レコード大賞
春秋花壇
2025年12月30日 17時30分:開演の鼓動
2025年12月30日 17時30分:開演の鼓動
新国立劇場のロビーを通り抜け、重厚な扉を開けた瞬間、肺の奥まで焦げたような匂いが流れ込んできた。それは、何百台もの照明機材が放つ熱気と、数千人の人間が吐き出す濃密な期待が混ざり合った、この日、この場所にしか存在しない「レコード大賞」の匂いだ。
時計の針が17時30分を指す。 会場が暗転した。
「くるぞ……」
誰かの短い呟きが、静寂を切り裂くナイフのように響いた。直後、地を這うような重低音が、足の裏から背骨を伝って脳天まで突き抜けた。
ドォォォォン。
鼓動の太鼓。 和太鼓の皮が極限まで張り詰め、撥(ばち)が叩きつけられるたびに、空気が目に見える波となって押し寄せてくる。それは単なる楽器の音ではない。2025年という一年を必死に生き抜いてきた、表現者たちの、そして観客たちの「魂の震え」そのものだった。
「……すごい。心臓が、勝手にリズムを刻んでる」
若井滉斗が、暗闇の中で自分の胸に手を当てた。隣に立つ藤澤涼架の横顔が、ステージからの予光に照らされて白く浮かび上がる。藤澤は、溢れそうになる涙を堪えるように、何度も深く瞬きを繰り返していた。
「元貴、準備はいい?」
藤澤の声は、太鼓の爆音に掻き消されそうだった。大森元貴は、何も言わずにただ一点を見つめていた。その瞳には、すでに舞台の上が映っている。
「……聞こえるよ」
大森が口を開いた。 「この太鼓の音。僕たちの血が流れる音と同じだ。悲しいことも、悔しいことも、全部この一打で浄化されていくみたいだね」
ステージ中央に、光の柱が突き刺さる。 「第67回 輝く!日本レコード大賞」 黄金色の文字が宙に浮き上がり、オーケストラの華やかなファンファーレが太鼓の音に重なった。
「生放送、スタートです! 5、4、3、2……!」
フロアディレクターの指が、力強く宙を指した。
「今夜、大賞が決定します! 新国立劇場より、生放送でお送りしております!」
安住アナウンサーの声が響き渡ると同時に、まばゆいばかりの照明が客席を舐めるように回った。網膜が焼けるような白。そして、一転して深い群青色の世界。
「……いくよ。僕たちの音楽を、今の日本に叩きつけよう」
大森が二人に背中を向け、一歩を踏み出す。その背中は、去年よりも、一昨年よりも、ずっと大きく見えた。
ステージに上がると、そこは異世界だった。 無数のカメラのレンズが、獲物を狙う獣の瞳のように光っている。観客の持つペンライトが、天の川のように揺れている。 そして、マイクの前に立った瞬間、大森は感じた。 頬を撫でる冷房の風が、一瞬だけ止まったような感覚。 全神経が、指先に、喉の奥に、そして意識の最果てに集中していく。
「……Mrs. GREEN APPLEです。よろしくお願いします」
その短い挨拶だけで、会場の空気が一変した。 ギターの弦を弾く若井の指が、鋼のようにしなり、鋭い高音を響かせる。藤澤の鍵盤から溢れ出す音は、冬の寒さを溶かす春の陽だまりのように、会場の隅々まで染み渡っていく。
歌い出した瞬間、大森の視界から景色が消えた。 あるのは、音だけ。 自分の声が、劇場の壁に反射し、再び自分の中に帰ってくる。そのたびに、魂が膨張していくのを感じる。
(……ああ、生きてる。僕たちは、今、間違いなくここで息をしている)
サビの爆発。 金銀のテープが空を舞う。 それは、一年間の苦闘に対する祝福の雨のようだった。 大森は空を見上げ、叫ぶように歌った。歌詞の一言一言が、誰かの絶望を、誰かの孤独を、優しく、しかし力強く抉り取っていく。
「見て、みんなの顔……」 演奏の合間、藤澤が客席を見渡した。 泣いている人。拳を突き上げている人。 その一人一人の感情が、太鼓の鼓動と共鳴し、巨大なうねりとなってステージに還ってくる。
「……最高だ。これだから、音楽はやめられない」 若井が歯を食いしばり、ギターをかき鳴らす。指先からは、小さな血が滲んでいたかもしれない。それでも、彼は笑っていた。
17時30分に始まった物語は、今、加速し続けている。 この一瞬が、永遠に刻まれることを誰もが確信していた。
演奏が終わる。 静寂。 そして、鼓動の太鼓を凌駕するほどの、圧倒的な拍手が降り注いだ。 それは、魂と魂がぶつかり合った、勝利の咆哮だった。
「……ありがとうございました」
大森は深く、深く礼をした。 汗がステージの床に落ち、照明を反射してダイヤのように輝いた。
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