第27話:月光スフレと記憶の味


 果てしなく広がる湖の上、船は静かにたゆたっていた。水面は鏡のように滑らかで、ダンジョンの淡い赤色が空と混ざり合い、幻想的な世界を映し出している。澄みきった水の底には、異形の魔物たちがゆらりと蠢き、蒼の深淵がどこまでも広がっていた。水柱が天へと伸び、重力を忘れたように空へと水を運ぶ様は、まるで神話の一場面のようだった。


 その神秘の中心で、銀色の湯気がふわりと立ちのぼる。まるで湖の霧が形を変えたかのように、そこに佇むスフレは幽玄の霧を閉じ込めたような透明感を湛えていた。


 スプーンを入れた瞬間、空気のように軽やかに崩れ、淡い光を放ちながら静かに溶けていく。口に含めば、ひんやりとした感触の中に、ほんのりと甘く、どこか懐かしい風味が広がる。それは、幼い頃に見た夢の断片を味わっているような、心の奥に眠る記憶を呼び覚ます味だった。


 月光のしずくが織りなす繊細な甘さと、幽霊のエクトプラズムの儚い酸味が絶妙に絡み合い、一口ごとに現実と幻想の境界が曖昧になっていく。メグーの銀髪が月光を受けて輝き、彼女の表情はどこか安らぎに満ちていた。


「お、おいひぃ…」


 その一言に込められた感情は、言葉以上に深く、静かに胸に響いた。食べ終えたあと、胸に残るのは言葉にできない優しい余韻。まるで誰かの記憶がそっと寄り添ってくれているような、不思議な幸福感。怨念によって歪んだ魂が、食されることで浄化されていくのを、口の中で体感しているのだろうか。


「た、食べて…る?」


 ケビンは、自分が変換したアイテムを口に運ぶメグーの姿に、驚きと戸惑いを隠せない。彼の地味な外見とは裏腹に、その瞳には純粋な驚きが宿っていた。


「な、何を…している!」


 船上に響いたのは、ミリアリアの怒りを孕んだ声。金髪が揺れ、彼女の瞳は怒りと困惑に燃えていた。


「ミリアリアさん…」

「メグー…お前…なぜ、ケビンの前で自身のことを明かすような真似をした」

「ケビンは身を挺してお母さんを助けた。だから、信用することにした」

「何だ…それは!!!!」


 ミリアリアの声が湖面に反響し、まるで水柱がその怒りに応えるかのように一層激しく天へと伸びる。私は、冷静さを失った彼女を止めようとする。


「お、落ち着いてください。ミリアリアさん」

「これが落ち着いていられるか!信の置けぬ者の前で!何という真似を!」

「幽霊相手になすすべもなく気を失っていたミリアリアが、偉そうに言うの、違うと思うけれど」


「な…ぐっ」


 メグーの言葉に、ミリアリアは言葉を失う。拳を震わせ、悔しさを滲ませながらも、彼女の瞳には揺れる葛藤が見えた。


「…何だか、その」


 ケビンは申し訳なさそうに視線を落とす。


「ケビンさんがいなければ…みんな幽霊に殺されていたかもしれません」


 アニーの素朴な声が静かに響く。彼女の茶髪が風に揺れ、湖の光を受けて柔らかく輝いていた。


「そうね。お母さんの言う通りよ。ミリアリア、そんなに意固地にならなくてもいいと思う」

「メグー…お前の自身のことだぞ!?」

「ぼ、僕…メグーさんのこと、誰かに言ったりしません!そんなつもりは全然ないです!」

「それが信じられぬと言っている!」


 ミリアリアの言葉は鋭く、ケビンの心を刺す。私は、思わず叫んでしまった。


「ミリアリアさん!」

「アニー…」


「ケビンさんは…身を挺して私を助けてくれました。少なくとも、そういうことができる人です!」


「…チ、チンチクリン?でけェ声を出すなァ…あー…頭がいてェ…何だァ、この騒ぎはァ」


「オーグ、お前は黙っていろ」

「あ、姉御?」


 赤い肌のオーグは、状況を掴めないながらも、剣呑な空気を察して眉間にシワを寄せ、黙り込む。そんなオーグの様子を横目で見た後、ミリアリアさんは言う。


「…すまない。確かに、私は冷静でなかったようだ」


 深く息を吐き、ミリアリアはようやくいつもの冷静さを取り戻す。


「ケビン…取り乱してすまなかった。非礼を詫びさせてくれ」


「あ、いえ!そんな…頭を下げないでください!皆さんがいなければ、僕、とっくに死んでいた身なので」


「ケビンさん」

「アニーさん?」

「お、お礼を言わせてください。あ、あの時は…助けていただいて、あ、ありがとうございました」


 その言葉に、ケビンの瞳が潤む。彼の地味な姿が、今はどこか輝いて見えた。


「あ…あの…その…こんなに感謝してもらえるの…初めてで…えっと…その…」


 ミリアリアは、ケビンへの印象を改めているようだった。信頼を得て、感謝を受けて、涙を流せる者が、果たして人を裏切るだろうか。


「…分かった。ケビン」

「は、はい」


「お主の力は確かだ。我らにとって必要なものである」

「ミ、ミリアリアさん…?」

「お主が良ければ、正式に仲間に迎え入れたい。どうだろうか」


「え、良いんですか!?ぜ、ぜひ、お願いします!頑張ります!ありがとうございます!!!」


 ケビンは大粒の涙を浮かべ、何度も何度も頭を下げる。その気持ちは、私にも、どこか分かる気がした。


「あ、姉御、急にどういう変化だァ?」

「オーグ、訳は後だ。今は新たな仲間を迎え入れよう」

「お、おう。まァ、姉御が良いなら、俺は構わねェけどよォ…」


 オーグはまだケビンを信用しきれていないようだったが、それも時間の問題だろう。果てしない湖の上で、仲間の絆が静かに結ばれていく。後に「救世の英雄」として名を馳せるケビンの冒険譚は、これからの物語が語られることが多いだろう。


 そして…魔王の話も。

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