第12話:捨てられた命、拾われた声


 龍暦648年──

 72柱目の龍が現れることはなかった。

 それは、神が人々を赦した証とされ、世界に安堵と戸惑いをもたらした年だった。


 その年を境に、奇妙な変化が起こり始める。

 新たに生を受けた者たちの中に、これまで記録されたことのない“ロール”を授かる者が現れたのだ。


 彼らのロールは、“ユニーク”。

 あるいは“レア”と呼ばれ、希少性ゆえに重宝され、強力なスキルを備えていると評された。


 ──ユニーク。レア。

 その響きは、人の心をたやすく惑わせる。

 耳にした瞬間、胸が高鳴り、心が浮き立つ。

 まるで、それだけで自分が特別な存在になったかのような錯覚すら抱かせる。


 だが──

 珍しいというだけで、有用とは限らない。


 僕のロールが、その最たる証だった。


 女神は、なぜ僕にこのスキルを授けたのだろう。

 何を期待し、何を託したのか。

 その意図すら、無知な僕には掴めなかった。



 …空気は重く、湿っていた。

 まるで水底に沈んだ古代の遺跡に迷い込んだかのように、息をするたびに肺が濁った水で満たされていくような錯覚に陥る。

 白い大理石の柱はひび割れ、苔に覆われ、そこかしこに咲く血のように赤い花が、場違いなほど鮮やかに空間を染めていた。


 遠くから、ぽたり、ぽたりと水滴の音が響く。

 それはまるで、誰かが静かに泣いているような、寂しげで、どこか哀しい音だった。


 ここは「天使の零落」。

 神聖と狂気が交錯する、世界で最も危険とされるダンジョンの第一層。

 その異様な空間の中心に、僕は立ち尽くしていた。


「……ま、待ってください!こんなところで僕をパーティーから外すなんて、あんまりですよ!」


 声が震えた。

 それは恐怖でも怒りでもなく、ただ必死だった。

 縋るような思いで放った言葉は、ゴツゴツとした背中に向かって投げつけられる。


 その背中が、ゆっくりと振り返った。


 スキンヘッドの男──ガルド。

 ゴリラのような体躯に、鋭い目つき。

 その顔には、怒りと軽蔑が入り混じった、冷たい表情が浮かんでいた。


「てめぇがゴミみてぇなスキルを隠していたからだろうが!」


 怒声が空間を裂く。

 その言葉は刃のように鋭く、僕の胸を容赦なく抉った。


「そ、それは……でも、正直に話しましたし!それでも良いって!こうして荷物を持って、ここまで来たじゃないですか!?」

「しょうがなくだ!しょうがなく!!最初から、てめぇのロールがゴミだってことを知っていりゃ、荷物持ちだって、もっとマシな奴を連れて行くわ!」

「そ、そんな…」


 ──確かに、本当のことを話していたら、ここまで来られなかった。


 僕のロール──料理人。

 教会が設立されて以来、初めて発現したユニークロール。


 ユニークというだけで、周囲は勝手に期待した。

 だが、実際にはリンゴや死んだ魔物を、用途不明の物体に変えるだけ。

 “料理”という言葉に、どんな意味が込められているのかすら、僕には分からなかった。


 無能。

 その一言で、すべてが片付けられるロールだった。


「何が“料理人”だ!リンゴをこんなもんに変えて、何の役に立つってんだよ!」


 ガルドは、僕がスキルで変換した茶色い物体を手に取り、握りつぶした。

 ぐしゃりと、鈍く湿った音が響く。

 中身が地面に落ち、土に染み込んでいく。

 それは、かつてリンゴだったものの、哀れな成れの果て。


 僕は、ただ立ち尽くしていた。

 心臓が、痛いほどに脈打っていた。

 恥ずかしさ、悔しさ、そして──何より、怖かった。


「が、頑張りますから!ぼ、僕にできることは何でもやります!だ、だから!こんなところで置いてけぼりはやめてください!」


「うるせぇ!」


 その瞬間、鉄板にタワシを擦りつけたような、耳障りな音が空間に響いた。

 ──魔物だ。


「ぐっ!ミスリルトータス!?」

「っ!?」


 ガルドの顔が青ざめる。

 その名を聞いた瞬間、僕の背筋も凍りついた。

 あの魔物は、僕たちのような半端者が相手にできる存在ではない。


「に、逃げましょう!!」


「…」


「ガ、ガルドさん!?」


 その時、不意にガルドの手が僕の肩を突き飛ばした。

 僕はバランスを崩し、尻餅をつく。

 石畳の冷たさと痛みが、現実を突きつけてくる。


「いててて……な、何をするんですか!?」


「少しぐらい…役に立て!」


 その言葉を最後に、ガルドは踵を返し、迷いなく走り去った。

 ──僕は囮にされたのだ。


 地面が、ずしん、ずしんと揺れる。

 それは、魔物の足音。

 恐る恐る振り返ると、そこにいたのは──


「ぎゃああああ!!」


 金色の亀の魔物。

 像のように巨大なその姿は、背中にミスリルの甲羅を背負い、淡く輝く魔力の光を放っていた。

 顔は人のようであり、その表情には苦悶を浮かべている。

 異形の存在は、まるで神の呪いを受けた人面亀のようだ。


「キルルルルルルル!!!」


 金属と金属が擦れ合うような、耳を裂く鳴き声。

 僕の足はすくみ、声も出なかった。


 だが──次の瞬間。


 閃光。

 そして、爆ぜるような衝撃音。

 金色の巨体が、まるで花火のように四散した。


「てめェ、魔物に襲われてたんかァ?」


 背後から聞こえたのは、野太く乱暴な声。

 振り返ると、赤い肌の鬼人族の男が、拳を振り下ろした直後だった。


「……は、はぁれ?」


「大丈夫かァ?目の焦点が合ってねェな、おめェ」


 彼は僕の手を掴み、乱暴に、だが確かな力で引き起こす。

 まるで、さっきの魔物など取るに足らぬ存在だったかのように。


「たひ、たひけ、て、いた、だ、いて、あり、ありありがとう、ござ、いま、す」

「おう、大丈夫かァ?何だかチンチクリンみてぇな奴だな」


 混乱していた思考が、少しずつ現実に引き戻されていく。


「は、はい……無事です。すみません。助けていただいて…ありがとうございました」

「おう、ここの魔物はつえェ、気ィつけろぉ」


 そう言うと、彼は十字路の奥へ向かって怒鳴った。


「おう、チンチクリン!早くしろォ!」


 その声に応えるように、女性の声が響く。


「オーグさん!はは、早いです!もうちょっと、ゆ、ゆっくり!」

「ああん!?チンチクリン、なんでェ、俺様がてめェに合わせねといけねェんだァ!?」

「こっちにはメグーちゃんがいるんですぅ!もうちょっと考えてください!」

「いるです!!かんがえて!!」


 十字路の奥から姿を現したのは、地味な服装に身を包み、前髪で目元を隠した茶髪の女性──アニー。

 その後ろには、銀色の髪と瞳を持つ、神秘的な雰囲気を纏った少女──メグーが、静かに歩いていた。


 アニーは僕を見るなり、はっと目を見開いた。

 その視線には驚きと、どこか怯えにも似た戸惑いが浮かんでいた。


「ひ、人が……襲われていたんですか……?」

「おうよ。魔物に囮にされてたみてェだが、運が良かったな。俺様が通りかかったからよォ」


 オーグは豪快に笑いながら、僕の背中をバンと叩いた。

 その衝撃で、またよろけそうになる。


「だ、大丈夫ですか……?」


 アニーが恐る恐る近づいてきて、心配そうに見つめてくる。


「だ、大丈夫です!……ありがとうございます!」


 僕の声はかすれていた。

 けれど、その言葉には、心からの感謝が込められていた。


 メグーは僕をじっと見つめていた。

 その銀の瞳は、まるで心の奥底まで見透かすような、静かな光を湛えていた。

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