第三話:抜けた竜頭と狢の影

 朝の光というものは、往々にして残酷な真実を照らし出すものである。


 山あいに沈殿していた夜の帳が、白々と明けていく。

 普段ならば、この刻限の「獺祭館だっさいかん」は、源泉から湧き出る濛々たる湯煙に包まれ、さながら桃源郷のごとき情景を呈しているはずであった。

 だのに、今朝の景色はどうだ。

 大浴場の煙突から立ち昇る蒸気は細く、頼りなく、支持率が低迷した末期の政党のごとき悲壮感を漂わせているではないか。


 オイラが帳場で、大倉様からお預かりした金の懐中時計——すなわち、竜頭を失った無残な金属の塊——を弄びながら、この世の不条理について沈思黙考していた時のことである。


「夏生! 大変だ、一大事だ! 大浴場の、女湯の霊泉が……止まった!」


 怒鳴り込んできたのは、長男の春人兄上であった。三男の秋留が、女湯の異変に気づいたらしいのだ。

 その顔色は、もはや土気色を通り越して、腐りかけた苔のような不気味な緑色に変色している。

 胃袋に穴が開くのを通り越し、今や彼の内臓は破滅へのカウントダウンを刻んでいるに違いない。


「兄上、朝からそう声を荒らげなさんな。女湯が止まったくらいで、この世が終わるわけじゃありやせん。男湯の方は、まだ滾々と湧いてるんでしょう?」


「馬鹿を言うな! 女湯は『まほろば温泉』の象徴、美肌の湯びはだのゆとして名高い霊泉なんだぞ! それが一滴も出ないとなれば、宿の看板は泥に塗れ、一族は路頭に迷い、私は先代に合わせる顔がなくて切腹せねばならぬ!」


「へいへい、切腹の介釈ならいつでも引き受けやすよ。でも、腹を切る前に、まずはその原因を突き止めるのが先決じゃねぇんですかい?」


 オイラは、懐中時計の空っぽの穴を見つめながら、座敷わらしの残した囁きを思い出していた。


『泥の足跡をつけた奴に、盗られた』


 時計から抜き取られた竜頭。

 突如として枯渇した女湯。


 これら二つの事象が、単なる偶然の符合であると断じるほど、オイラの脳細胞は楽観的には出来ていない。


「……とにかく、配管を見に行くぞ! 夏生、お前も来い!」


 春人兄上は、必死の形相でオイラを引っ張り、大浴場の裏手へと走り出した。



 

 大浴場の地下、複雑怪奇に入り組んだ配管の森。

 そこは、人間に化けたままでは立ち入ることの出来ぬ、狭隘極まる霊脈れいみゃくの通路である。


「こうなったら、本来の姿で潜るしかない。夏生、外で見張っていろ!」


 兄さんは言うが早いか、ぽんと威勢よく煙を上げた。

 現れたのは、オイラより一回りほど巨大な、丸々と太った川獺かわうその姿である。

 彼はそのまま、温泉の元栓へと繋がる細いダクトの中へ、勇猛果敢にダイブした。

 

 

 ところが、である。

 

 

 五分も経たぬうちに、ダクトの奥から「ふごっ、ふごふご!」という、情けない動物の悲鳴が聞こえてきた。


「兄上? どうしやした」


「ふごーっ!(夏生、助けてくれ! 尻が……詰まって抜けない!)」


 オイラが呆れて覗き込むと、そこにはダクトの継ぎ目に、自慢の豊満な尻尾を挟み込み、もがき苦しむ長男の姿があった。

 責任感という名の重圧で膨らんだ彼の体躯は、あろうことか配管の径を超えていたらしい。

 もふもふとした毛並みが、冷たい鉄パイプの間に無残に圧縮され、彼はまさに生ける栓となって、自ら湯の流れを遮断してしまっていた。


「これじゃあ、源泉が止まるのも道理だぜ。兄上自身が詰まりの原因になっちまうなんて、笑えねぇ冗談だ」


「ふごごご!(笑ってないで引っ張れ、この薄情者!)」


 オイラはため息をつき、その丸太のような前足——もとい、腕を掴んで力一杯引き抜こうとした。

 だのに、脂の乗った彼の肉体は、摩擦係数を無視した頑固さで配管に固着している。

 その滑稽な光景を、背後から眺める影があった。


「あら、朝からずいぶんと賑やかな曲芸きょくげいね」


 涼やかな声と共に現れたのは、深雪さんであった。

 彼女は白銀のストールを軽く揺らし、配管に詰まって悶絶する川獺を、憐憫れんびんの情など微塵も感じさせぬ好奇の目で見つめている。


「おはよう、夏生くん。お兄さん、なんだか巨大なソーセージみたいになっているけれど、これも一族の伝統的な修行か何か?」


「……お早うございやす、深雪様。修行なんて高尚なもんじゃありやせん。単なる莫迦ばかの不始末でさぁ」


 オイラは、牙を剥き出しにして兄を引き抜く作業を中断し、慇懃無礼に一礼した。

 彼女はくすっと微笑み、配管の根元を指差した。


「それより、見て。夏生くん。……お兄さんが詰まる前から、ここには『何か』があったみたいよ」


 彼女が示した箇所には、鉄の錆びとは明らかに質の異なる、銀色のドロリとした泥濘ぬかるみが付着していた。

 それは、どこか機械的な油の匂いと、あやかしの妖気ようきが混じり合った、不気味な悪臭を放っている。


「泥の足跡……」


 オイラは、昨夜の座敷わらしの証言を反芻した。

 なるほど。

 金時計の竜頭を盗み、さらには女湯の源泉を呪術的に封鎖した不届き者がいるらしい。

 それも、この「獺祭館」の内情に精通し、霊脈の弱点を熟知した何者かが。


「ふごーっ!(痛い! 皮が剥ける!)」


 ようやく配管からスポンと抜けた春人兄兄上は、勢い余ってオイラの胸に激突し、二人まとめてコンクリートの床に転がった。

 兄さんは慌てて人間の姿に戻ったが、その尻尾の付け根は、摩擦で少しだけ毛が薄くなっている。

 彼は涙目で自分の尻を撫でながら、深雪さんを認めると、慌てて法被の襟を正した。


「失礼しました、深雪様! これは、その……配管の気密性を、身を以て確認していたところでして……」


「ええ、存じ上げているわ。とても献身的な若旦那様ね」


 深雪さんの言葉に、兄さんは頬を赤らめていたが、オイラの目は誤魔化されない。

 オイラは配管の奥から、一枚の奇妙な「名刺めいし」を拾い上げた。

 そこには、いかめしいフォントでこう記されていた。


『南雲リゾート開発 専務取締役 穴熊源三郎』


「……むじなの一族、南雲銀蔵の差し金だ」


 オイラの声が、湿った地下室に冷たく響いた。

 あの尊大なる伯父——南雲銀蔵。


 彼奴はこの温泉街を近代的なリゾートへと塗り替えるべく、古き良き旅館を一つずつ、内部から腐らせていく策を講じているのだ。

 時計の竜頭を奪ったのは、単なる盗みではない。

 なにか裏があるはずだ。もちろん宣戦布告も兼ねているのだろう。


「夏生くん、その穴熊さんっていうのは、どんな人?」


「名前の通り、土を掘り返すのが得意な、狡猾なアナグマの一族でさぁ。彼らは我ら川獺とは古くからの仇敵きゅうてき。……深雪様、どうやらあんたの言う『物語』を書き終える前に、この宿が灰になっちまうかもしれやせんぜ」


 オイラは皮肉を込めて言ってみた。

 だのに、彼女は少しも怯むことなく、オイラの牙をじっと見つめた。


「いいえ、物語には必ず『葛藤』が必要だわ。この銀色の泥も、その竜頭の消失も、結末を美しくするための伏線に過ぎない。……行きましょう、夏生くん。狢の影がどこへ消えたのか、追いかけましょう」


 彼女は白銀のストールを翻し、軽やかな足取りで地上へと戻っていく。

 


 

 その日の昼、玄関先に一台の黒塗りの高級車が止まった。

 中から降りてきたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ、恰幅の良い男たち。

 その先頭に立つ男は、鼻をひくつかせ、獺祭館の暖簾を厭らしげに眺めた。

 

 彼らの靴の裏には、あの地下室で見つけたものと同じ、銀色の泥がべったりとこびりついている。

 

 オイラは箒を杖代わりに、玄関先で彼らを待ち構えた。

 唇の端からは、今にも飛び出しそうな牙が疼いている。

 

「おやおや、掃き溜めにも鶴が舞い降りたってか。……ご不浄の掃除なら、もう間に合ってまさぁ、狢の旦那方」


 オイラの江戸弁が、冷たい冬の空気に溶けていく。

 退屈な日常に風穴を開けるのが運命だというのなら、それもまた一興。

 然りとて、この風穴は、少々風通しが良すぎて、一族を根こそぎ吹き飛ばしてしまいそうな勢いであった。


 ああ、皮肉なことは面白ぇ。

 そううそぶきながらも、オイラは深雪さんの隣に立ち、目前に迫る巨大な「影」に、牙を剥き出しにする覚悟を固めたのである。

 

 

 まほろば温泉を揺るがす大層ちんけで、致命的な、あやかし達の抗争こうそうがいま、本格的に幕を上げようとしていた。


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