第13話:拾われたスキル


 薄暗いダンジョンの空気は、湿り気を帯びて重く、まるで肺の奥にまで染み込んでくるようだった。苔むした石壁からは水滴がぽたりぽたりと落ち、静寂の中に不気味なリズムを刻んでいる。空間を満たすのは、沈黙と、どこか遠くで蠢く気配だけだった。


 茶髪の青年――

 ケビンは、怯えた小動物のように肩をすくめていた。背は低く、頼りなげなその姿は、まるでこの場所にいること自体が場違いであるかのようだった。オーグに救い出されたばかりの彼は、仲間とはぐれ、ひとりでこの〈天使の零落〉を彷徨っていたという。顔には泥と汗がこびりつき、目の下には深い隈が刻まれていた。恐怖と疲労が入り混じったその表情は、今にも崩れ落ちそうだった。


「ならんな」


 先行して偵察を終えたミリアリアが、冷たい足音とともに戻ってくる。その姿はまるで白銀の月光を纏った女王のようで、金色の髪が揺れるたび、空気が張り詰めた。

 ケビンはすがるように彼女に近づき、震える声で訴えた。


「お、お願いです……仲間に、加えてください……!」


 その声には、必死の思いが滲んでいた。だが、ミリアリアの蒼い瞳は一切の情を見せず、氷のように冷たく彼を見下ろした。


「冒険は自己責任だ。我らも命を懸けている」


 その言葉は、まるで凍てつく刃となってケビンの胸を貫いた。彼の顔から血の気が引き、唇がわなわなと震える。


「そ、そんな……!こ、こんなところで1人にしないでください……!」


 声が裏返り、ダンジョンの静寂を破るように響き渡る。だが、ミリアリアは眉ひとつ動かさず、まるで石像のように冷ややかだった。


「我らの目的はこの奥にある。引き返すことはできない」


 その断言に、ケビンの膝がわずかに震えた。絶望が、彼の背を押し潰そうとしていた。

 私は思わず口を開きかけた。だが――。


「おう、チンチクリン、黙ってろォ」


 低く、地鳴りのような声が空気を裂いた。オーグだった。赤銅色の肌に浮かぶ筋肉の隆起が、まるで岩のように硬く、彼の存在そのものが威圧感を放っていた。鋭い眼光がケビンを射抜き、空気が一層重くなる。


「……姉御、俺も反対だ。こいつは……言っちゃ悪ィが、信用ならねェ」


 ミリアリアは何も言わず、ただ静かに彼を見つめた。その沈黙が、オーグの言葉を肯定しているように思えた。


「いざって時にィ、人を裏切る。そういう連中と同じ匂いがすんだよなァ」


「……オーグ、言い過ぎだ。無礼は慎め」

「へいへい」


 オーグは肩をすくめて引き下がるが、視線はなおもケビンを刺していた。


「そ、そんなことはありません!ぼ、僕は……必ず恩を返します!」


 ケビンは声を張り上げた。だが、その声は焦燥に満ち、制御を失っていた。彼の不安と混乱が、場の空気をさらに不穏に染めていく。


「……ケビン殿。ここはダンジョンだ。大声は慎んでほしい」


 ミリアリアの静かな叱責に、ケビンは顔を青ざめさせ、深々と頭を下げた。その瞬間、私の背で小さな気配が動いた。


「うーん……」


 メグーだった。銀色の髪が揺れ、眠たげな瞳がぱちくりと瞬く。


「おかあさん……おなかすいた」

「うん、ちょっとだけ我慢しようね。お話が終わったらね」

「おはなし?」


 メグーは不思議そうに首を傾げると、私の肩からひょいと飛び降り、まっすぐケビンのもとへ駆け寄った。


「いいニオイ!」

「匂い……?」

「うん!」


 メグーはケビンの腰の道具袋を指差し、無垢な笑顔を浮かべた。ケビンが戸惑いながら袋を開けると、乾いた茶色の物体が現れる。


「わー!」

「……キミ、それが何かわかるの?」

「たべもの!」


 その一言に、場の空気がわずかに和らいだ。だが、ミリアリアとオーグは依然として警戒を解かず、視線を交わしていた。


「……ケビン殿、それは?」

「これ……ですか? 僕のスキルでリンゴから生成したものです。何かは……わかりません」

「リンゴから生成……。差し支えなければ、貴殿のロールを教えてもらえないだろうか」

「僕のロール……ですか?」


 ケビンは視線を泳がせ、唇を噛んだ。そして、意を決したように顔を上げる。


「…僕を仲間にしていただけるなら、お教えします」

「そうか。ならば構わん。皆の者、進むぞ」

「おう。んなもんが、交渉材料になるとでも思ってんのかァ?お前ェ」

「ま、待ってく、ください!」


 私の声に、ミリアリアとオーグが振り返る。苛立ちを隠しきれない表情が、彼らの焦燥を物語っていた。


「わ、私…何も…できていません…足手纏いで…」

「チンチクリンよォ、だからァ、何が言いてえェ?」


 オーグの鋭い視線がアニーを射抜く。だが、彼女は震える声で、それでも言葉を紡いだ。


「わ、私も、た、助けてもらいました!だ、だから、私、も、人を助けられるような…す、すごい人になり、たい…です!」


 その言葉は、震えていたが、確かな意志を宿していた。


「…おう。かっけェこと、言うじゃねェか」


「こ、ここで…ケ、ケビンさんを…置いていったら、そ、そんな自分に…2度と成れない…そ、そんな気、気がして…えっと、そ、その!私、頑張ります!しゅ、出世払いです!だ、だから、ケ、ケビンさんを連れて行ってください!」

「…出世払いか」


 ミリアリアが静かに口を開いた。


「ケビン殿」

「は、はい!」

「貴殿のロールを教えてほしい。我らも必死だ。ただ連れていくことはできん。それはわかるな?」

「僕ができることなら…何でもやります。で、でも…」

「でも?」

「僕のロール……料理人です!でも、スキルは何の役にも立たなくて…リンゴや魔物の死骸を…変なアイテムに換えることしかできません」


 その言葉に、ミリアリアの眉がわずかに動いた。蒼い瞳がケビンを見据える。彼女の視線は、まるで心の奥底まで見透かすようだった。


「……変なアイテム、とは?」


 ミリアリアの問いに、ケビンは道具袋からアイテムを取り出す。


「こ、これ、リンゴから生み出したアイテムで…名前は"アップルパイ"です」

「それ、たべたい!」


 メグーが目を輝かせて叫んだ。彼女の銀色の瞳が、まるで星のように煌めいている。


「……メグー、後でな」


 ミリアリアが小さく微笑んだ。ほんの一瞬、氷のようだったその表情に、柔らかな光が差した。


「た、たべたい?」


 ケビンはメグーの言葉に怪訝な顔を示していた。


「……ケビン殿。貴殿のスキルが、我らの助けになるかは未知数だ。しかし、アニーの言葉もまた、無視できぬ」


 ミリアリアは静かに言い、視線をアニーに向けた。アニーは驚いたように目を見開き、そして小さく頷いた。


「出世払い、か。面白い。ならば、試してみるがいい。だが、覚えておけ。これは情けではない。貴殿の力を見せてもらう」


「は、はいっ!ありがとうございます!」


 ケビンの顔に、ようやく安堵の色が浮かんだ。だが、その目にはまだ不安が残っていた。彼は自分の価値を証明しなければならない。それが、彼に与えられた最後の機会だった。


 そのとき――。

 空気が震えた。

 地の底から響くような唸り声。壁の向こうから、何か巨大なものが這いずってくる音が聞こえる。


「けっ、そりゃあ、こんだけ長話してりゃァ、寄ってくるよなァ」


 オーグが舌打ちし、背中の大斧を引き抜いた。刃が闇の中で鈍く光る。


「アニー! メグーを頼む! オーグ、陣形だ!」

「了解だァ!!」


 ミリアリアさんが前を、オーグさんが後ろを固める。

 私はメグーちゃんの手を取り、ケビンさんとともに中央に身を寄せた。


「ど、どうしたんですか……?こ、この音!?ま、まさか」

「魔物だァ、もう1戦交えるぞォ」

「や、やっぱり!?」

「だ、大丈夫そうですか?」

「当たり前だァ!くはははは!お次はミスリルトータスなんかよりも、やべェ気配がするぜェ」


 オーグの口元が吊り上がる。戦いを前にした彼の顔は、まるで戦神のように凶悪で、しかしどこか楽しげだった。


 そのとき、ダンジョンの奥から、ぬるりと這い出すように現れた影があった。空気が一変し、緊張した空気が肌を刺す。


「……来たな」


 ミリアリアが剣を抜き、静かに構える。その姿は、まるで嵐の前の静けさのように美しく、そして恐ろしかった。

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