賞、大賞の発表です」
司会の安住紳一郎アナウンサーの声が、会場を支配する沈黙を切り裂いた。 心臓の鼓動が、耳のすぐそばで鳴っている。ドクン、ドクンと、重く、速いリズム。
「……西野カナさん!」
その瞬間、思考が真っ白に弾けた。 隣に座っていたスタッフの歓喜の叫び、周囲の拍手の嵐。それらが遠い世界の出来事のように聞こえる中で、彼女はゆっくりと立ち上がった。 足を踏み出すたびに、ドレスのチュールが擦れるカサカサという乾いた音が、妙に鮮明に鼓膜に届く。
ステージに上がると、無数のスポットライトが彼女を射抜いた。 眩しさに目を細めると、客席のペンライトが、まるで見知らぬ宇宙の星屑のようにきらめいている。盾を手にしたとき、その金属の冷たさと、ずっしりとした重みが手のひらを通じて脳に「現実」を突きつけた。
「ありがとうございます。本当に、信じられない気持ちでいっぱいです……」
声を震わせながら放った言葉は、マイクを通して会場に反響し、彼女自身の心に跳ね返ってきた。
歌唱の時間。 イントロが流れた瞬間、彼女の中の「アーティスト」が目を覚ます。 マイクのグリップを握りしめる。汗で少し滑るような感覚。
「例えばその、くしゃみをする時の変な顔」
彼女の歌声が響き渡る。 会場には、豪華な装飾が施されているが、彼女の脳裏に見えていたのは、もっと個人的で、温かな景色だった。 日曜日の午後の柔らかな光。洗いたてのタオルの匂い。コーヒーの苦みと、隣で笑う誰かの横顔。
「急に歌い出す、自由すぎるところ」
言葉を紡ぐたび、感情が喉の奥で熱い塊となってせり上がってくる。 それは、デビューしてから積み上げてきた、孤独な夜や、言葉が見つからずに泣いた日々の結晶だった。 「共感」という言葉で語られる彼女の歌は、誰かの日常に寄り添うために、彼女自身が誰よりも日常を、感覚を、研ぎ澄ませてきた証でもあった。
観客席の最前列で、涙を流しながら聴いている女の子が見えた。 彼女の頬を伝う涙の輝き。 「ああ、私の歌は、誰かの体温になっているんだ」 そう確信したとき、西野カナの歌声は、さらに自由な広がりを見せた。
演奏が終わり、深いお辞儀をする。 湧き上がる拍手は、もはや音ではなく、物理的な圧力となって彼女を包み込んだ。 ステージから降りる階段の一歩一歩が、これまでの歩みを確かめる儀式のようだった。
楽屋に戻る通路で、彼女はふと立ち止まった。 窓の外には、冬の夜空が広がっている。 都会の喧騒、車の排気音、そしてどこかから聞こえてくる誰かの笑い声。
「カナやん、おめでとう!」
駆け寄ってきたバンドメンバーたちの、喜びが混じった汗の匂い。ハイタッチをしたときの手のひらの痛み。 彼女は、深く息を吸い込んだ。
「みんな、ありがとう。でも、ここからがまた、始まりだね」
彼女の瞳は、すでに次の「誰かの物語」を探し始めていた。 2016年の終わりに手にした栄光は、彼女にとってのゴールではない。 誰かが誰かを想うときの、あの胸のチクッとする痛みや、鼻の奥がツンとするような愛おしさ。それを、もっともっと丁寧に、もっと鮮やかに、言葉と音に刻み込んでいく。
「さて、次はどんな『好き』を見つけようかな」
独り言のように呟いた彼女の唇は、冬の寒さを忘れたかのように、優しく、そして誇らしげに弧を描いていた。 楽屋のドアを開けると、そこにはまた、新しいメロディが待っている予感がした。
西野カナさんの当時の楽曲制作やパフォーマンスについて、他にも深掘りしたいエピソードはありますか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます