第11話:零落の門が開くとき


 馬車が軋む音を立てながら神殿の前に止まると、私はそっと御者台から降りた。


 冷たい石畳に足を下ろした瞬間、靴底から伝わる冷気が、まるで神殿の威圧感そのもののように感じられた。


 目の前には、重厚な石造りの神殿がそびえ立っている。

 その前には、鎧に身を包んだ冒険者たちが集まり、低く交わされる会話や武具の擦れる音が、緊張感を孕んだ空気の中に溶け込んでいた。彼らの顔には、幾多の戦いをくぐり抜けてきた者だけが持つ、鋭さと疲労が刻まれている。それでも、誰一人として気を抜いてはいなかった。この場所が、命を賭けるに値する“何か”を秘めていることを、皆が知っているのだ。


 私は無意識に肩をすくめ、身を縮めた。

 寒さのせいではない。

 胸の奥に巣食う不安と緊張が、私の体温を奪っていた。


「……寒いのか?」


 そのとき、ミリアリアさんの静かな声が、私の耳元に届いた。

 彼女の声は、冷たい空気の中でも不思議と温かく、私の心をそっと包み込んだ。


「あ、いえ……大丈夫です!」


 そう答えたものの、声がわずかに震えていたのを、自分でも感じた。


「おうゥ、チンチクリン。こんなとこで、風邪ェなんて引くんじゃねェぞ」


 オーグさんの豪快な声が、場の空気を少しだけ和らげた。

 その言葉の裏にある優しさを、私はようやく感じ取れるようになっていた。


「おかあさん、だいじょうぶ?」


 メグーちゃんが心配そうに私の手を握る。

 その小さな手の温もりが、私の心にじんわりと染み込んでいく。


「うん、大丈夫だよ。ありがとう、メグーちゃん。オーグさんも……ありがとう」


 私は微笑みながら、メグーちゃんの銀色の髪をそっと撫でた。

 その髪は月光のように柔らかく、指先に絡むたびに、少しだけ勇気が湧いてくる。


「けッ」


 オーグさんはそっぽを向いたが、その耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。

 ぶっきらぼうな態度の裏にある不器用な優しさ――

 それに気づいたとき、彼の存在が少しだけ身近に感じられた。


「んだァ、そのツラァ!?」


「な、なななな、なんでもないですっ!」


 慌てて顔を背けると、ミリアリアさんが小さく笑ったのが見えた。

 その笑みは、どこか母のような包容力を感じさせ、私の緊張を少しだけ和らげてくれる。


「うむ。問題ないならば行こう。ただし、無理はするな。それは皆も同じだ」


「はい!」


 私たちは一列になって、神殿の正面へと歩を進めた。

 “天使の零落”――その名を聞くだけで、心がざわつく。

 世界で最も危険とされるこのダンジョンに、今まさに足を踏み入れようとしているのだ。


 入り口では、冒険者ギルドの受付が設けられていた。

 本来、冒険とは自己責任であり、どんな危険な場所に挑もうと、それは冒険者の自由である。

 だが、この神殿だけは違った。

 力なき者が足を踏み入れれば、即座に命を落とす。

 その現実が、受付という異質な存在をこの場所に必要とさせたのだ。


 神殿の扉の前には、銀の鎧を纏った騎士が2人、無言で立っていた。

 彼らの眼差しは鋭く、まるで人の心の奥底を見透かすかのようだった。


 私たちの姿を認めると、彼らは拳を胸に当て、深々と頭を垂れた。


「ミリアリア殿。お待ちしておりました」


 その声には、敬意と緊張が滲んでいた。

 ミリアリアさんは無言で頷き、懐から1通の書状を取り出す。

 それは、教会の紋章が刻まれた、重みのある封書だった。


 騎士がそれを受け取り、もう1人の騎士へと手渡す。

 その騎士は書状を開き、目を走らせた後、私とメグーちゃんを交互に見つめ、眉をひそめた。


「……良いのか?」

「これでは断れん。通せ」

「……わかった」


「ミリアリア殿とそのお連れの方々。ご存知の通り、冒険は自己責任です。よろしいですね?」

「うむ。無論だ。覚悟はできている」

「では……」


 重厚な扉が、鈍い音を立てて開かれる。

 その隙間から、まるで異界から吹き出すかのような冷気が、私たちを包み込んだ。


「……っ」


 私は思わず唾を飲み込む。

 この先に何が待ち受けているのか――

 想像するだけで、足がすくみそうになる。


「ゆくぞ」


 ミリアリアさんの背中が、凛とした光を放っていた。

 その姿は、まるで夜明け前の星のように、暗闇の中で確かな道を示していた。


 私はその背中を見つめながら、胸の奥で小さく誓う。

 ――私も、いつか。

 あの人のように、誰かを導ける強さを持ちたい。


 神殿の内部は、外の世界とはまるで別の空間だった。

 天井は高く、闇が深く、壁に灯された魔力灯が、かすかな光を放っている。

 その光は、まるで命の灯火のように頼りなく、しかし確かに私たちの足元を照らしていた。


 奥へ進むたびに、空気は重くなり、肌にまとわりつくような魔力の濃度が増していく。

 まるで、神殿そのものが私たちを試しているかのようだった。

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