第五話:もふもふ会議と昼寝の誘惑

 およそこの世において、冬の午後の陽だまりほど人を、いや獣を自堕落じだらくにさせる甘い罠は存在しない。


 まほろば温泉の谷間に差し込む光は、いささkの硫黄の香りを孕んだ湯煙を白銀に染め上げ、老舗旅館「獺祭館」の古びた縁側を、さながら極楽浄土の一隅のごとき黄金色に変貌させていた。

 この神聖不可侵なる休息の場を占拠しているのは、三匹の、毛深く、だらしなく、そして莫迦ばか正直な川獺たちである。


 一見すれば、ただの微笑ましい動物の昼寝風景に過ぎない。

 その実態は、閉塞感に満ちた現代社会において人間に化けて生きることに疲れ果てた、誇り高き川獺かわうそ一族の密談であった。


「ふご……ふごごごご!(納得がいかん、どうしても納得がいかんぞ!)」


 縁側の端で、自慢の焦げ茶色の毛を逆立て、芋虫のように身悶えしているのは、長男・春人兄上である。


 彼は人間に化けている間は若旦那としての威厳を辛うじて保っている。

 だのに、一旦この毛皮の姿に戻れば、その内面に蓄積されたストレスが静電気となって放出され、全身がたわしのごとく逆立ってしまうのだ。

 特に、あの南雲銀蔵なぐもぎんぞうの部下、穴熊源三郎あなぐまげんざぶろうが残していった銀色の泥の屈辱が、彼の繊細な獣心を激しく痛めつけているらしい。


「キュイッ(兄上、そう毛を逆立てなさんな。せっかくの昼下がりが台無しでさぁ。そんなに怒ってばかりいると、また尻尾の毛が抜けて、まほろばの川にハゲた川獺が流れているなんて不名誉な噂が立っちまいますぜ)」


 オイラは、腹の上に冷えた岩魚を乗せ、それを器用に前足で押さえながら答えた。

 川獺にとって、仰向けに寝て腹の上で食事を摂ることは、高等遊民こうとうゆうみんとしての矜持を保つための重要な儀式に他ならない。

 岩魚の皮をひと噛みすれば、清冽な水の香りが鼻腔を抜け、この世のあらゆる悩み事がどうでもよく思えてくる。

 皮肉を愛するオイラにとって、この「獣としての自由」こそが、唯一の真実であった。


「ふごっ!(夏生、お前は呑気すぎる! 女湯の源泉が止まっているんだぞ! 明日には、あの穴熊が戻ってくる。署名しなければ、この宿は……この宿は文字通りの干物になってしまう!)」


「キュキュキュ(ふふふん、大丈夫だよ春人兄ちゃん。僕のインスタのフォロワーが、みんなで応援してくれてるもん)」


 三男の秋留が、無防備に腹を晒して転がりながら、暢気な声を上げた。

 彼は川獺の姿になっても、その毛並みは艶やかで、太陽の光を反射して琥珀色こはくいろに輝いている。


 一族きっての美獣びじゅうである彼は、前足で丁寧に顔の周りの毛を整え——いわゆる毛繕いというやつに余念がない。

 彼にとっての危機とは、宿の倒産よりも、自らの毛並みが乱れることにあるらしい。

 なんとも羨ましい限りの、純粋無垢なる莫迦ばかであった。


「秋留、お前のフォロワーが源泉を沸かしてくれるのかい? もしそうなら、オイラも喜んでスマホを拝むがね。……なぁ、秋留。お前さん、女湯の異変に最初に気づいたとき、本当は何を見たんだい?」


 オイラが岩魚の頭を齧りながら問いかけると、秋留は毛繕いの手を止め、くりくりとした瞳を瞬かせた。


「……うん。あのね、女湯の鏡の裏から、変な音がしたんだ。グチュグチュって、泥が這いずるような音。それでね、その泥が……銀色に光りながら、生き物みたいに動いてたんだよ。僕が近寄ったら、鏡の中にスーッと吸い込まれていったんだ」


「生き物みたいに、だと?」


 春人兄上が、その巨体を跳ねさせて起き上がった。


「それは狢の禁術だ! 奴ら、『銀泥虫ぎんでいちゅう』を放ったのか!」


銀泥虫ぎんでいちゅう……。なるほど、穴熊の旦那が持ってきたのは、ただの泥じゃありやせんでしたか。土を食い、水を濁し、歴史を消し去る狢の兵器。……それを女湯の鏡に仕掛けたってぇわけだ」



 もし銀蔵の狙いが、単なる宿の買収ではなく、この場所そのものを消去することだとしたら?


 ふと深雪さんのことが頭の中を過った。

 彼女はオイラを「夏生くん」と呼び、まるで旧知の仲であるかのように接してくる。

 だのに、彼女の瞳の奥には、オイラが到底及ばぬほどの深い悲しみと、強靭な意志が同居している。

 

 

 オイラが人間観察の限りを尽くしても、彼女の正体だけは霧に包まれたままであった。

 なぜ彼女は、失踪した母上の旦那——すなわちオイラの親父殿おやじどのが持ってい書物の霊具を持っているのか。

 なぜ彼女は、あやかしの正体を視ながらも、それを恐怖せず、慈しむように接するのか。

 彼女がこの宿に来たのは、果たして偶然のなせる業なのか。


「……夏生くん。そんなに難しい顔をして、岩魚が泣いているわよ」


 不意に、庭の紅葉の陰から、涼やかな声が響いた。

 

 

 深雪さんであった。

 彼女はいつもの白銀のストールを肩にかけ、縁側に座る三匹の川獺を、慈母のような眼差しで見つめている。

 

 

 春人兄上は「げっ!」と短い悲鳴を上げて、慌てて人間の姿に戻ろうとした。

 だのに、焦りすぎて術が空回りし、頭だけが人間、体は川獺という、実に見るに堪えない珍妙な怪異の姿を晒してしまっている。

 秋留にいたっては、彼女に甘えるように「きゅいーん」と鳴いて、その足元にすり寄っていった。


「お見苦しいところをお見せしやした、深雪様。……この毛深い兄弟共は、日光消毒が趣味でしてね。……あんた、いつからそこに居やした?」


 オイラは仰向けの状態からくるりと反転し、四本足で立ち上がった。

 そして、一瞬ののちに、不機嫌なインテリ風の青年の姿へと戻った。

 もちろん、唇の端からは牙が飛び出している。


「ついさっきよ。夏生くんが、岩魚を骨まで愛しそうに食べているところから」


「へっ、そりゃあ悪趣味だ。……深雪様、秋留の話じゃあ、女湯の泥は生きているそうで。鏡に、狢の厄介な虫が棲みついてやがる」


 深雪さんは、秋留の琥珀色の背中を優しく撫でながら、目を細めた。


「銀泥虫、ね。この世と幽世を渡る狭間の蟲」


「なんであんたが知っているんだい?」


「なぜかしら。忘れちゃったわ」


「ともかく……。南雲銀蔵のやりそうなこった。あの伯父上は、金のためならなんでもする守銭奴だからな」


 オイラが毒づくと、深雪さんは静かに立ち上がり、女湯の方角を見つめた。


「行きましょう、夏生くん。……太陽が沈み、陰の気が満ちる前に、その『虫』を追い出さなければならないわ。鏡の中の世界が閉じる前に」


「……あんた、本当にただの作家志望なんですかい?」


「どうでしょう。でも今は、あなたたちの味方よ。……それだけで十分でしょう?」


 彼女はそう言って、オイラの鼻先でストールの端を揺らした。

 その瞬間、オイラの牙の疼きが、ふっと収まった。

 不思議な安堵感が、温泉に浸かった時のように全身に広がっていく。

 



 その日の夕刻。

 まほろばの空は、燃えるような茜色から、深い藍色へと移り変わろうとしていた。

 母上は調理場で「今日の岩魚は身が締まってないねぇ!」と包丁を叩きつけ、春人兄上は帳場で筆を持ち、穴熊源三郎への反論を書いては消し、書いては消しを繰り返している。


 そんな喧騒を他所に、オイラと深雪さんは、無人の女湯へと足を踏み入れた。

 止まった蛇口。乾いた床。

 立ち込めるはずの湯煙がない浴室は、まるで魂を抜かれたむくろのようであった。


「夏生くん、鏡を見て」


 深雪さんの声に導かれ、正面の大きな鏡を覗き込む。

 そこには、自分の歪んだ笑みと、銀色のストールを巻いた彼女の姿が映っている。

 

 ……何かが違う。

 

 鏡の中の背景に映る、脱衣所の時計の針が、狂ったように逆回転している。

 そして、オイラの背後の闇から、無数の銀色の触手が、うねうねと鏡の表面を舐めるように這い出してきた。


「お出ましだ。……お掃除ロボットにしては、少々お行儀が悪すぎるじゃありやせんか」


 鏡の中の闇が、大きく口を開ける。

 現実と虚構の境界線が、ぬるぬるとした銀色の泥によって溶かされていく。



 退屈な日常に風穴を開けるのが運命だというのなら、それもまた一興。

 この風穴は、オイラの魂まで鏡の向こう側へと引きずり込もうとする、貪欲な深淵であった。


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