第5話 「CITRUS」Da-iCE
第5話 「CITRUS」Da-iCE
2021年12月30日。新国立劇場の舞台袖は、刺すような緊張感と、どこか煤けたような鉄の匂いが立ち込めていた。
「……手が、冷てぇな」
大野雄大が、自身の大きな手のひらを握り込み、ふっと白い息を吐き出した。隣に立つ花村想太が、自分の喉元に軽く触れる。その指先は、まるで繊細なガラス細工を扱うように慎重だった。 「雄大くん、聞こえる? この音」 想太の視線の先、緞帳の向こう側から、オーケストラのチューニングの音が低く地鳴りのように響いてくる。
「ああ。……来るぞ。俺たちが、6枚目のシングルで辿り着いた、一番高い場所だ」
工藤大輝、岩岡徹、和田颯の三人が、二人の背中に静かに手を置いた。言葉はいらない。結成から10年。ショッピングモールの小さなステージで、数人のお客さんを相手に必死に踊っていたあの頃の土の匂い、流した汗のしょっぱさ、報われない夜の静寂。そのすべてが、今、この瞬間を形成する細胞の一部になっている。
「第63回輝く!日本レコード大賞。大賞は……」
安住アナウンサーの、一音一音を噛み締めるような声がスピーカーから漏れてくる。 時間が、止まった。 視界が狭まり、心臓の音だけが「ドクン、ドクン」と、耳の奥を太鼓のように叩く。誰かの祈るような溜息が、冬の乾燥した空気に溶けていく。
「Da-iCE、『CITRUS』!」
爆発。 光と音、そして感情の爆発だった。 「えっ……?」 想太の声が、驚きで裏返る。大輝と徹が顔を見合わせ、颯が信じられないといった様子で口元を覆う。雄大は、ただ一瞬、天を仰いで目を閉じた。
ステージへと続く階段は、これまでの10年間で一番高く、同時に一番誇らしかった。一歩踏み出すたびに、革靴の踵が床を叩く。その硬い音が、現実感を呼び覚ましていく。
盾を受け取った瞬間、腕にずしりと重みが走った。 「……ありがとうございます」 マイクの前に立った想太の声が、震えている。 「僕たちは……本当に、遠回りをしてきました。何度も心が折れそうになって、そのたびにメンバーやスタッフ、そしてファンの皆さんに、繋ぎ止めてもらいました」
頬を伝う涙が、ステージの強力なスポットライトを浴びて、シトラスの果汁のように鋭く、眩しく光った。 「この曲は、積み上げてきた想いを、離さないように握りしめる歌です。今、何かを諦めようとしている人に、届いてほしい」
ドラムのカウントが、静寂を切り裂く。 ピアノの旋律が流れ出し、会場の空気が一気に「CITRUS」の色に染まった。
「離さないって決めたから!」
想太のハイトーンが、劇場の天井を突き抜け、夜空へ解き放たれる。その声は、甘いシトラスの香りの奥にある、鋭い苦味を孕んでいた。 雄大の太く温かい歌声が、それを支えるように重なる。 二人の声が重なった瞬間、目に見えない火花が散るような、強烈なエネルギーが客席へと押し寄せた。
パフォーマーの三人が、魂を削り出すように舞う。 指先一つ、視線一つに、これまで歩んできた泥臭い軌跡が宿っている。 激しく動くたびに、衣装の擦れる音と、飛び散る汗の匂い。 それは、どんな香水よりも美しく、生命力に満ちていた。
「……最高の景色だな」 間奏中、大輝が隣の徹に笑いかけた。 「ああ。10年かかったけど、ここに来れてよかった」 徹の瞳も、潤んでいる。 最年少の颯は、何も言わずにただ、全身で音楽を表現していた。そのキレのある動きが、歓喜を象徴している。
演奏が終わった瞬間。 一瞬の静寂の後、劇場全体を揺らすような、割れんばかりの拍手が降り注いだ。 それは、降り積もる雪のように優しく、同時に戦士を讃える凱歌のように力強かった。
ステージを降り、楽屋へと戻る廊下。 「……終わっちゃったね」 想太が、少しだけ寂しそうに笑った。 「バカ言え。ここからがスタートだろ」 雄大が、想太の肩をガシッと抱き寄せる。
2021年の最後の日。 彼らが鳴らしたシトラスの調べは、決して消えることのない、確かな「証」として、人々の記憶に刻み込まれた。 その香りは、苦くて、酸っぱくて。 でも、世界で一番、甘美な勝利の味だった。
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