第二章 断罪の海

 海から吹きつける風は、カミソリのように鋭く、頬を削ぐ。


 夜の山下公園は、鉛色の闇と対岸の工業地帯のオレンジ色の照明が混ざり合い、粘りつくような重たい湿気を孕(はら)んでいた。


​ 高行は、係留された氷川丸の巨大な錨(いかり)の鎖のそばに立ち、黒く波打つ海面を見ていた。


 波がコンクリートの岸壁を叩く音が、規則正しく響く。


 そのすぐ横には、かつて外洋を渡った巨大な船が、今は鉄の塊となって静かに眠っている。動かない船。それはまるで、十年前に時を止めてしまった彼自身の似姿のようだった。


​ 十年前、ここでプロポーズをするはずだった。


 その代わりに彼は、ここへ来る前のカフェで彼女を突き放した。「もう好きじゃない」「仕事が恋人だ」。そんな、三流ドラマのような台詞を並べて。


​ 足音がした。


 ヒールの音が、凍てついた石畳を叩く。乾いた、リズムの正確な音。


 高行はゆっくりと振り返る。


​ 逆光の中に、細身のシルエットが立っていた。


 背後にある氷川丸の黒い船体に溶け込むような、喪服を思わせるコート。


 長い髪が風に煽られ、生き物のように舞っている。


 一瞬、心臓が早鐘を打った。美咲か。


 だが、近づくにつれて、その顔立ちの輪郭が露わになる。美咲によく似ているが、その瞳には彼女のような柔らかな陽だまりはない。そこにあるのは、研ぎ澄まされた氷柱のような冷徹な光だった。


​「……おかえりなさい。生きて帰ってきたのね」


 声もまた、記憶の中の美咲より低く、ハスキーだった。


「理恵(りえ)ちゃんか」


 高行の声は、潮風にかき消されそうなほど掠れていた。美咲の三つ下の妹。当時はまだ大学生で、屈託なく笑う少女だったはずだが、目の前の女性は彼を射抜くように見据えている。


​「姉さんの字、上手だったでしょう」


 理恵は口元だけで笑った。「私が書いたの。昔の手紙から文字を拾って、練習したのよ」


​「ああ、そうだろうと思った」


「来ないかと思ったわ。海外で成功して、過去のことなんて忘れてるんじゃないかって」


「忘れたことなど、一日たりともない」


​ 高行の言葉に、理恵の眉がピクリと跳ね上がる。


 彼女は一歩、彼に詰め寄った。その瞳に宿る憎悪の炎が、ゆらりと揺れる。


​「綺麗事を言わないで。あの日、あなたは来なかった。姉さんはあなたに振られた後、泣きながら山下公園に向かおうとしていたのよ。あなたが来るかもしれないって、馬鹿みたいに信じて。その途中で……」


​ 言葉が詰まる。風の音が、二人の間の沈黙を埋める。


 高行は弁解しなかった。


 治安最悪の任地への赴任が決まったこと。連れて行けば彼女の命が危ないこと。待っていてくれと言えば、彼女は十年でも待ってしまうこと。だから、嫌われるように仕向けたこと。


 そのすべてが、今となっては卑怯な保身に過ぎないと思えた。


​「俺が……奪った」


 高行は、乾いた喉からようやく言葉を絞り出した。


「彼女の未来を閉ざしたのは、俺の嘘だ」


​ 理恵の目が驚きに見開かれる。彼が反論し、自己正当化するとでも思っていたのだろうか。


 高行は懐に手を入れ、十年間の熱を帯びたベルベットの箱を取り出した。


​「これを、君に渡すべきだと思っていた。俺が持っていても、ただ汚していくだけだ」


​ 彼はその箱を、理恵へと差し出す。


 蓋を開ける必要はない。中にあるのは、煌びやかなダイヤモンドなどではない。彼女に似合うと思った、控えめで、しかし決して曇ることのないプラチナの輪だ。


​ 理恵はそれを見つめたまま、動かない。


 海風が彼女の髪を乱し、その隙間から見える表情が、怒りから戸惑いへ、そして深い悲哀へと崩れていくのを、高行は見逃さなかった。

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