第8話 「インフルエンサー」乃木坂46

第8話 「インフルエンサー」乃木坂46


2017年12月30日。新国立劇場の舞台裏は、異常なほどの酸素濃度と、火花の散るような熱狂の予感に支配されていた。 そこに漂うのは、華やかなステージ衣装から放たれるクリーニングの匂いと、激しいダンスに向けて塗りたくられた制汗剤の冷ややかな香り。そして、何よりも濃密な「闘争心」の匂いだ。


「……ねえ、真夏。心臓の音が、耳元まで聞こえてきそう」


白石麻衣が、隣に立つ秋元真夏の肩を小さく叩いた。白石の指先は、極限まで絞り込まれた肉体のように硬く、そして微かに熱を帯びている。 「麻衣……。大丈夫、私たち、このために地獄みたいな練習を越えてきたんだもん」 秋元が、自分に言い聞かせるように深く頷く。


『インフルエンサー』。 乃木坂46の歴史上、最も速く、最も過酷なダンス。超高速のハンドリフレ、複雑に絡み合うフォーメーション。一度でも気を抜けば、すべてが崩壊する危うさ。2017年という年は、彼女たちが「清楚なお嬢様」という殻を自らぶち破り、剥き出しの表現者として覚醒した一年だった。


「まもなく、大賞の発表です。出演者の皆様、定位置へ」


スタッフの低い声が、ナイフのように静寂を切り裂く。 西野七瀬は、自分の手のひらをじっと見つめていた。少しだけささくれた指先。何度も、何度も、空を斬るように練習したあの動き。 (……届いて。私たちの、全部) 七瀬は胸の内で、誰にともなく祈った。


ステージのモニターに、安住アナウンサーの姿が映る。会場全体の吐息が止まる。 「第59回、輝く!日本レコード大賞。大賞は……」


一秒。 いや、それは永遠にも等しい、真っ白な空白。 自分の心臓の鼓動が、劇場の冷たい床を伝って、脳天まで突き抜けてくる。


「乃木坂46、『インフルエンサー』!」


その瞬間、頭上の照明が爆発したかのように錯覚した。 「……っ!」 白石と西野が、弾かれたように顔を見合わせた。 信じられない、という表情。そして次の瞬間、二人の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


「おめでとう!」 周囲のメンバーたちが、折り重なるように抱きついてくる。 汗の匂い、温かい体温、そして震える肩。 ステージへ続く階段を登る際、白石は自分の足取りが驚くほど軽いことに気づいた。重力さえも、彼女たちの味方をしているかのようだった。


盾を受け取る際、金属の冷たい感触が、掌を通して「現実」を突きつけてきた。 「本当に……本当に、ありがとうございます」 マイクの前に立った白石の声は、涙で何度も途切れた。 「この一年、この曲と一緒に、私たちは成長させてもらいました。センターを共に務めた七瀬や、支えてくれたメンバー、スタッフさん……そして、ファンの皆さんに、この喜びを伝えたいです」


西野は隣で、ただ静かに涙を拭っていた。彼女の控えめな、けれど芯の強い美しさが、スポットライトの下で神々しく輝いている。


「それでは、受賞曲の披露です。乃木坂46、『インフルエンサー』!」


オーケストラの音が止まり、鋭い電子音が空気を引き裂いた。 それまでの感動的な空気は一変し、戦場のような緊張感が戻ってくる。


「ブン、ブン、ブン……」


低く響くビート。 彼女たちの身体が、まるで機械仕掛けの歯車のように正確に、かつ野性的に動き出す。 白石の腕が空を舞い、西野の髪が鋭く翻る。 ステージを舐めるように走る真っ赤なレーザー光線。その熱が、肌をチリチリと焼く。


「――速い。もっと、もっと先へ!」


白石の意識の中で、音が色に変わっていく。 ハンドリフレの応酬。指先が互いの腕をかすめる感触。そのわずかな接触から、メンバーたちの「気合い」が電気のように伝わってくる。 誰一人、遅れない。誰一人、妥協しない。 高速で刻まれるリズムに合わせて、彼女たちの魂が、新国立劇場の天井へと昇り詰めていく。


(ああ、今、私たちは一つになっている)


西野は踊りながら、胸の奥が震えるのを感じていた。 客席から湧き上がる地鳴りのような拍手。 自分たちを照らす光。 そして、隣で共に戦う仲間の、荒い呼吸。 すべてが、最高の「インフルエンサー(影響)」となって、自分を突き動かしている。


曲のクライマックス。 白石と西野が中央で交差する。 一瞬だけ交わった視線。そこには、言葉以上の絆があった。 (麻衣、私たち、勝ったんだね) (そうだよ、七瀬。ここが、私たちの頂点だよ)


最後のポーズが決まった瞬間。 静寂を置き去りにしたまま、狂熱のような歓声が降り注いだ。 舞い落ちる銀色の紙吹雪が、彼女たちの汗ばんだ肌に張り付く。それは、神様がくれた勲章のように見えた。


ステージを降り、舞台裏の暗がりに戻ったとき。 「……終わった」 誰かが力なく呟いた。 白石は、震える手で七瀬の手を握りしめた。 「七瀬、最高だったよ」 「麻衣も……最高だった」


2017年、12月30日。 乃木坂46という少女たちが、ただの「アイドル」を超え、一人の「アーティスト」として日本音楽史の頂点に立った夜。 彼女たちが残したあの強烈な残像は、冬の冷たい空気の中に、いつまでも、いつまでも熱く刻まれていた。


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