第三話 視てはいけないもの

伊藤春樹の失踪を受けて、穂坂署の地域課にはパトロールの強化の指示が下された。

彼が失踪した日、隣の学区――岡平小学校おかひらしょうがっこうでも男子生徒が一人失踪したと署に連絡があったそうだ。


――失踪者は、これで既に四名。

未成年者の連続失踪ということもあり、刑事課や蓮原県警はすはらけんけいの捜査一課まで加わることになったと聞いた。


「それじゃあ、パトロール行ってきます」

「はーい。気を付けて~。俺もぼちぼち行ってくるわ」


ひらひらと手を振る佐伯先輩に見送られながら、俺は外に出た。

空は相変わらずの曇天で、梅雨の湿気が肌を舐める。


時刻は昼過ぎ。もう少し時間が経てば、周囲の小学校の下校時間になる。

スクールゾーンに指定されている地区を重点的に見回りながら、俺は失踪した伊藤春樹とのやりとりを思い出す。


俺のような新人が、どうこうできる事件ではない。

――そんなことは分かっている。

それでも関わってしまったからには、何か自分にできることがあったのではないかと、自責の念が止めどなく溢れてくる。


失踪者はいずれも男子生徒。

年齢は、七歳から八歳前後に偏っている。

偶然――というよりは、対象を絞っているような、どこか意図的な犯行のようにも思えた。無論、これはあくまで状況判断であって、断定することはできない。


「……はあ」


自分が思ったよりも大きな溜息が零れる。

警察官になったからには、こういった事件に当たることはこれから数多くあるのだろう。そんな事件の一つ一つに感傷的になっては身が持たない。これは今朝、橋部さんに言われた言葉だ。


県警の一課も動き出したのだから、きっと直ぐに解決に向かってくれる。今はそう思うしかない。


時計を確認し、俺は穂坂小学校の方向へと足を向ける。

校門の前には、既に数人の保護者が集まり始めていた。腕章を付けた地域ボランティアの姿も見える。

これだけ失踪者が増えれば、学校側も対応を考える。穂坂小学校を含め、近隣の小学校はどこも保護者やボランティアによる集団下校が行われることになっていた。


ほどなくして、校舎の奥から子どもたちが列になって出てきた。

保護者に手を引かれながら歩く子。

友人同士で固まって、周囲を気にしながら歩く子。

いつもより人数の多い大人たちに囲まれて、下校の列はゆっくりと進んでいく。


何も起きない。

起きてはいけない。


一通り見届けてから、俺は校門を離れた。

交番へ戻るには、まだ少し時間がある。最後にもう一度周辺を見回ってから戻ることにしよう。


穂坂小学校裏の遊水地を抜けて、住宅地に入る。

視界に入った公園は、昼間だというのに人がおらず閑散としていた。そのまま歩みを進めて暫くすると、住宅地が途切れ、目の前にサッカーコートが現れる。


そう言えば、失踪した松本颯も伊藤春樹も、サッカーを習っていたと言っていたっけ。

松本颯は、ここから自宅へ向かう途中で行方を眩ませた。


俺は彼らの歩いたであろう道を辿る。

背の低いフェンスの向こうには、手入れの行き届いた芝生と、少し錆びたゴールポスト。

彼らはきっと、他愛もない話をしながら、この道を通ったのだろう。

練習のこと。

次の試合のこと。

家に帰ったら何を食べるか、そんな話を。


――どうしても感傷的になっちゃうなあ。


内心で苦笑いしながら、俺はフェンス沿いの道を抜け、住宅地へ続く通りに差し掛かった。

その時だった。


ふと、空気が変わった。


雨上がりの湿った匂いとは違う。

鼻の奥に絡みつくような、酷く甘い香り。

周囲を見回すも、匂いを放つようなものは見受けられない。では、どこからこの異臭が漂ってくるのか。


頭の奥がじんと痺れるような感覚に襲われる。


――何だ、これ。


何かの化学ガスが漏れ出して……なんてことが起きていたら、一大事だ。

手で鼻を覆いながらそんなことを考えていると、通りの奥に、人影が見えた。


背丈は、成人女性ほど。

薄汚れた白と緋色の――巫女装束に似た服装をしていた。裾は地面を引き摺り、所々が破れていてみすぼらしい。

この周囲に神社などはなかった筈だが……。


「…………」


そこまで考えてから、俺は漸くその人影の違和感に気が付く。


――頭が、ない。


首から上にある筈のものが、そこにはなかった。

人の――顔を含めた頭部の代わりに、大きく咲いた白い花が据えられていた。

白い六枚の花弁に、中央には黄色い何かが付き出している。


風はない。

それなのに、花弁だけが、微かに揺れている。

鼻を突くこの香りは、間違いなく、あの花から漂ってきていた。


あれは人ではない。人が関わってはいけない。

――“あれは、視てはいけないものだ”。


俺は咄嗟に視線を地面へと逸らす。

暑さの所為ではない冷たい汗が、背筋を伝っていく。俺はただ地面を見詰めたまま、その場から動けずにいた。


そうしてどれくらいの時間が経ったのか分からない。

漂っていた甘い香りが跡形もなく消えていることに気が付いて、漸く俺は緩慢な動きで視線を上げた。


「…………」


あの異形の人影は消えている。

恐る恐る周囲を見回すも、いつもと変わらぬ街並みが続くだけだった。


「……花のオバケ……」


伊藤春樹らの証言に出てきた言葉――それが口を突いて出た。

生安への報告書に記載はしたものの、案の定、上からはくだらない情報を載せるなと叱責された。しかしながら、俺が今目にしたものは――高坂蓮が追いかけられたという、”花のオバケ”なのではないか。

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