第二話:赤い裾と名探偵のストール

 およそ古色蒼然とした木造建築というものは、それ自体が巨大な記憶の貯蔵庫である。


 百年の歳月を吸い込み、無数の宿泊客の溜息や嬌声きょうせいをその木目に刻み込んできた「獺祭館」もまた、例外ではない。


 この建物の至る所には、人ならざる者の気配が澱のように沈殿している。

 もっとも、我ら川獺かわうそのごとく図々しく「人」を演じて平然としている者もいれば、柱の影や天井裏に潜み、ひっそりと時の推移を眺めている淑やかな隣人もいるわけだ。


 その隣人の一人が、あの大倉様の懐中時計を「拝借」した。

 これほど看過しがたい事態があろうか。


 春人兄さんの胃袋はもはや雑巾ぞうきんのように絞り上げられ、当の本人は大倉様の部屋の前で「警察だけは……警察だけはご勘弁を」と、念仏のように唱えながらうろたえている。

 その横で、東京から来た自称・ミステリ作家の深雪さんは、涼しげな顔で白銀のストールを巻き直した。


「さて、夏生くん。案内してくださるかしら? あなたの宿の、本当の『住人』がいる場所へ」


「……御意にございやす。だのに、深雪様。あんまり首を突っ込みすぎると、その綺麗な髪が真っ白になっちまうかもしれやせんぜ。昔から、あやかしの尻尾を掴もうとして、逆に魂を抜かれた無謀むぼうな輩は数知れやせんからね」


「あら、それはそれでミステリの結末っぽくて素敵じゃない。行きましょう、助手さん」


 オイラは「助手じゃねぇ、案内人だ」と毒づきながら、彼女を連れて旅館の深部へと足を進めた。



 

 途中、従業員用の狭い通路を通りかかった際、オイラは堪らずに「皮」を緩めた。

 人間としての直立歩行というものは、重力との果てしなき格闘であり、精神を著しく摩耗させる愚行ぐこうに他ならない。

 そもそも化けるのは得意じゃない。オイラはぽんと煙を上げ、本来の、すなわち四足歩行の毛深い姿へと戻った。


 川獺が人間に化けていたことがバレてもいいのか。その問いには自信を持って「構わん」と答えることができる。我々には、化けの皮が剥がれても、後でその事象の記憶を消す「あやかしの術」があるからだ。

 もっとも、このオイラには使えないわけだから、母上か兄上にお頼み申すことになる。


 キュイ、と喉を鳴らして鼻をひくつかせる。

 人間の鼻では捉えきれぬ、微かな「古びた木綿」と「あずき」の匂い。

 これこそが、座敷わらしの残した足跡ならぬ、残り香のこりがである。

 深雪さんは、足元でちょこまかと動くオイラを見下ろし、驚く風もなく微笑んだ。


「あら、その姿の方がずっと賢そうに見えるわね。人間の姿の時は、なんだかこう、憎たらしいだけですもの」


「キュイ!(余計なお世話だ。こちとら、鼻を利かせてるんでぇ! これでも一族の中じゃあ、理屈っぽさで右に出る奴はいねぇって言われてるんだい)」


 オイラは彼女の裾を甘噛みして引き、普段は開かずの間となっている「奥の土蔵おくのどぞう」へと導いた。

 そこは、かつて父・源五郎が大切にしていた骨董品や、用途不明の呪術道具が乱雑に積み上げられた、いわば獺祭館のブラックホールである。

 埃が濛々もうもうたる闇の中で、オイラは再び人間の姿へと戻った。

 案の定、感情の昂ぶりを抑えきれず、唇の端からは鋭い牙が不機嫌そうに突き出している。


「……おいでなせぇ。そこに隠れてるのはお見通しでぃ。この夏生様の鼻を騙せると思ったら、大間違いだ。そこの古い長持の影で、息を殺して震えてるのはどこの誰だい?」


 突き当たりの長持の影から、ひょっこりと小さな頭が覗いた。

 おかっぱ頭に、古ぼけた赤い着物。

 紛れもなく、この宿の守り神にして悪戯好きの化身、座敷わらしざしきわらしである。

 その小さな手には、鈍い金光を放つ大倉様の懐中時計がしっかりと握りしめられていた。


「返しなせぇ、それはこの宿を滅ぼしかねない火種だ。お前さんの悪戯にしちゃあ、度を越してまさぁ。長男の春人兄さんが、今にも胃から泡を吹いて倒れる寸前だってぇのがわからねぇのかい?」


 オイラが威嚇するように牙を剥き出しにすると、座敷わらしはびくりと肩を揺らし、長持の裏へと完全に隠れてしまった。

 だのに、その影からは「嫌だ、嫌だ」という、秋風の鳴るような細い声が漏れてくる。


「新しいのが来る。大きな、鉄の匂いのするお家が来る。そうしたら、ここは壊される。あたい、居場所がなくなる。時計、止める。時間、止める。そうすれば、壊されない」


 座敷わらしの稚拙な切実な言葉に、オイラの牙が少しだけ引っ込んだ。

 なるほど、この小さな隣人もまた、南雲銀蔵率いる「狢グループ」の、土足で踏み荒らすような足音に怯えていたというわけだ。

 新しいリゾート施設、近代的な鉄筋コンクリートの塊。

 それらは、古い木造建築に宿るあやかし達にとっては、文字通りの死刑宣告に他ならない。


 時計を盗めば、客が来なくなる。客が来なくなれば、この宿は壊されずに済む。

 なんとも莫迦げた、そして愛すべき論理であった。


「座敷わらしちゃん。ちょっとこちらへ来てくださる?」


 深雪さんが、優しく抗いがたい響きを持つ声で呼びかけた。

 彼女は土埃の舞う床に膝をつき、首に巻いていた白銀のストールをふわりと解いた。

 驚くべきことに、そのストールは暗い土蔵の中で、まるで月光を直接織り込んだかのように、淡く、清冽な発光を始めた。


 オイラは息を呑んだ。

 これは単なる布ではない。

 彼女の「視る」力を増幅し、あやかしの荒ぶる魂を鎮めるための、一種の霊具に他ならない。


 座敷わらしは、吸い寄せられるように影から這い出し、深雪さんの膝元へと歩み寄った。


「大丈夫よ。この宿は、簡単には壊させない。……それに壊れてたとしても、私が、この宿の物語を書き留めるから。物語の中に記された場所は、たとえ現実が形を変えても、決して消えることはないの。私と夏生くんが、あなたの居場所を守ってあげる」


 彼女の細い指が、座敷わらしの頭を優しく撫でる。

 その光景は、一幅の宗教画のごとき神聖さを湛えていた。

 高等遊民を自称し、ニヒリズムの極北を歩むオイラですら、その美しさに毒気を抜かれ、皮肉の一つも言えなくなってしまうほどに。


 座敷わらしは、深雪さんのストールの心地よい感触にうっとりと目を細めた。

 やがてそっと、金の懐中時計を床に置くと、彼女の指を一舐めし、そのまま煙のように消え去った。

 役目を終えた光るストールが、元の静かな絹の質感に戻る。


「……見事な手際でございやすね、名探偵様。あやかしを丸め込む術まで心得ているとは、恐れ入りやした。作家志望っていうのは世を忍ぶ仮の姿で、実は高名な退魔師なんじゃありやせんか?」


 オイラは、懐中時計を拾い上げ、埃を払った。


「あら、見ていたの? 助手のカワウソさんは、暗闇で目をつぶっているのかと思ったわ」


「見てやしたとも。だが、あんたのそのストール……ただの作家志望が持っている代物じゃありやせんね。失踪したオイラの親父殿が持っていた古文書に、似たような霊具の記述がありやしたが……あんた何者だい?」


 深雪さんは立ち上がり、悪戯っぽく微笑んだ。


「ただの、忘れっぽい女よ。……大事なことを思い出すために、この町に来たの。夏生くん、時計を早くお兄さんに届けてあげて。彼、今にも胃に穴が開きそうだったわよ」


 オイラは鼻を鳴らし、土蔵を後にした。



 

 その日の夜、大倉様は「不思議なこともあるものだ」と首を捻りながらも、無事に見つかった時計に満足して、多額のチップを残して去っていった。

 春人兄さんの胃痛も、劇的な回復を見せた。

 彼は喜びのあまり、川獺の姿に戻って、庭の池で秋留と一緒にもみくちゃになって跳ね回っていた。

 もふもふとした二匹の獣が、月夜の下で飛沫を上げて遊ぶ様は、まさに平和そのものであった。


 オイラはといえば、旅館の屋根裏にある「特等席」で、夜風に当たっていた。

 いささkふさっとした尻尾を毛布代わりに丸まり、星空を眺める。

 すると、隣に誰かが腰掛ける気配がした。


「ここ、いい眺めね。街中が湯煙に包まれて、まるで夢の中みたい」


 深雪さんだった。

 彼女は、人間には到底登れぬはずのここに、どうやってかやってきたらしい。

 オイラは川獺の姿のまま、片目を開けて彼女を見た。


「キュイ(物好きな人間だね、あんたも。こんなところにくるなんざ)」


「あら、聞こえてるわよ。……今日はお疲れ様、夏生くん」


 彼女はオイラの隣に座り、夜空を見上げた。

 不思議な感覚だった。

 これまでオイラは、人間を「化かす対象」か、あるいは冷笑的な「観察対象」としてしか見てこなかった。

 だのに、こうして彼女と並んでいると、種族の壁というやつが、まるでぬるめの温泉に溶け出していくような錯覚に陥る。


 孤高を気取っていたはずのオイラの心に、妙な熱が灯っている。

 それは、春人兄上や秋留に対する家族愛とも違う、もっと奇妙で、それでいて不可欠な、バディとしての連帯感のようなものだ。


「……深雪様、あんたの言った『物語』ってぇのは、本当に消えないのかい?」


 オイラは思わず、人間の姿に戻って問いかけた。

 牙を隠すことも忘れ、真っ直ぐに彼女を見つめる。


「ええ。書かれた言葉は、骨よりも長生きするわ。……この宿も、あなたのその捻くれた性格も、私が全部書き残してあげる。それが、私がここに呼ばれた理由かもしれないから」


「へっ、そりゃあありがてぇ。末代までの恥になりやがる。……あ、おい、待てよ」


 その時、屋根の下の大倉様の部屋から慌てふためく声がした。


「……どうしたのかしら?」


「さぁ、ちょいと見て来やす」



 大倉様の怒りが再燃して真っ赤な顔でオイラの胸ぐらを掴む。


竜頭りゅうず……竜頭がないぞ。時計の針を動かす肝心の竜頭が、もぎ取られたように無くなってる」


 金の懐中時計は戻った。

 だのに、その心臓部たる竜頭が失われていれば、時計はただの重たい金属の塊に過ぎない。


 座敷わらしの手元にあった時は、確かに付いていたはずだ。

 土蔵からロビーへ運ぶ、わずかな時間の間か、大倉様の手元に戻った後に、何者かが抜き取ったのか。


「あたいじゃない、泥の足跡をつけた奴に、盗られた」


 不意に、廊下の影から座敷わらしの囁きが聞こえたような気がした。



 退屈な日常に風穴を開けるのが運命だというのなら、それもまた一興。

 だのに、この「一興」は、どうやらオイラの想定を遥かに超える規模になりそうであった。

 翌朝、まほろば温泉を揺るがす更なる凶報が届くことなど、この時のオイラはまだ、露ほども知らなかったのである。


 嗚呼、皮肉なことは面白ぇ。

 そううそぶきながらも、オイラは深雪さんの隣で、不安げな牙を震わせるのを止められなかった。


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