第四話:泥の足跡、アナグマの爪

 陽光が微塵も届かぬ地下の配管室から這い出したオイラの鼻を、最悪の芳香が貫いた。


 それは、使い古された機械油の臭気と、地中深くで腐敗した粘土の湿り気が混じり合った、卑俗極まるむじな妖気ようきであった。

 大浴場の女湯が、枯れ果てた噴水のごとき沈黙を貫いている。

 その原因が、単なる設備の老朽化によるものではないことは、オイラの手に残る銀色の泥が何より雄弁に物語っていた。


 金の懐中時計から抜き取られた竜頭。

 そして、突如として霊泉を塞いだ不気味な泥。

 これら二つの事象が、一本のおぞましい糸で繋がっていることに気づかぬほど、オイラの脳細胞は懶惰らんだではない。


 犯人の目星は、すでに付いている。

 土を掘り返し、他人の寝床を土足で汚すことに至上の喜びを見出す、あのアナグマの野郎どもだ。


「夏生、どうにかならんのか! このままでは、夜の部のお客様をお通しできんぞ!」


 背後で、春人兄上が半べそをかきながら、玄関先へとやってきた。

 彼は人間に化けていながらも、焦燥のあまり背中から茶色の毛が突き出しており、その姿は実に見苦しい。


 責任感という名の重圧に押し潰され、自ら配管に詰まるという莫迦ばかな失態を演じたばかりの彼に、これ以上の試練を与えるのは、いささか酷というものかもしれない。


「春人兄上、そう慌てなさんな。慌てたところで、止まったお湯は戻っちゃきやせん。それより、玄関先に珍客がお見えのようでさぁ。……ほら、あの油の腐ったような臭い。兄上も嗅ぎ覚えがあるでしょう?」


 オイラの言葉に、春人兄上は鼻をひくつかせ、その表情を強張らせた。

 



 ロビー。そこには不釣り合いな高級スーツに身を包んだ、恰幅の良い男たちが三人、傍若無人にソファを占拠していた。

 その先頭に立つ男——南雲なぐもリゾート開発の専務、穴熊源三郎は、テカテカと光る額を拭いながら、厭らしげな笑みを浮かべていた。


「いやはや、相変わらず黴臭い宿ですなあ、獺祭館さんは。これでは、せっかくの温泉街の格が下がるというものだ」


「おやおや、どこのどなたかと思えば、地べたを這いずるのがお似合いの穴熊の旦那じゃありやせんか。……当館の格を心配してくださるたぁ、明日は槍でも降るんじゃねぇですか?」


 オイラは箒を杖代わりに、慇懃無礼な一礼をして見せた。

 唇の端からは、今にも飛び出しそうな牙が疼いている。

 だのに、相手は一介のビジネスマンを装い、慇懃な態度を返してくる。それが余計に、オイラの神経を逆撫でする。


「夏生くん、この方たちが例の?」


 背後から、深雪さんが静かに現れた。

 彼女は白銀のストールを軽く指先で弄びながら、穴熊源三郎の足元を鋭く射抜いた。

 その視線の先には、高級な革靴の縁にべったりとこびりついた、あの銀色の泥があった。


「左様でございやす、深雪様。穴熊の旦那方は、視察と称して、他人の庭に泥を塗りに来るのがご趣味なんでさぁ。……旦那、その靴の汚れ、うちの地下室に落ちていた泥と、実によく似ておりやすねぇ?」


 オイラの指摘に、穴熊の顔がわずかに痙攣した。


「ふん、何のことかな。我々は南雲銀蔵社長の名代として、この街の再開発計画を説明に来ただけだ。……若旦那。お宅の源泉、今日から止まっているそうじゃないですか? これも何かの予兆です。霊脈が枯れ果てる前に、賢明な判断を下されることをお勧めしますよ」


「な、南雲銀蔵社長が……?」


 春人兄上が、その名を聞いただけで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。

 無理もない。南雲銀蔵——この温泉街を買い叩こうとする狢グループの総帥は、我ら一族にとって最凶の天敵であり、同時に、母上の兄という忌まわしい縁で繋がった宿敵なのだから。


「……お引き取りくだせぇ。うちの源泉がどうなろうと、穴熊の旦那に口を挟まれる筋合いはありやせん。不浄の泥は、自分の穴ぐらへ持ち帰るのが礼儀ってもんでしょう?」


「口の減らないガキだ。……まあいい。契約書は置いていく。明日までにサインがなければ、この宿の霊脈は、完全に南雲の手によって断たれることになる。覚えておきなさい」


 穴熊源三郎は、勝ち誇ったような笑いを残し、悠然とロビーを去っていった。


 

 

 彼らの車が走り去った直後、帳場の奥から、地響きのような足音が近づいてきた。


「誰だい! あたしの留守の間に、薄汚いアナグマを招き入れたのは!」


 現れたのは、母上であった。

 その迫力たるや、まさに怒髪衝天の如し。

 彼女の手には、使い込まれた巨大な出刃包丁が握られていた。どうやら夕食の準備中に、敵の気配を察知して飛び出してきたらしい。


「母上、包丁を振り回すのはご勘弁を。……奴らは勝手に上がり込んできただけでさぁ。オイラ追い払ってやりやしたよ」


「ふん、夏生。あんたの屁理屈が通じる相手じゃないよ、南雲の連中は。……特にあの銀蔵。自分の血を分けた妹の宿を潰そうなんて、今度会ったら尻の穴から毛皮を剥いで、絶対に干物にしてやるんだから!」


 母上の怒りは、まほろばの湯煙さえも吹き飛ばさんばかりの勢いであった。

 オイラはそんな騒ぎを他所に、穴熊たちが座っていたソファの周りを、四ん這いになって嗅ぎ回っていた。


「夏生くん、どうかしたの?」


 深雪さんが、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。


「……深雪様、妙なんでさぁ。奴らが去った後だっていうのに、この床下から、嫌な『唸り』が聞こえてきやがる」


 オイラは、床板に耳を押し当てた。

 深雪さんも倣って腰を下ろす。

 

 グググ……、グググ……。

 

 それは、生命あるものが発する呻き声ではなく、大地そのものが悲鳴を上げているような、不気味な振動であった。

 穴熊源三郎は、ただ脅しに来たのではない。

 奴らはどさくさに紛れて、この旅館の心臓部である霊脈の真上に、何かおぞましい呪術的な「釘」を打ち込んでいったに違いないのだ。


「霊脈が、泣いているわ……」


 深雪さんの瞳が、わずかに銀色の光を帯びた。

 彼女の視る力が、床下の闇に仕掛けられた「異物」を捉えたらしい。


「女湯が止まったのは、あの連中が霊脈の流れを強引に止めているからじゃないかしら」


「あいつら、うちの商売道具の源泉を奪って、潰そうとしてやがるんだ。……ああ、全く、これほどまでに浅ましく、計算尽くの莫迦ばかは、川の向こう側でも見たことがねぇ」


 春人兄上は、もはや魂が抜けたような顔で立ち尽くしている。

 母上は包丁を握りしめたまま、憤怒のあまり巨大な川獺へと戻りかけている。

 そんな修羅場の中で、オイラは一人、皮肉な笑みを深く刻んだ。


「……面白くなってきたじゃねぇか。相手がその気なら、こっちにも考えがありやすぜ。深雪様、あんた、謎解きはお好きですかい?」


「ええ。ミステリの真相を暴くのは、作家の矜持だもの」


 彼女は白銀のストールを首に巻き直し、満足げに微笑んだ。



 牙が、疼く。

 それは、獲物を狙う獣の本能か、それとも破滅を愛でる皮肉屋の性分か。 

 

 時計の竜頭。止まった女湯。銀の泥。

 バラバラだったパズルの断片が、一つの巨大な「陰謀」という形を結びつつあった。

 退屈な日常に風穴を開けるのが運命だというのなら、それもまた一興。

 だのに、この「一興」は、どうやらオイラの大切な宿を、文字通りの灰燼に帰しかねない危険を孕んでいた。


 ああ、皮肉なことは面白ぇ。


 そううそぶきながらも、オイラは目前に迫る巨大な「狢の罠」を前に、かつてないほどの高揚感を感じていたのである。


 まほろば温泉を揺るがす川獺と狢の化かし合いが密やかに加速していった。


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