♨️牙を隠して湯を注げ♨️ 〜人に化けたあやかしの温泉旅館は今日も良い温泉が出ております〜

いぬがみとうま

第一話:牙を隠して、湯を注げ

 古来、まほろばの地は、立ちのぼる湯煙の彼方にあった。


 かつて神々が旅の疲れを癒やすために杖を突き、そこから湧き出た霊泉がこの温泉街の始まりであると、まことしやかな伝説が語られている。


 人間たちはそれを観光パンフレットの安っぽい彩りとして消費し、週末ごとの享楽に耽るわけだが、我々はこの地の歴史を彼らよりも深く、そして骨の髄まで知っている。


 なぜなら、我々は人間ではないからだ。


 一見すれば、ただの冴えない田舎の青年であるが、その実態は毛深く、鋭い爪を持ち、川魚をこよなく愛する誇り高き種族、すなわち川獺かわうそである。


 我々は人間に化け、人間社会に紛れ、時には彼らの機嫌を取りながら、この「獺祭館だっさいかん」という古びた温泉旅館を営んでいる。


 人間は川獺を愛らしいマスコットか何かだと勘違いしている節があるが、それは彼らの目が節穴だからに他ならない。

 我々はあくまで高等遊民であり、皮肉ることを追い求める高貴な魂を持った獣である。ただ、少々家族愛が強すぎることと、湯上がりの牛乳への執着が捨てきれないだけのことだ。


 夜明け前、まだ街が深い眠りの中にある刻限。

 翡翠川の澱みに、一筋の波紋が広がる。

 水面にひょっこりと顔を出したのは、濡れた黒い鼻先と、平らな頭。


 こうして川の流れに身を任せ、腹の上に好物の岩魚を乗せて浮かんでいる時間が、人生——もとい獣生における至高の瞬間であると断言して憚らない。



 オイラが名を夏生なつおという。夏に生まれたからという安直極まる名前だ。

 偉大なる父・獺祭源五郎の次男として生を受けたが、どういうわけか一族特有の神通力には恵まれなかった。


 長男の春人はるとが怒りに身を任せて大入道のように巨大化したり、三男の秋留あきるが秋波を送るだけで町中の娘を虜にしたりするのを尻目に、オイラはひたすらに人間観察の技術を磨き、古今東西のミステリを読み漁ることで退屈な青春を浪費してきた。


 一族のなかでもオイラは「化け」の才に乏しく、少しでも感情が昂れば、すぐさま口端から鋭い牙がこぼれ落ちてしまう。

 これを隠すために、オイラは常に唇を歪めた皮肉な笑みを絶やさぬように努めているのだ。

 この歪な微笑こそが、オイラの正体を隠す仮面であり、同時に世界を斜めに眺めるための眼鏡でもある。


 オイラが望んだのは、かつての大鯰おおなまず先生のような孤高の地位であり、誰にも邪魔されずにぬるめの湯に浸かり続ける静謐な生活であったが、現実はそれを許さない。


「夏生、またそのような顔をして、腐った魚の目玉のようになっているぞ」


 朝の食卓において、オイラの向かいに座る長男・春人が、几帳面に焼き魚の骨を外しながら言った。


 彼はこの旅館の若旦那であり、その双肩には一族の運命と、借金の返済と、従業員のシフト管理という重圧がのしかかっている。

 眉間の皺は年々深くなり、そのうち峡谷となって観光名所になるのではないかとオイラは危惧している。


「兄上、それはオイラのデフォルトの顔でございやして。つまんねぇ世の中で、無理に笑おうなんて思えば、頬の筋肉が攣っちまいまさぁ」


「お前はいつもそうだ。少しは秋留あきるを見習って、愛想というものを身につけたらどうだ。旅館業はサービス精神が命だぞ」


「秋留のような愛想笑いを浮かべるくらいなら、オイラは一生、帳場の奥でそろばんを弾いて暮らしやすよ。だいたい、あの末っ子は愛想が良いのではなく、単に頭の中身が綿菓子のようにふわふわしているだけでございやしょう」


 オイラが味噌汁をすすると、隣でスマートフォンをいじっていた三男の秋留が、ぱっと顔を上げた。


 その顔立ちは憎らしいほどに整っており、人間社会においても「イケメン」として通用する。

 彼が微笑めば、商店街の八百屋の奥さんが大根を一本おまけし、肉屋の主人がコロッケを揚げたてにしてくれるのだから、世の中は不公平にできている。


「夏生兄ちゃん、ひどいなあ。僕だって考えてるよ。これからの温泉街には、映えスポットが必要だと思うんだよね。たとえば、露天風呂に大量のアヒルちゃんを浮かべるとか」


「却下だ。そんなことをすれば、風情を愛する常連客が卒倒する」

 春人が即座に切り捨てた。


「じゃあ、夏生兄ちゃんが探偵の格好をして、お客様の失せ物探しをするイベントはどう? 名探偵カワウソ!」


「お断りだ。オイラは安楽椅子探偵を気取りたいのであって、実際に汗を流して走り回りたくはねぇんだ。それに、探偵てぇものは、事件が起きてから重い腰を上げるものであって、イベントとして催されるもんじゃねぇ」


 我々兄弟の会話は、常にこのように平行線をたどる。

 それは湯船に浮かぶ桶のように、触れ合っては離れ、離れては触れ合う、生産性のない摩擦の繰り返しである。


 そこへ、襖を蹴破るような勢いで、母・冬子が現れた。

 かつて父と共にこの温泉街を取り仕切り、今なお女将として君臨する彼女は、人間界の常識を超越した存在である。

 その迫力たるや、まさに颱風たいふうの如し。彼女が歩けば床板が悲鳴を上げ、彼女が睨めば酔っ払いも直立不動になる。


「お前たち、いつまで油を売っているんだい! 今日は東京から大事なお客様が来るんだよ。粗相があったら、全員まとめて干物にするからね!」


 母の声は、朝の静けさを木っ端微塵に粉砕した。


「母上、干物は勘弁してください。水分が抜けると肌が荒れます」

 秋留が情けない声を出す。


「黙りなさい。特に春人、あんたはまた胃薬ばかり飲んで。そんな辛気臭い顔でお客様を出迎えられるものか。もっとシャキッとしなさい」


「は、はい……努力します」


「そして夏生。あんたはまた、どうでもいい屁理屈を捏ねていたね。その口を動かす暇があったら、玄関の掃き掃除でもしておいで」


 オイラはため息をつき、茶碗を置いた。


「母上、オイラは屁理屈を捏ねているのではありやせん。哲学的思索に耽っていたんです。この世の不条理と、朝食の納豆の粘り気についての考察でさぁ」


「それを屁理屈と言うんだよ。さあ、さっさと動いた動いた!」


 母の手拍子に急かされ、我々は蜘蛛の子を散らすように食卓を離れた。


 これが獺祭家だっさいけの日常である。

 父・源五郎が忽然と姿を消して以来、我々はこうして母の号令の下、必死に旅館を守ってきた。


 父がどこへ行ったのか、なぜ消えたのか、それは誰にもわからない。

 ただ、父がいなくなったことで、この温泉街の均衡が少しずつ崩れ始めていることだけは、我々兄弟も薄々感づいていた。


 隣町からは、新興のリゾート開発業者「むじなグループ」の魔の手が忍び寄っている。

 彼らは金の力と近代的なスパ施設を武器に、古き良き温泉街を飲み込もうとしているのだ。


 狢どもは、我々川獺とは古くからの因縁を持つ。彼らは土を掘り返し、我々は水を守る。

 相容れない種族間の争いが、開発競争という現代的な衣をまとって再燃しようとしているのである。


 オイラが箒を持って玄関先に出ると、一台のタクシーが滑り込んできた。

 降りてきたのは、大きなトランクを抱えた一人の女性だった。

 黒髪のショートカットに、意志の強そうな瞳。そして何より、その全身から漂う「何か」の気配に、オイラの鼻がひくりと動いた。


 人間にしては、あまりに気配が澄んでいる。


「ここが、獺祭館ですか?」


 彼女はオイラを見て、にこりと笑った。

 その笑顔は、秋留のそれとは違う、もっと根源的な温かみを持っていたが、同時にどこか影を感じさせるものでもあった。


「いかにも。当館は創業百年、化かし化かされの歴史を持つ老舗でございやす」


 オイラは慇懃無礼いんぎんぶれいに頭を下げた。

 その瞬間、彼女の瞳がわずかに細められた。


 しまった、と思った時にはもう遅い。

 彼女の視線が、オイラの口元に釘付けになっている。

 どうやら、お辞儀の拍子に、隠していたはずの鋭い犬歯——川獺牙が、唇の間からほんの数ミリほど顔を出してしまったらしい。


「……あなた、面白いわね。牙が出ていてよ」


 その一言で、オイラの心臓は激しく波打った。

 人間なら、単なる「歯並びの悪い男」として看過するはずだ。

 だのに、彼女の言い草は、まるですべてを見透かしているかのようであった。


「はて、何のことやら。オイラ、歯の治療をサボっているもんで、少々見苦しいところがございやしたか。お見苦しいものをお見せして、あっしが悪うございやした」


「とぼけなくていいわよ。……その牙も、その『オイラ』っていう作り物の喋り方も、なかなか趣があっていいけれど。私は深雪みゆき。よろしくね」


「へ、へぇ」


「……ここの温泉が隠し事まで洗い流してくれれば、もっといいのだけれど」


 彼女はそれだけ言うと、オイラを追い越して玄関の中へと入っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、オイラは額に浮かぶ嫌な汗を拭った。


 この客は、危険だ。

 直感が、全身の毛を逆立たせる。

 つまらねぇ日常は死んでいるのと同じだ。

 自らが掲げた信条が、重い楔となって胸にのしかかる。


 深雪さんを三〇二号室に案内し、お茶を淹れて一息ついた時、ロビーの方が騒がしくなった。

 春人兄さんの金切り声と、秋留の狼狽した叫び。

 オイラは予感に駆られ、階段を駆け下りた。


「どうしたんでぇ、兄上! お客様に丸聞こえじゃねぇか」


「夏生、それどころではない! さっきチェックアウトされた大倉様の、あの家宝の懐中時計が消えたのです!」


「懐中時計?」


「ああ。戦前から代々伝わる純金の時計だ。お見送りの直前までお部屋にあったはずなのに、車に乗る時には消えていた。大倉様は激怒され、今すぐ探し出さないと警察を呼ぶとおっしゃっている!」


 春人兄さんの顔は、もはや土気色を通り越して、かわうそ色になっている。

 警察。

 その二文字は、我ら一族にとって、滅びの呪文に等しい。

 組織的な捜査が入れば、我々の「化け」の綻びはたちまち白日の下に晒されるだろう。


「秋留、お前さんは掃除のときに見なかったのかい?」


「見てないよぉ! 僕、ちゃんとお部屋の隅まで掃除したもん。変なものは何も落ちてなかった」


「じゃあ、泥棒か? 誰か外の人間が忍び込んだっていうのか」


 兄さんが狼狽える中、オイラはふと、さっきの深雪さんの言葉を思い出した。


『隠し事まで洗い流してくれれば、もっといいのだけれど』


 なるほど、彼女がこの騒動を予見していたとでも言うのだろうか。


「……兄上、一旦落ち着きなせぇ。大倉様にはオイラが話をしてみる。その間に、もう一度だけお部屋を確認してきな。あやかしの力を使っていいから、畳の隙間まで覗き込むんでさぁ」


「わ、わかった……」


 オイラがロビーに向かおうとした時、階段の上から鈴のような、凛とした声が響いた。


「無駄よ。どんなに探しても、そこにはもうないわ」


 見上げると、深雪さんが手すりに寄りかかって僕らを見下ろしていた。

 その瞳は、まるで暗闇を見通す梟のように、怪しく、そして美しく光っている。


「どういう意味でございやすか、深雪様」


「言葉通りの意味よ、夏生さん。その時計は、どこにも『落ちて』なんていない。……だって、あれが持っていったんだもの」


 彼女が細い指で指し示したのは、誰もいないはずの廊下の隅であった。

 そこには、古ぼけた木の柱があるだけだ。

 だのに、オイラの眼にも、それは見えた。

 柱の影から、ほんの一瞬だけ、赤い着物の裾がひらりと揺れるのが。


「……座敷わらしざしきわらし


 オイラが小さく呟くと、深雪さんは満足げに微笑んだ。


「あら、ようやく見えた? 観察力がありそうな人だと思ってたけど、案外、足元がお留守だったみたいね。……さて、ミステリ作家志望の私としては、この謎を放っておくわけにはいかないわ。あなた、私を手伝ってくれる?」


 彼女は階段を軽やかに下りてきて、オイラの鼻先で人差し指を立てた。

 その指からは、微かに冬の星空のような、冷徹で清らかな香りがした。


「断る権利は……なさそうでございやすね」


「正解。つまらない日常は死んでいるのと同じ、なんでしょう?」


 オイラがさっき独り言で言ったはずの言葉を、彼女は平然と口にした。

 なるほど。

 この女は「視える」だけではない。

 オイラの心の中まで、その澄んだ瞳で覗き込んでいるらしい。


「いいでしょう。まほろば温泉へようこそ、名探偵さん。……獺祭館の『おもてなし』、とくとご堪能あれ」


 オイラは皮肉を込めて、深く一礼した。

 その拍子に、また牙がひょいと顔を出したが、今度は隠そうともしなかった。

 こうして、オイラと深雪さんの、長く奇妙な一週間が幕を開けた。


 それは温泉街を揺るがす大層ちんけで、それでいて重大な騒動の幕開けであった。

 ああ、皮肉なことは面白ぇ。

 そううそぶいてみても、オイラの背中の毛は不安げにゾワゾワするのを止められなかったのである。




――あとがき

新作です。1章が書き終わったので、ドバっと投稿いたします。

お正月にこたつで可愛いカワウソの話を読んでいただければ幸いです。


カクヨムコンテスト11にエントリーしております。

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