第2話 「ライラック」Mrs. GREEN APPLE
第2話 「ライラック」Mrs. GREEN APPLE
2024年12月30日。新国立劇場の舞台裏は、冬の乾燥した空気と、数えきれないほどの機材が発する熱気が混ざり合い、独特の匂いがしていた。
「……ねえ、聞こえる? 拍手の音」
藤澤涼架が、衣装の袖を整えながら小さく呟いた。その指先は、いつもより少しだけ白く、小刻みに震えているように見えた。隣で若井滉斗が、愛用のギターのネックをそっと撫でる。 「聞こえるよ。地鳴りみたいだ。……いよいよだね、元貴」
二人の視線の先に、大森元貴が立っていた。彼は、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで冷たい空気が入り込み、心臓の鼓動が耳の奥でリズムを刻む。2024年という、激動の一年の最後。自分たちが生み出した「ライラック」という曲が、今、一つの結実を迎えようとしていた。
ステージへ続くスロープ。一歩踏み出すたびに、床の冷たさが靴の裏を通して伝わってくる。
「第66回輝く!日本レコード大賞。大賞は……」
安住アナウンサーの声が、会場の静寂を切り裂く。数秒の空白。それは、永遠にも感じられるほど濃密な時間だった。
「Mrs. GREEN APPLE、『ライラック』!」
その瞬間、爆発するような拍手と歓声が肌を叩いた。まばゆいスポットライトの群れが視界を白く染め上げる。 「うわ……っ」 誰かの声が漏れた。若井が顔を覆い、藤澤が天を仰ぐ。大森は、一瞬だけ立ち尽くした。視線の先には、泣いているファンや、立ち上がって称賛を送る関係者たちの姿があった。
盾を受け取る手は、驚くほど重かった。冷たくて、硬くて、でも、この一年間に流した汗や涙がすべて詰まっているような、熱い重みだ。
「……ありがとうございます」 マイクの前に立った大森の声は、少しだけ掠れていた。 「今年は、本当に……本当にたくさんのことを勉強させていただいた年でした。自分たちが何のために音楽を鳴らしているのか。それを、何度も何度も問い直した一年でした」
言葉を紡ぐほどに、視界が滲んでいく。頬を伝う涙が、ステージの照明を反射してキラリと光った。 「この『ライラック』という曲は、青春の眩しさだけじゃなく、その裏にある痛みや、消えない傷跡も一緒に抱えていこうっていう曲です。だから……今、何かを失って立ち止まっている人にも、この歌が届いていたら嬉しいです」
受賞パフォーマンスの合図が鳴る。 ドラムのカウントが空気を震わせた。ギターの歪んだ音が、心臓の奥を直接かき乱す。
「過ぎてゆくんだ今日も! この寿命の通りに!」
大森の歌声が、劇場の天井を突き抜けていく。それは叫びのようであり、祈りのようでもあった。 ライラックの花言葉は「思い出」「友情」。そして紫のライラックには「初恋」という意味もある。けれど、今の彼らが鳴らしているのは、もっと泥臭くて、青くさくて、それでいて誰よりも輝いている「今」そのものだった。
「元貴、最高だ!」 若井が演奏しながら叫ぶ。藤澤のキーボードが、春の嵐のような旋律を奏で、会場を優しく包み込む。
サビに差し掛かると、大森は客席の奥まで視線を飛ばした。 「……あの頃の青を、覚えていようぜ!」
歌詞の一言一言が、かつての自分たちに、そして今を生きるすべての人に向けられた手紙のように響く。 舞台の上で、三人は笑っていた。涙でぐしゃぐしゃの顔をしながら、最高に不器用で、最高に美しい笑顔で。
演奏が終わった瞬間。 静寂。 そして、さっきよりもずっと大きな、割れんばかりの喝采が降り注いだ。
ステージを降りる際、大森はふと立ち止まり、舞台の床をそっと撫でた。 「……生きててよかったな」 その呟きは、誰にも聞こえないほど小さかったけれど、隣にいた二人は確かに頷いた。
楽屋へと続く廊下。少しずつ現実感が戻ってくる。 「連覇だよ、俺たち。……すごいことだよね」 藤澤が目を赤くしながら笑う。 「ああ。でも、明日からもまた曲を作るんだろ?」 若井が茶化すように言うと、大森は深く、深く頷いた。
「当たり前じゃん。だって、まだ歌いたいことが山ほどあるんだから」
冬の夜空に、見えないライラックの花が咲き乱れているような気がした。 苦味が重なっても、傷跡が痛んでも。 2024年の最後の日、彼らは自分たちの「青」を、何よりも誇らしく掲げていた。
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