第3話 「ケセラセラ」Mrs. GREEN APPLE

第3話 「ケセラセラ」Mrs. GREEN APPLE


2023年12月30日、東京。新国立劇場の厳かな空気が、肌をぴりぴりと刺激した。緞帳の向こうからは、ざわめきと期待が入り混じった熱気が、波のように押し寄せてくる。舞台袖の薄暗がりで、Mrs. GREEN APPLEのメンバーは、それぞれの時間を過ごしていた。


「……ねえ、緊張してる?」


藤澤涼架が、隣に立つ若井滉斗の腕を軽く叩いた。若井は、愛用のギターの弦をそっと撫でながら、ふっと笑みをこぼす。 「してない、って言ったら嘘になるかな。でも、それよりも……なんか、不思議な感じだ」 彼の視線は、ずっと舞台の奥、スポットライトの当たる場所に向けられていた。


大森元貴は、少し離れた場所で、目を閉じていた。イヤモニから微かに漏れる自分の心臓の音が、まるで世界の中心で響いているかのように錯覚させる。手のひらには、じんわりと汗が滲んでいた。今日まで、この「ケセラセラ」という曲に込めてきたすべての想いが、今、ここへ集約されようとしている。


「ケセラセラ、か……」 大森が、小さく呟いた。彼の脳裏には、制作中の苦悩、メンバーとの衝突、そして、支えてくれたすべての人々の笑顔が、走馬灯のように駆け巡っていた。


「まもなく、大賞発表でございます!」


スタッフの声が響き、張り詰めた空気が一気に収縮する。三人の目が、ステージのモニターに釘付けになった。


安住紳一郎アナウンサーの声が、会場中に響き渡る。 「第65回輝く!日本レコード大賞。大賞は……」


静寂。 その一瞬が、数時間、いや、数年にも感じられた。心臓が、喉の奥で激しく鳴っている。 若井が、ごくりと唾を飲み込んだ。藤澤は、祈るように両手をぎゅっと握りしめている。


「Mrs. GREEN APPLE、『ケセラセラ』!」


その瞬間、体中の毛穴という毛穴が開き、全身に鳥肌が走った。 「……っ!」 大森は、思わず目を見開いた。耳をつんざくような大歓声と、まばゆいフラッシュの光が、彼らの視界を白く染め上げる。


「やったーっ!」 藤澤が、大きく跳び上がった。若井は、信じられない、という表情で、大森の肩を強く叩く。 「元貴、やったぞ! 俺たち、やったんだ!」


ステージへ上がる階段。一歩一歩が、重く、そして確かな実感に満ちていた。 盾を受け取る手が、微かに震える。冷たい金属の感触が、この現実を深く刻みつけていく。


マイクの前に立つ。無数の視線が、自分たちに集中しているのがわかる。喉の奥が熱くなり、言葉が詰まりそうになる。 「……本当に、ありがとうございます」 大森の声は、震えていた。客席には、涙を流しているファンや、温かい拍手を送る関係者の顔が見える。


「この『ケセラセラ』という曲は、僕たちが、この不確かな時代を生きる中で、どうすれば前向きに、そして自分らしくいられるかを問いかけて、生まれた曲です」


瞳の奥が熱くなり、視界が滲む。頬を伝う温かい雫が、マイクの冷たさと対照的だった。 「色々なことがあっても、きっとどうにかなる。未来は、自分次第で変えられる。そんなメッセージを込めて、今日まで歌ってきました。この曲が、誰かの心に寄り添い、少しでも希望を与えられたのなら、これ以上の喜びはありません」


彼の言葉に、客席から再び大きな拍手が沸き起こる。


「それでは、受賞曲をお聞きください。Mrs. GREEN APPLEで、『ケセラセラ』!」


ドラムの軽快なリズムが、会場の空気を一変させた。キーボードの煌びやかな音色が、星屑のように降り注ぐ。


「ねえ、人生って、いつもいつも、思うようにいかなくってさ」


大森の歌声が、やさしく、そして力強く響き渡る。それは、まるで旧友に語りかけるような、温かみのある声だった。 若井のギターが、伸びやかで心地よいメロディを奏でる。藤澤のキーボードが、その歌声に深みと色彩を与えていく。


サビに差し掛かると、大森は目を閉じ、全身で歌い上げた。 「ケセラセラなるようになる! 今を大切に!」


その歌声は、会場の隅々まで染み渡り、聴く者の心を揺さぶる。 舞台上の三人は、演奏しながらも、互いに視線を交わし、笑顔を向けていた。そこには、これまで乗り越えてきたすべての困難と、共に歩んできた絆が、確かに存在していた。


曲の終わり。アウトロが静かにフェードアウトしていく。 「ありがとうございました!」 大森が、深く頭を下げる。客席からは、惜しみない拍手と歓声が、再び嵐のように押し寄せた。


ステージを降り、楽屋へ戻る廊下。 「はぁ……終わった……」 藤澤が、大きく息を吐き出す。その表情は、達成感と安堵で満たされていた。 「なんか、夢みたいだな」 若井が、呆然とした表情で呟く。


大森は、ゆっくりと歩きながら、ふと立ち止まった。振り返り、まだ熱気を帯びたステージをじっと見つめる。 「……僕たちの音楽が、誰かの背中を押せたなら、本当に嬉しいな」 彼の声は、どこか遠くを見ているようだった。


「当たり前だろ! 最高の曲だよ、元貴」 若井が、大森の肩を力強く抱いた。 藤澤も、満面の笑みで頷く。


冬の夜空の下、三人の心には、温かい光が灯っていた。 「ケセラセラ」。その言葉が持つ意味を、彼らはこの一年、そしてこの夜に、全身で体現してみせたのだ。 どんな困難があろうと、未来はきっと、明るい。 彼らの音楽が、そう語りかけているようだった。


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