第29話:執念の聖騎士
果てしなく広がる湖が、静寂の中にその全貌を湛えていた。水面は一片の波紋もなく、まるで磨き上げられた鏡のように、天井に広がるダンジョンの淡い赤光をそのまま映し出している。空と地の境界は曖昧で、世界そのものが上下逆転したかのような錯覚を覚える。
湖の底は深く、覗き込めば吸い込まれそうなほどの蒼が広がっていた。その中を、異形の魔物たちが音もなく漂い、時折、鋭い鰭が水面をかすめる。水柱が無数に立ち上り、重力を忘れたかのように天へと昇っていく様は、まるでこの地が現実から切り離された異界であることを告げているかのようだった。
その湖の畔、黒曜石のように鈍く光るマナステーションが、天を突くように聳え立っていた。その影の下、白銀の甲冑を纏った一人の男が、静かに佇んでいた。名をサキュウス。聖騎士の威容を備えながらも、その瞳には焦燥と執念が滲んでいた。
「それで、進展はどうだ?」
「……確かに、ミリアリアの姿を見たと証言があった」
低く呟いたその声に応えるように、黒装束の女が音もなく現れる。漆黒の衣に身を包み、影のように気配を消すその姿は、まさに忍のそれだった。
「で、連れに銀の少女はいたのか?」
「いんや、確認できなかった。多分、一緒じゃないんじゃない」
「ほう……そう言い切れる根拠はなんだ?」
「私が、直接体に聞いた」
女はそう言って、腰の刃をわずかに抜き、血に濡れた刃先を月光にかざす。赤黒い液が、刃の縁を伝って滴り落ちた。
「人を騙すような奴だから、遠慮なんてしなかったよ」
「そうか……」
サキュウスはわずかに目を細め、湖面に映る自らの影を見つめた。そこには、かつての理想に燃えた若き騎士の面影はなく、復讐と執念に囚われた男の姿があった。
「んで、どうする?このまま追い続ける?これで徒労だったらさ、また笑いものだよー」
ユリの言葉に、サキュウスは顔をしかめた。だがその表情には、迷いではなく、確信に近い何かが宿っていた。
「……ミリアリアは銀の少女のことを何か知っているはずだ」
「サキュウス、何でそうまで、あいつに固執するのさ。ミリアリアなんて、ただの王族崩れでしょ?そんなトップシークレットに絡んでいるとは思えないけどね」
問いかけに、サキュウスは沈黙で応じた。言葉にすれば、己の感情が暴かれる気がした。だが、その沈黙はユリにとっては答えと同義だった。
「やれやれ……執着は身を滅ぼすよーもう」
「……で、奴のその後の足取りは掴めたのか?」
「うん、船を買って湖を渡ったみたいだけど…」
ユリの声がわずかに濁る。サキュウスはその違和感を逃さなかった。
「どうした?」
「……店主曰く、呪われている船を売りつけたそうなんだよー、あーあ、今頃……沈んでいるかもしれないよー?」
ユリの視線が湖へと向かう。水面は相変わらず静謐で、ただ水柱だけが天へと伸びていた。その先に何があるのか、誰も知らない。
「ふん……奴がそう簡単にやられるとは思えんな」
「えらい信頼だね」
「……っ」
「何、何?」
「信頼……だと?」
「うん、敵として、信頼しているんでしょ?」
「ユリぃいいいい! 私はぁ! 奴らに何度も煮え湯を飲まされているぅ!!信頼など!!微塵もなぁいぃい!!」
「い、いきなり大声を出すなって!驚くでしょ!!」
「ミリアリアァァ!フェイぃいい!!度重なる屈辱!!必ず晴らしてやる!!お前らの苦痛で雪いでやるぅ!!」
「はぁ……結局、私怨なんだな……」
「私怨ではない!奴らを捕え、情報を得ることが!!陛下の望みを叶えることに繋がるはずだ!!果ては帝国臣民の安寧へとつながる!!」
「だーかーら、そもそも、ミリアリアなんかが、トップシークレットに関わっていると思う、その根拠はなんだよ!?」
「ミリアリアは何かを企んでいる!!奴らの不可解な足取りが!そう告げているのだ!!」
「企むって、具体的には何さ?」
「知らん!!」
「…」
「ユリ!我らも船を手に入れ!追うぞ!」
「サキュウス卿」
「む!?」
その時、背後から静かに現れたのは、三角帽子を被り、黒のローブを纏った赤髪の女性
――マリーだった。
彼女の登場は、まるで湖面に立ち昇る水柱のように、静かでありながら異様な存在感を放っていた。
「船は手配しております。すぐにでも出発できましょう」
「流石だ!マリー卿!褒めてやろう!」
「はっ!勿体なきお言葉!」
「でもさ、もう、沈んでいるかもしれないし、私達も迂闊に湖に入ると危ないぞー?水龍の目撃証言が多いからね」
「構わん!水龍など、我の聖剣で斬り飛ばしてくれよう!!」
サキュウスが腰から抜き放った黄金の剣が、周囲の空気を震わせる。剣身から放たれる光は、まるで太陽の欠片のように眩く、天使の零落の薄暗がりを一瞬にして照らし出した。湖面に反射したその光が、まるで聖域のような幻想を創り出す。
「……やれやれ、女神様も目は節穴なのかな」
「何だ!?ユリ!?」
「いーえ、何でもないですよ……“勇者”様」
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