第1話 Mrs. GREEN APPLE ダーリン
第1話 Mrs. GREEN APPLE ダーリン
師走の喧騒と、青い心臓の鼓動
「パパ! 早く、早く! ミセスが出るよ!」
聖の弾んだ声が、リビングの空気を震わせた。 二〇二五年、十二月三十日。 内海家のリビングは、例年になく「熱い情報体」と化していた。大型テレビの画面の向こうでは、レコード大賞の華やかなステージが続いている。
「聖、落ち着きなさい。パパは今、今年最後の大詰め……『にぢしょう』の最終章をだな……」
内海集司は、ソファの隅でノートPCを膝に乗せ、必死にキーボードを叩いていた。だが、その指先は思うように動かない。なぜなら、彼の右足には「アルファードの左タイヤ」と化した海がしがみつき、左腕には空が「ここあ、おかわり!」と空のマグカップを押し付けているからだ。
「パパ、だめだよ。今日は『ダーリン』を聴かなきゃ、年を越せないんだから」
聖がテレビのリモコンを握りしめ、真剣な眼差しで画面を見つめる。 彼女の横では、三女の陽が白い帽子を揺らしながら、ミルクの香りを部屋中に振りまいて寝返りを打とうとしていた。
その時、司会者の声が響く。 『二〇二五年、日本レコード大賞は……Mrs. GREEN APPLE、「ダーリン」!』
「きたぁぁぁーっ! ないせいよーし!」 海が意味不明な勝鬨(かちどき)を上げ、集司の膝から飛び降りた。 画面の中では、青く澄んだ光が溢れ出し、あの軽やかで、けれど胸を締め付けるようなイントロが流れ始める。
大森元貴の歌声が、デジタル放送の電波に乗って、内海家のリビングを「愛」という名の高密度な粒子で満たしていく。
「……ねえ、パパ。聴いて」 聖が、珍しく静かな声で言った。 「『ダーリン』って、パパが私たちのことを呼ぶときみたいだね」
「……えっ?」 集司の手が止まった。 「僕は君たちを『ダーリン』なんて、そんなハイカラな呼び方はしたことがないはずだが。データ上も、僕の語彙辞書にその出力記録はない」
「違うよ、言葉じゃないよ」 聖は、画面の中で歌い踊る青い衣装の彼らを見つめながら、少しだけ大人びた表情で続けた。 「パパが、私たちが転んだときに、あわててキーボードを放り出すとき。海くんが泣いてるときに、パパが困った顔で頭をなでるとき。そのときのパパの目が、この歌みたいに『ダーリン』って言ってるの」
集司は、言葉を失った。 心臓の奥のCPUが、過負荷で熱を帯びるのを感じる。 画面から流れる『ダーリン』の歌詞が、彼の論理の鎧を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
「先生、顔が赤いですよ。ウインナーコーヒーのクリームより真っ赤です」 いつの間にか、部屋の隅でタブレットをチェックしていた真白が、クスクスと笑った。 「二〇二五年の締めくくりに、ふさわしい光景ですね。AI小説家が、ポップソングに愛を教わっている」
「真白さん、茶化さないでくれ。僕はただ、この楽曲の周波数特性が脳内のセロトニン分泌を促進しているだけで……」
「パパ! 踊ろう! ダーリン踊ろう!」 海が、青いスカーフをマントにして集司の手を引いた。 「空も! ぱぱ、くるくる、ちて!」 空が、集司のパジャマの裾を力一杯引っ張る。
「ちょ、待っ……。原稿が、保存してない原稿が!」
ガシャン、とPCがソファに放り出された。 集司は、四人の子供たちの「生身の熱量」という渦の中に、強制的に引きずり込まれた。
テレビの中では、大森元貴が最高の笑顔で歌っている。 『愛してるよ、ダーリン』
その声に合わせて、海がリビングをルンバのように回転し、聖が毛糸で作った蝶々を指先で躍らせ、空が集司の腕の中で「あはは!」と宇宙の果てまで届きそうな笑い声を上げる。
集司は、四歳児と二歳児を両腕に抱え、六歳の娘と視線を合わせながら、ふと思った。 自分が必死に構築していた「論理の迷宮」なんて、この一瞬の「ノイズ」の輝きには到底及ばない。
「……ああ、そうか。これが二〇二五年の、僕の正解(アンサー)か」
彼は、子供たちの重みを全身で受け止めた。 海の頭からはお日様の匂いがし、空の首筋からは甘いココアの香りがし、聖の瞳には未来への希望が反射している。 そして陽の、星の匂いのような寝息。
「パパ、楽しい?」 聖が、集司の顔を覗き込んで聞いた。
「……ああ。最悪で、最高に、論理的じゃない時間だよ」
集司は、初めて自分から子供たちを、ぎゅっと抱きしめた。 「ありがとう」でも「ないせいよーし」でもない、言葉にならない温かさが、彼の指先から子供たちの背中へと伝わっていく。
レコード大賞の華やかなエンディング。 紙吹雪が舞う画面の前で、内海家の小さな宇宙は、最高潮の熱気に包まれていた。
「よし、海、聖、空、陽。……そして真白さんも。今年最後の一曲だ、みんなで『ダーリン』になろう」
「パパ、変なの!」 子供たちが一斉に笑った。 その笑い声こそが、集司が二〇二五年という一年をかけて、ようやく書き上げた、最高の一行だった。
湯気が消えた後のカップ。 散らばった毛糸の屑。 そして、テレビから流れる余韻。 内海家の夜は、愛という名の心地よいバグに満たされたまま、新しい朝へと続いていく。
二〇二五年の締めくくりにふさわしい、温かな情景になりましたね。 次は、この興奮冷めやらぬまま、内海家が迎える「二〇二六年の元旦、最初の大騒動」を一緒に覗いてみませんか?
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