第6話 「炎」LiSA

第6話 「炎」LiSA


2020年12月30日。世界が、かつてない静寂と分断に包まれていたあの年の暮れ。 新国立劇場の舞台裏は、重苦しいまでの緊張感と、微かな消毒液の匂いが漂っていた。誰もがマスクを着用し、表情の半分を隠している。けれど、その奥にある瞳だけは、異常なほどに熱く燃えていた。


「……手が、冷たい」


LiSAは、真っ赤なドレスの裾を強く握りしめた。指先は氷のように冷え切り、感覚が麻痺している。何度も何度も、自分の手のひらに温かい吐息を吹きかけた。 視線の先では、スタッフたちが慌ただしく、かつ慎重に機材を運んでいる。機材がぶつかり合う金属音、誰かの指示を仰ぐ低い声。すべてが水の中にいるように、遠く、歪んで聞こえた。


「LiSA、大丈夫だよ」


誰かが背中をさすってくれたような気がした。その温もりだけが、現実と自分を繋ぎ止める細い糸だった。 2020年。空前のブームとなった『鬼滅の刃』とともに、彼女の歌声は日本中の街角で、リビングで、そして人々の孤独な心の中で鳴り響いた。「炎」――その旋律は、あまりにも多くの別れと、それでも進まなければならない人々の祈りそのものだった。


「第62回輝く!日本レコード大賞。大賞は……」


安住アナウンサーの声が、会場の空気を一瞬で真空に変えた。 鼓動が、喉の奥までせり上がってくる。ドクン、ドクンと、耳の奥で太鼓が鳴り響く。 この一年、どれだけの涙を見たか。どれだけの不安を抱えてマイクの前に立ったか。


「LiSA、『炎』!」


名前を呼ばれた瞬間、世界がスローモーションになった。 「……っ」 声が出なかった。膝の力が抜け、崩れ落ちそうになるのを、精神の力だけで踏みとどまらせた。 まばゆいスポットライトの群れが、彼女を包み込む。それは、まるで天から降り注ぐ光の柱のようだった。


ステージへと続く階段。一歩踏み出すたびに、床の冷たさがヒールを通して伝わってくる。 「ありがとうございます……」 マイクの前に立ったとき、視界はすでに、涙の膜で歪んでいた。客席には、間隔を空けて座る人々の姿があった。声は出せなくても、彼らの放つ熱い「想い」が、肌をチリチリと焼くように伝わってくる。


「……本当は、今日ここに立てていることが、奇跡だと思っています」 彼女の声は、震えていた。 「信じてついてきてくれたみんな、そして、この曲を大切にしてくれたすべての人に、心から感謝します。悲しいことがあっても、私たちは、前へ進まなければなりません。その一歩に、この歌が寄り添えていたら、幸せです」


盾の重み。冷たい金属の感触。それは、この一年に流された膨大な涙の結晶のように思えた。


オーケストラのイントロが始まった。 ピアノの静かな旋律が、夜の静寂を切り裂いていく。 LiSAは深く、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、意識が研ぎ澄まされる。


「さよなら、ありがとう、声の限り……」


歌い出した瞬間、劇場の空気が変わった。 彼女の歌声は、繊細なガラス細工のように儚く、同時に鋼のように強く、真っ直ぐに突き抜けていく。 サビに差し掛かると、ステージの左右から本物の炎が噴き上がった。 「――熱い」 頬を掠める熱風。パチパチと爆ぜる音。その熱さが、彼女の魂に火をつけた。


「僕たちは燃え盛る旅の途中で出会い……」


歌いながら、彼女は見ていた。 会えなくなった大切な人を想う人。失った日常を嘆く人。 そんなすべての人々の「痛み」を、彼女は自分の喉を通して、光へと変えていく。 声が枯れてもいい。魂が削れてもいい。今、この瞬間にすべてを捧げると決めた表現者の凄みが、画面を越えて日本中に伝わっていく。


演奏のクライマックス。 彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。 それは悲しみの涙ではなく、やり遂げたという誇りと、明日への希望が混ざり合った、純粋な結晶だった。


最後のピアノの音が消えたとき。 劇場は、震えるような沈黙に包まれた。 そして、数秒の後。 声にならない、地鳴りのような拍手が巻き起こった。 人々は立ち上がり、手のひらが赤くなるほどに叩き続けた。


「ありがとうございました!」


LiSAは、ステージの床に頭がつくほど深く、長く一礼した。 顔を上げたとき、その表情には、すべてを出し切った者だけが持つ、気高く、美しい笑顔があった。


ステージ裏に戻ったとき、スタッフたちが涙を流しながら拍手で迎えてくれた。 「……よかった。本当に、届いたんだ」 彼女は小さく呟き、自分の肩を抱いた。 外は冬の冷たい風が吹いている。けれど、彼女の心の中には、決して消えることのない、温かく力強い「炎」が灯り続けていた。


2020年という特別な年の終わり。 彼女は歌で、凍てついた日本を温め、そして新しい明日へと手を引いたのだ。


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