錆びた錨~亡き恋人からの手紙と、十年越しの「嘘」の答え合わせ
銀 護力(しろがね もりよし)
第一章 砂と潮風
成田の到着ロビーを抜けた瞬間、高行(たかゆき)の肺を満たしたのは、まとわりつくような湿気だった。
それは十年もの間、彼が呼吸をしてきた乾いた砂塵の記憶を、暴力的なまでに上書きしようとしていた。
肌に張り付く日本の空気は、生温い羊水に似ている。
彼は無意識に胸ポケットの上から、そこにある硬質な異物の感触を確かめた。小さなベルベットの箱。十年前に買い求め、一度も開かれることのなかったそれは、今や彼の心臓の一部のように重く、冷たく鎮座している。
商社マンとしての十年。
地図の境界線が曖昧な国。飲料水よりも血液のほうが安く流れる土地。
高行はそこで、鉄塔を建て、パイプラインを引き、時には銃声を聞きながら眠りについた。生きるか死ぬかという乾いた緊張感だけが、彼を正気につなぎ止めていた。いや、むしろ逆か。彼は死に場所を探すように、最も危険な現場を選んで渡り歩いてきたのだ。
帰国辞令が出たのは先月のことだ。
そしてその数日後、日本の実家から転送されてきた一通の手紙が、彼をここへ、この湿度の中へと引き戻した。
差出人の名は、美咲。
十年前に死んだはずの、恋人の名前。
高行は空港の喧騒を背に、タクシー乗り場の列に並ぶ。
コートの襟を立てながら、脳裏に焼き付いたその手紙の文面を反芻する。封筒の中に入っていたのは、変色しかけた便箋一枚。そこには、懐かしくも恐ろしい、角の丸い筆跡でこう記されていた。
『一月二十五日。いつもの場所で待っています。私は、あの日の嘘を許さない』
一月二十五日。今日だ。
十年前、彼が彼女に別れを告げた日。
そして、彼女がその帰路で、暴走したトラックに命を奪われた日。
亡霊など信じない。だが、もし誰かが悪意を持って書いたものだとしても、高行には無視することなどできなかった。
「あの日の嘘」。
その言葉の棘が、十年かけて築いた彼の分厚い皮膚を、あまりにも容易く貫いたからだ。
「お客さん、どちらまで?」
運転手の問いかけに、高行は十年ぶりに口にする日本語の響きを確かめるように、低く答えた。
「山下公園へ。氷川丸の近くで下ろしてください」
タクシーが滑り出す。
窓の外を流れるハイウェイの灯りは、彼が砂漠で見上げた星空とは違い、人工的で、どこか頼りなく滲んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます