第25話:霧の中の影


 私たちの船は、まるで湖に溶け込むように、静かに陸地を離れた。全長二十メートルほどのその船は、重厚なオーク材で組まれ、幾度もの航海を経た傷跡が、船体の至るところに刻まれている。波に削られた船腹には、黒く光るタールが幾重にも塗り重ねられ、まるで過去の記憶を封じ込めるかのように沈黙を守っていた。


 水面は鏡のように滑らかで、空に浮かぶダンジョンの淡い赤が、まるで血のように湖面に染み込んでいた。澄みきった水の底には、異形の魔物たちがゆらりと蠢いている。その姿はどこか人の形を模しているようで、だが決して人ではない。底知れぬ蒼の深淵が、こちらを見上げているような錯覚に、私は思わず身をすくめた。


 一本マストには、淡く脈打つ魔石が括り付けられていた。そこから生まれる風が帆布を孕ませ、船体をゆっくりと前へと押し出していく。帆に染め抜かれた紋章は、今は亡き船主のものだろう。天使の零落が放つ光を受け、金糸が鈍く光り、まるで過去の栄光を静かに語っているようだった。


 船首に据えられた女神の像は、木彫りとは思えぬほど繊細な表情を浮かべていた。どこか憂いを帯びた微笑みが、波間の彼方を見つめている。だが、その眼差しには、言い知れぬ哀しみと諦念が宿っていた。私はその視線に射抜かれたような錯覚を覚え、背筋に冷たいものが走った。


「かなり年季の入った船ですね」


 ケビンさんの呟きは、どこか怯えを含んでいた。彼の目は、船体の傷跡をなぞるように泳いでいる。


「どうせなら、船を借りるのではなく買うことにした」


 ミリアリアさんが、いつものように凛とした声で応じた。金髪が風に揺れ、どこか気品を感じさせる。だが、彼女の無邪気な笑顔は、どこか現実から浮いていた。


「でも、いくら地龍の素材を換金したとはいえ、船とアイテムボックスがよく買えたわね」


 メグーちゃんが首を傾げる。銀髪が月光のように煌めき、彼女の無垢な瞳が不安げに揺れていた。


「うむ。この船は特価中で、アイテムボックスもおまけしてもらえたのだ」

「特価中…?」


 その言葉に、胸の奥がざわついた。嫌な予感が、冷たい指先で背中をなぞる。オーグさんも、ケビンさんも、同じ感覚を覚えたのだろう。顔を見合わせ、無言のまま頷き合った。


「あ、姉御ォ」


 オーグさんが珍しく声を荒げた。赤い肌がわずかに青ざめて見える。


「船が特価中だった理由、何かァ聞いてねェのか?」

「む?何を気にしている?質問の意図がわからんぞ」


 ミリアリアさんは首を傾げる。無垢な瞳が、まるで世間知らずの姫君のように、疑問を浮かべていた。


「普通…船は特価にならねェ」

「そうです。船が特価になるってことは…」

「い、いわ、いわく、つき!!」

「てことですよ!」


 私たちの声に、ミリアリアさんとメグーちゃんが顔を見合わせる。だが、まだ事態の深刻さに気づいていないようだった。


「いわくとはなんだ?」

「座礁した船…つまり!乗っていた人が死んだ後ってことです!」


「ふむ。それで?」

「何を言いたいのよ」


 その無頓着さに、私たちは思わず叫んだ。


「出るってことだよォ!姉御ォ!!」

「出るかもしれないんです!!」


「出るって何が?」


 キョトンとしたミリアリアさんと、怪訝そうに眉を顰めるメグーちゃん。


「お、おば、おば、お化け!!」

「幽霊に決まってんだろうがァ!!」


「「幽霊?」」

「ミリアリアさん!メグーちゃん!この船は…ゆ、ゆう、幽霊船かも、です!!」


「「幽霊船??」」


 その瞬間、空気が変わった。水面に映るダンジョンの赤が、まるで血のように濃く染まり、船体を包むように霧が立ち込めていく。


「幽霊とは…つまり、死後の魂が邪悪に染まり、人を恨み、世に出たアレのことか?」

「そうです!…アレ?」

「うむ。お主の背後におるだろう」


「…え?」


 振り返ると、そこには確かにいた。人の形をした、しかし輪郭の曖昧な影。湖の底から這い上がってきたかのような、冷たい気配が肌を刺す。


「…」


「「「ぎゃぁぁっぁっぁぁぁぁぁ!!!」」」


 私とケビンさん、オーグさんの悲鳴が、静寂を切り裂いた。影は音もなく霧とともに四散し、視界は白に包まれる。


「む!魔物の襲撃か!?」

「これが幽霊?」


 ミリアリアさんとメグーちゃんの声が、霧の中から響く。だが、これは魔物ではない。もっと根深く、もっと陰湿な、怨念の類だ。


「囲まれているわね」

「あわわわ…お、お、お化け!」

「お母さんは私から離れないで!」

「は、はひ!」

「っ!?」


 そんな時だ。

 メグーは霧を掴むようにして手を伸ばすと、霧の奥から聞き覚えのある男性の声がする。そして、メグーちゃんが伸ばした手を引っ込めると、その先には胸倉をつかまれたケビンさんの姿があった。


「お、おわ!」

「何よ、ケビン、驚かさないで」

「ぐ、ぐえ…は、はなじでぐだざい」


 メグーちゃんは、ケビンさんを掴んでいた手を離すと。


「あ、あの…」


 ケビンさんは震える声で続ける。


「えっと…その…どうやら、この幽霊」

「ねぇ、冗談はやめて」


 メグーちゃんは嫌な予感がしたのだろう。ケビンさんをけん制するように言う。


「すみません。でも、幽霊に…僕のスキルが使えるみたいです」


 彼のスキルが幽霊に反応しているのは事実。

 つまり、幽霊をアイテムに変換できる可能性がある。これは状況を打開する一手となり得る。


「ミリアリアさん…どうします?」


 私は判断を彼女に委ねた。だが──


「ミリアリアさん?」


 返事がない。霧の中、彼女の気配が消えていた。


「ミリアリアさん!オーグさん!」


 私は2人の名前を叫ぶが、どちらからも返事がない。


「この霧…空間魔法の一種みたい」

「空間魔法?」

「うん。アイテムボックスみたいなもの」


「私達がアイテムボックスの中にいるってこと?」

「そうね」


 メグーちゃんの声は冷静だったが、その瞳には警戒の色が浮かんでいた。


「ミリアリア、とんでもない物、買ってきてくれたわ。そういえば、そういう所はどこか抜けているだった」

「ミリアリアさん…そんな弱点が」


 彼女の威厳の裏に、どこか世間知らずな一面があったことを、今さらながら思い出す。

 私とメグーちゃんが状況の打開策を考えていると、ケビンさんが繰り返し尋ねてくる。


「そ、それよりも…スキルはどうします!?」


「スキル?」


「はい…えっと、アニーさんの許可があれば、幽霊をアイテムに変換できそうです」

「ねぇ、待って、幽霊なんて、流石に嫌よ」

「メグーちゃん。で、でも、もしかしたら…美味しいかも」

「絶対にイヤよ!」


 メグーちゃんがゾワっとしながら言う。

 まさか、幽霊すらも彼女の食べ物にできるとは思いもしなかった。

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