第30話:水面の静寂、深淵の咆哮


「くちゅん」

「ミリアリアさん、風邪ですか?」

「いや、何者かが良からぬ噂をしているのかもしれん」


 金糸のような髪を揺らしながら、ミリアリアさんは小さなくしゃみをした。どこか無防備で、少女のような仕草に、私は思わず微笑んでしまう。


 今、私とミリアリアさんは、船のマストに備え付けられた見張り台に立っていた。遥か彼方まで広がる湖は、まるで世界の終わりを思わせるほど静かで、どこまでも続く鏡面のような水面が、ダンジョンの天井に灯る淡い赤光をそのまま映し出している。


 双眼鏡を覗いても、対岸は霞の向こう。旅を始めてから二日、ただ水と赤い光に包まれたこの空間に、私たちは浮かんでいた。時折、水面から襲いかかる魔物の対処をしていたことがイベントと言えるだろうか。


「しかし…妙だな」

「な、何がですか?」


 ミリアリアさんの声が、湖面に吸い込まれるように低く響いた。


「他の冒険者の姿がまったく見えない」

「ここは“天使の零落”ですし、そ、そ、そういう、ものじゃないんですか?」


「いや、それなりの数の冒険者が第2層に進もうとしているはずだ。丸二日、誰にも出くわさないのは妙だ」


 彼女の瞳が鋭く光る。鋭敏な勘が、何かを察知しているのだろうか。私は思わず背筋を伸ばした。


 “天使の零落”の最前線

 ――第2層への入り口。

 

 そこから先は魔力の届かぬ深淵。通常であれば、マナステーションを設置しながら進む必要がある。だが、私たちにはメグーちゃんがいる。


 銀髪を揺らす彼女は、まるで人ならざる存在のように静かで、そして美しかった。彼女の存在が、私たちをこの先の深淵で生かすこととなる。


「でも、メグーちゃん。す、すごいです」

「どうした?あらたまって」

「メグーちゃんがいれば、私たち、外界にも…行け…ちゃいます」


「うむ…メグーの存在は貴重だ。教会や冒険者ギルド、帝国に王国、様々な組織からメグーは狙われておる。我らが護ってやらねばならん」


 ミリアリアさんの声には、どこか哀しみが滲んでいた。


「ミリアリアさんやフェイさんが、メグーちゃんのことで、すごく警戒していたの、い、今となっては…わかります」

「今となっては…か」


 ミリアリアさんは私達の出会いを振り返る。


「ふむ…我らが出会って、まだ一週間とは思えないほど、何だか濃い時間であったな」

「そうですね…」


 私とミリアリアさんが、これまでの道中を振り返りながら遠い目をしているその時だった。


「…あれ」

「どうした?」

「て、てん、天に伸びている水の柱…急に無くなりました」

「何?」


 ミリアリアさんは私の手から双眼鏡を奪い取るようにして、周囲を見渡す。その表情が、見る間に険しくなる。


「…アニー!」

「は、はひ!?」

「下に降り!至急、皆を起こしてほしい!」

「わ、わかりました!」


 私が慌ててロープを伝って甲板に降りていると、ミリアリアさんが頭上で言う。


「水龍が出るかもしれん!すぐに臨戦態勢へ移行する」

「す、す、水龍!?」


 その名を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。水面の静寂が、嵐の前の静けさに変わる。

 私は甲板に降り立つと、そのまま船室へと駆け込んだ。中では、メグーちゃんがキョトンとした顔でこちらを見ていた。彼女の無垢な表情が、今はどこか不安を煽る。


「アニー?」

「メグーちゃん、みんなを起こして!!」

「え、あ、うん」


 ハンモックで揺れていたオーグさんとケビンさんも、すぐに目を覚ます。私たちは一斉に船上へと飛び出した。飛び出した先で待っていたミリアリアさんの顔には、冷静さと緊張が同居していた。


「姉御!?…こりゃ」

「オーグ…お前は船尾の様子を見てこい」

「了解だァ!!」


 オーグさんの赤い肌が、赤光に照らされてさらに鮮やかに映える。彼もまた、異変に気付いていた。水柱が消える時、この湖の主が目覚める――それは、古くからの言い伝えだった。


「ケビン!メグーを頼んだぞ!」

「は、はい!!任せてください!」

「アニーは私と船首へ向かう!異変があればすぐに知らせよ!」

「わ、分かりました!!」


 その瞬間だった。湖面が、まるで巨大な心臓の鼓動のように脈打ち、波紋が広がる。


「わわわ!わっ!」

「アニー!!」


 足元をすくわれ、私はバランスを崩して湖へと落ちかける。冷たい水の気配が目前に迫ったその時、ミリアリアさんの手が私の腕を掴んだ。


「ほら!」

「は、はい!」


 引き上げられた私は、息を整えながら空を見上げた。そこには、黒く果てしない天井が広がり、赤い光が雨粒に反射して、まるで血のように煌めいていた。


「ここ…地下…ですよね?」

「水龍の影響だろう。天へと昇っていた水が墜ちてきているのだ」


 ミリアリアさんの金髪が濡れ、頬に張り付いている。彼女はそのまま空を見上げ、何かを確かめるように目を細めた。


「あ、あの!!」

「どうした!?」


 ケビンさんの声が船室の方から響いた。


「水龍!!倒せば、スキルが使えそうです!!」

「なるほどのう」


 ミリアリアさんの口元に、戦場でしか見せない不敵な笑みが浮かぶ。一方で、メグーちゃんは顔をしかめていた。ケビンさんがスキルを使えると言った意味は、つまり、水龍も食べられる料理になるということだ。


「え、私…爬虫類は苦手なんだけど」

「爬虫類?」

「水龍って、巨大な水のヘビでしょ。違う?」

「…違わないみたいです」


 ケビンさんが遠くを見つめながら、静かに頷いた。私とミリアリアさんもその視線を追う。


「水龍!!」


 そこにいたのは、湖の主――青く輝く鱗を持ち、空を泳ぐようにうねる巨大な蛇。水面を割って現れたその姿は、まさに水の覇者。圧倒的な存在感に、思わず息を呑む。


「アニー!まずは防御に徹するぞ!」

「わ、分かりました!!」


 だが、ここは水の上。足場を失えば、私たちはただの餌に過ぎない。水に飲まれるか、水龍に飲まれるか――その狭間で、私たちは今、試されている。

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