第三章 共犯者の告白

「……馬鹿な人」


 理恵の口から漏れたのは、ため息のような呟きだった。


 彼女は指輪を受け取ろうとはせず、自分の鞄から一冊のノートを取り出した。革の表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。


​「姉さんの復讐をしてやろうと思ったの。あなたをここに呼び出して、罵倒して、一生消えない罪悪感を植え付けてやるつもりだった」


 理恵の手が震えている。寒さのせいではない。


「でも、あなたがそんな顔をするから……そんな、幽霊みたいな顔で立っているから」


​ 彼女はそのノートを、高行の胸に押し付けた。


「読みなさい。最後の日付のページを」


​ 高行は震える手でノートを受け取る。街灯の頼りない明かりの下、ページを繰る。


 見慣れた、幾度となく夢に見た筆跡がそこにあった。


 インクが滲んでいるのは、涙の跡だろうか。


​『一月二十五日。


今日、高行さんに別れを告げられた。


「もう好きじゃない」って。


彼の声は震えていた。目も合わせてくれなかった。


嘘をつく時、彼はいつも右手の拳を握りしめる癖がある。今日もそうだった。』


​ 高行の息が止まる。


 文字が、視界の中で揺らぐ。


​『きっと、言えないことがあるんだと思う。会社のことか、遠い国のことか。


彼は優しいから。私を傷つけないために、自分が悪者になろうとしている。


その優しさが、今はたまらなく痛い。


でも、私は騙されたふりをしてあげようと思う。彼が背負おうとしている荷物を、今は彼一人に預ける。


だけど私は諦めない。


彼が本当のことを言える日が来るまで、十年でも二十年でも待つ。


プロポーズは、その時までお預け。


いつもの公園に行って、少しだけ泣いたら、また明日から彼を信じて待とう』


​ 風の音が止んだ。


 いや、高行の耳に届かなくなっただけだ。


 世界から音が消え、ただノートの上の文字だけが、熱を持って浮かび上がってくる。


​ 彼女は知っていたのだ。


 彼の拙い嘘も、その裏にある臆病な優しさも。


 そのすべてを飲み込み、彼女はあの交差点を渡ろうとしていた。絶望して死んだのではない。未来を信じて、彼を愛し抜く覚悟を決めて、その一歩を踏み出していたのだ。


​「許さない、なんて嘘よ」


 理恵の声が、涙声に変わる。


「姉さんは、あなたを許すも何も……最初から、愛してしかいなかった」


​ 高行の目から、熱いものが溢れ出した。


 それは十年分の砂と埃を洗い流すように、頬を伝い、コートの襟を濡らしていく。


 嗚咽が漏れるのを止めることができなかった。


​ 日記に記された、右手の拳。


 その中に握り込み、隠そうとしていたもの。


 それは彼女を守るための優しさなどではなかった。ただ、自分自身が傷つくことを恐れ、爪が食い込むほどに固く閉ざした、みっともないほどの保身。その冷たい感触が、十年越しに開いた掌(てのひら)に残っていた。

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